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【人生の午後】成熟を考える。

 「精神年齢が幼い」、「子供おじさん」、「人としての成熟」、「現実を見ろ」

 これらのことを言われた事が未だに頭に残っています。これまで何度か発達障害と子供っぽさの関連性ついて触れてきましたが、今回は本格的に成熟について考えてみようと思います。

 自分の中で成熟についての基準がいまいち定まりきっていないのですが、今回は『「本当の大人」になるための心理学 心理療法家が説く心の成熟』が参考になったので、こちらをベースに考察していきます。


 人生の前半においては、仕事の業績を上げるとか、地位を獲得するとか、結婚して子どもを育てるとか、家を買うとか、そういう「外的な事柄」にもっぱらエネルギーを向けるのですが、人生の後半に入っていくと、内面に意識が向かい始めます。(中略)
 今度は内面的な作業にエネルギーを費やすようになる。これが「人生の午後」の大きな特徴です。
 「自分の生まれてきた意味は何だろうか」と人生の意味を問うたり、「私はこのままの生き方をしていて本当にいいのだろうか」と自分の内側に向かって問い確かめたり」(中略)と自分の人生に与えられた使命や役割を問い始めたりするのです。

 自分としては、「外的な事柄」はOTの資格を取得した、パソコンや車を買った事などでしょうか。他のもっと大きな事柄のピースは現段階では整っていないと感じます。そして人生の意味としては「障害者になった」ことは一種の運命的な役割を感じていますし、内面的な作業だと思っています。
 最近、とある群れを離れたのですが、その集団はいかに「外的な事柄」を達成するかに注力していると感じられ、そのアグレッシブなエネルギーに自分がついていけなくなりました。肌感覚的に波長が合わなくなったと言ったところでしょうか。


 「私はどうしたいのか」という問いから、「自分の人生に与えられた使命は何か」、「自分の人生に与えられた意味は何か」、「人生は私に何を問うてきているのか」という問いへと、問いそのものが転換してくるのです。

 去年、価値観マップを作成する過程で、「私はどうしたいのか」という問いに対しては、ある程度の輪郭は浮かび上がり、「何をしたいか」が掴めてきました。そして「障害者という立場」になったことは、「自分の人生に対する問い」なのかなと現段階では感じています。


 成熟している人間は、①自分の感情を内面に保持できる。そして、②自分の感情をコントロールできる。このふたつが成熟していることの大きな特徴です。
 時折、いきなりキレて、一方的に怒鳴り始めるおじさんがいる。(中略)自分の否定的な感情をコントロールできていないからです。これを「アクティングアウト」(行動化)と言います。アクティングアウトせずに、自分の感情を内面に保持できるかどうか。これが人格の成熟/未成熟を分かつものの一つです。 

 これは指標としてわかりやすいです。歳を重ねても自分の怒りの感情をコントロールできずに、怒鳴り散らす、物に当たる、暴力を振るう人に対しては子供っぽいなと感じます。知的障害、発達障害を抱えていると、内面で起きている激しい葛藤の整理が上手くいかず、特性による自己制御の困難さ故に行動化に至りやすい側面もありそうです。


 未熟な人は他人にわかってもらうこと、他人にリスペクト(尊重)されることを当然のように求めます。自分は人からリスペクトされて当然だという思いがあるのです。
 未熟な人ほど、他人からの評価を求めます。逆に言うと、「人格が成熟する」ということは「他人に求めなくなる」ということです。「他人に求めなくても、自分は自分で認めているから、自分一人で立っていられる」(自立)ということなのです。
 自己肯定感を持って、自分はこれでいいのだという感覚を持って生きていくことができる。 声が真に「自立した大人」=「成熟した人格の大人」です。それが持てないということは「大人としての未熟さ」の証です。 

 これらを読んで思いついたキーワードが「承認欲求」、「自己愛性パーソナリティー障害」、「分離不安」、「課題の分離」、「障害受容」です。他人からの肯定的評価、尊重を不毛に求め続けることへの「生きづらさ」に気づいてから、自身が抱えている「承認欲求」と向き合うことにしました。

 その欲求に向き合うことで「分離不安」や「自己否定感」の存在に気づき、その要因は愛着の影響もあるのかもしれません。

 自己肯定感が育まれた過程の一つに間違いなく「障害受容」は大きな役割を果たしたと思っています。

 尊重について現在は特段求めていないですが、それよりも簡単に「無礼を働かれる」事が特に嫌です。「無礼を働かれる」ことを当たり前に承認すると、その後は容易に”いじり”からの「いじめ」につながるなとこれまでの経験から感じます。そうは言っても相手を変えることは困難なので、必然的に自分から接触頻度を下げるしか方法はないでしょう。


 人格が成熟した人は、自分の弱点をある程度見せても平気です。自分の弱点を人に見られたくない、人に助けを求めることができない。そのこと自体が未熟さの表れです。

 自分は援助希求が苦手ですね。自立しなければならない。何でも自力でできるようにならなければならず、迷惑をかけてはいけない思いが強いのかもしれません。弱点を見られたくないのは、攻撃を受けたことによる対人不信が未だに残っているのかもしれません。


 成熟した大人、中高年の作法の一つは、相手にも配慮しながら自分の思いや考えを伝える「アサーション」という方法を身に付けることです。「アサーション」は自分も相手も大切にする表現のスキルです。

 AS傾向だと相手の意図や感情を汲み取ることが苦手で、気付かぬうちに無礼な対応をしがちかもしれません。そこで「アサーション」という方法を身に付けることで、他人の意図や感情を十分に察せずとも、丁寧なコミュニケーションが取れるようになるかと思います。型を身に付けることで「礼儀」を伴った関わり方が可能に思えます。 


 「完全主義者」、「努力至上主義者」は、心が子どものまま。
「完全主義」や「理想主義」は人格の未熟さの現れです。
 真に成熟した人格の持ち主は、未来志向性よりも現在志向性が強い。「今」の充実を大切にします。一方、未成熟な単なるまじめな人というのは未来志向性が強くある。何歳になっても、心は子どものままで、未来の目標達成のために現在のこの瞬間を犠牲にしています。子どもの時の優等生主義にままに生きていて、そこから脱却できない未熟な人なのです。

 ASD者の持つ「こだわり」は時に完全主義者とも捉えられがちです。良い方向に働くこともありますが、この本によると未熟さの現れとされており、自分も自分や他の当事者の「こだわり」への固執性に対し、何らかの未熟さが含まれていると感じます。
 自分もまだ子どもの頃の優等生主義とこだわりも強く残っていることから、「完全主義」「理想主義」に陥りやすく己の人格の未熟さを認めます。


 「人間というのは、自分の幸せを探求している間は幸せになれない。幸せは追いかければ追いかけるほど、逃げていく。逆に自分が取り組むべき何かに我を忘れて取り組んでいる時、自分の人生に与えられた『使命』に我を忘れて取り組んでいるときに、幸福は結果として、自ずと、自然発生的な現象としてやってくる」

 「幸せになりたい」、こう口走る人に違和感を感じていました。おそらくその姿勢では「幸せ」になれないだろうと感じましたが、この本にも書かれており、同じ考えの人がいることに一種の安堵を感じます。「幸せ」の基準は人それぞれで、漠然とした定義に思えます。
 やはりどこかのタイミングで「やりたいこと」「夢中になれること」を見つけて継続することが大切になるでしょう。結果的にそれがいわゆる「幸せ」を感じられる状態になるのかもしれません。


 人格が成熟するためには、「垂直性(心の深みの次元)を生きる」ことが大切です。垂直性を生きるー精神性の深みを生きるようになることが必要です。
 そして、垂直性の次元を生きるようになるためには、それに先立ってまず、水平性(他者との関係性の次元)に心の中心軸を置くのをやめること、他者との表面的な関わりに軸を置いて生きるのをやめることが必要です。それが可能になるためには、「すべての人にわかってもらおう」とする未成熟な万能感を捨てること。「人はわかってくれないもの」だし「わかってくれる人にだけ、わかってくれれば、それで十分だ」という心構えを身に付けることです。

 かつての自分は、「多くの人にわかってもらいたい」という思いがありましたが、それは不可能だと気づきましたし、承認欲求に気がついたこと、障害受容をしたことで、「無理にわかってもらう必要もないな」と考え方を転換しました。それも生きづらさが軽減したことの一つになったと実感しています。

 その一歩として何が大切かというと、水平性の次元を切断すること。余計な人間関係を切ることが必要になります。これはいわば人間関係の断捨離です。余分なものを捨てるのと同じように、余分な人間関係のしがらみを捨てる。断ち切る。人に助けを求めないといのちに関わる状況でもない限りは思い切ってそれを切断しないと、内面性、精神性へと意識は深まっていかないのです。「いざとなれば、誰にもわかってもらえなくていい」「わかってくれる人がいなくてもいい。私は私でやっていける」こうした、ある種の「割り切り」、「嫌われる勇気」が必要になってきます。 

 最近、「人間関係の断捨離」をテーマにしたので、まさか本からも「人間関係の断捨離」という言葉が出てきたことに一種のご縁を感じます。
 僕の場合は「この共同体の人々に自分のことを無理に分かってもらう必要はないな」という割り切りがありました。ですので断捨離を決めたら、わりとスパッと実施した感があります。今回に限らず、これまで何回か人間関係を断つようなことをしましたが、その時に考えていたことは「この人(彼ら)に自分を理解してもらう努力が必要だろうか」ということでした。「理解を得る」労力は決して小さなものではなく、それにリソースを注ぎ込むなら、他の自分のなすべき課題に取り組んだ方が賢明だろうと判断しました。

心が未熟な人というのは、言葉を換えて言うと、「万能感にあふれた人」です。(中略)
 では、未熟な人にはどういう万能感があるのか。代表的なのは、「がんばっていれば人は理解してくれるはずだ」、「努力していれば人は理解してくれて当然だ」という考えです。この万能感は努力家に多いものです。努力に過剰に価値を置いている。勤勉な努力家の多くは、自分のその努力することにあまりにも大きな価値を置いているのです。(中略)
「人にわかってほしい」、「リスペクトしてほしい」という気持ちが強ければ強いほど、人格が未熟な証拠なのです。

 「努力が報われるべき」といった考えに重きが置かれてしまうのは、「強制された努力」であり、わかってもらったり、リスペクトされなければ報われない思いがあるのかと思います。誰かに強制された訳でもなく好きでやっているなら、そこまで「理解してもらいたい」「リスペクトされたい」といった思いは正直それほど出てこないのではと思いました。もしかすると、自己決定に基づいた努力の選択ができない人が未熟な傾向になりがちに感じます。

 人格の未熟さを示す尺度のひとつが、「わかってほしい」とか「リスペクトしてほしい」という気持ちがどれだけあるかということです。こうした気持ちが強ければ強いほど、自分はまだ未熟だと考えていただければいいと思います。
 自己が確立されていると、わかってほしいとか、リスペクトしてほしいという気持ちをそれほど強く持たずにすむでしょう。
子どもは、他者の期待の応えなければ自分というものに価値があるとは思えない存在です。親に見捨てられたら大変だと子どもは思っているのです。それはなぜかというと、子どもは親からの承認なしでは生きていけない存在だからです。親から承認されることなしに生きていけない弱い存在だからこそ、親からの承認を強く求めるのです。
 真に成熟した大人というのは、この真逆です。真に成熟した大人というのは他者から承認されなくとも、自分のことを価値ある存在であると感じることができるのです。それは他者からの承認がなくても自分はもう十分に生きていけるし、自分で自分のことを価値ある存在だと思うことができるからです。このように、「承認欲求と自己価値感」はワンセット、裏表の関係にあるのです。

 「わかってほしい」「リスペクトしてほしい」という気持ちは歳を重ねるほどに薄れていきましたが、「他者の期待の応えなければならない」はここ近年まで残っており、生きづらさの要因の一つでした。「嫌われる勇気」を読んでようやく気づくことができ、自分の承認欲求との折り合いをつける作業を始める契機になりました。「承認欲求と自己価値観」はワンセット、裏表の関係にあるという筆者の言葉に納得がいくところです。

 ほどよく安定した自己価値観が、成熟した大人になるためにはやはり必要です。人から批判されただけで自分が崩れていくような恐怖を感じる人は、やはり成熟した大人とは言えないのです。

 自分はまさに批判されただけで自分が崩れていくような恐怖を感じる人です。これはおそらくアイデンティティが曖昧で不安定なことも一つの要因だと思い、自分軸を作るための一環として「価値観マップ」を作成しました。
 発達障害(ASD)の特性である「弱い中枢性統合」や「経験する自己」が乏しいこともアイデンティティ形成に難儀する要因と考えています。個人的には何度も言っていますが、体験や感情の言語化が鍵に感じます。ただ如何せんASD者にとっては言語発達の遅れが見られなくとも、定型発達者と比較すると「自分の経験や感情を言葉などの形にするのが苦手」だなと感じます。


 ひとつは、日本社会というシステムによるマインドコントロールです。(中略)人から嫌われるのはよくないとことだという空気、雰囲気が日本という国は異様に強いのです。(中略)これは日本特有の対人恐怖の文化です。「人から嫌われるのが怖い」、「他者に見捨てられたらおしまいだ」ーこれを心理学では「失愛恐怖」と言います。この失愛恐怖、他者の愛を失うことに怯えながら生きる傾向が日本人は強いのです。

 「失愛恐怖」という言葉を初めて知りましたが、特に学童期から青年期にかけて自分はこの「失愛恐怖」が特に強かったという自覚があります。いつも人に対しおどおどしており、滑稽なピエロのように感じられ、正直に言えば自分を惨めに感じていました。

 失愛恐怖が強いのは、個人の問題としては、子ども時代にありのままの自分を受け入れてもらえなかったという愛や承認の体験を十分に持てなかった人です。こういう人は、やはり失愛恐怖になりやすい。自己価値観も形成しずらい。だからこそファンタジックな万能感にしがみつかないと生きていけない状態になりやすいのです。
 ウィニコットは、「一人でいることができる能力」を持つことが人格の成熟の証であると言っています。そしてこの能力は、乳幼児期の母親との関係の中で育つと指摘しています。

 「ありのままの自分」に対し、子どもの頃は「お前はそれでは社会でやっていけないぞ」とよく言われていた記憶があります。昔はファンタジックな万能感にしがみついていましたし、今もそれが残っていそうです。「一人でいることができる能力」は大学時代の一人暮らしで、一人でいることの楽しさと気楽さを物凄く感じたので、不安よりも楽だなという気持ちが強いです。そのためか、一人でいることに対して苦にならないです。


 パールズが強調したのは、自分の不幸を他人のせいにしているうちは、人格は決して成熟していかないということです。自分の人生を自分の人生として生きることはできないということです。
 また、過去や未来に逃避することも禁じます。
「あの時あの人からこうされたから、私は幸せになれないのだ」とずっと過去のことにしがみついて生きている人がいます。逆に未来のことばから空想して、いつかこんなことをしよう、あんなことをしようと計画を立ててばかりいる人も、今、この瞬間を生きることに集中していません。
 自分の不幸を他人のせいにして生きている人は、過去や未来の空想のうちに生きていて、今、この瞬間を生きていない。
 他人のせいにするのをやめよ。過去や未来の空想に逃避するのをやめよ。そして今、この瞬間を生きよ。
 これがパールズのメッセージです。

 これは自分としては耳が痛いメッセージです。確かにいじめられたから、障害があるからなど、過去の出来事のせいにしがちであったことは確かです。そして、将来は何とか人生を逆転して周りを見返してやると息巻いていたこともありました。
 ただ、最近は、自分がやりたくて計画していたことをいくつか達成することができました。そして、過去の残念な話もネタとしてnoteやYouTubeなどでアウトプットすることで、過去や未来に逃避する時間が減ってきたなと感じています。
 自分としては、自分がやりたくて決めた計画を達成した「達成感」を経験をしたことで、自分の不幸を他人のせいにするという思いが無くなっている手応えがあります。


 孤独死を恐れる人が増えています。(中略)それは、孤独死を言う言葉が盛んに使われて、ひとりぼっちで死ぬのは惨めなことだ。結婚せずに老いていくと、一人で野垂れ死してしまう。そういう哀れな人生だけは避けたい。そう思って早く結婚したい、婚活しなくてはと思う人が増えたのです。婚活ブームの推進役を陰で果たしたのは、孤独死への恐れなのです。(中略)
 死の瞬間に、実は人間は、人生のすべての瞬間において絶体的に孤独であること。これまでも絶体的に孤独であったし、これからも孤独であり続けると言う人生の真実がリアルに照らし出されるのです。

 実は知り合いから「お前は孤独死という惨めな死に方をしそう。」と言われたことがあります。とはいえパートナーに先立たれない、もしくは子どもとの関係性が良好で死に際に必ず見守ってくれる保証はどこにもないと思います。物事が自分の思い通りに進めば良いのでしょうが、孤独の問題は個人的に避けて通れない課題だと青年期からずっと感じていましたし、最近は何となく折り合いがついてきました。天寿を全うするために、段取りよく終末を迎えるための準備をしたいものです。


 この人生は、思いどおりにならないことだらけ、諦めなくてはならないことだらけです。生きるとは諦めの連続と言ってもいいほどです。(中略)
 その「思うがままにならない現実」を受け入れつつ、それでも諦めずに前を向いて生きていくことがとても重要になってくるのです。これが成熟した人間の大きな特徴であるのです。
 とりわけ精神分析では、現実を受け入れる。諦めるということが人格成熟の証として位置づけられています。
 神様 私にお与えください
 自分に変えられないものを受け入れる落ち着き
 変えられるものは変えていく勇気
 そして二つのものを見分ける賢さ
                   (「平安の祈り」)

 「思うがままにならない現実」を受け入れつつ、それでも諦めずに前を向いて生きていくことを実践し続けることは容易ではないでしょう。状況次第では自身に萎えて厭世的になってもおかしくないと思います。しかしこの心構えを忘れず、少しずつモノにできれば良いなと思います。


 プランドハップンスタンス理論をつくったクランボルツが、すごく幸福な人生を生きている人にインタビューして気づいたのは、その人たちが(たまたま・・・・が起こって)という言葉をよく使うことでした。
 「いやあ、たまたまですよ。たまたまこういう縁があって」、「たまたまこういうチャンスがめぐってきて、何とか危機を切り抜けることができたんです」というふうに「たまたま」という言葉を使う頻度がすごく多い。 

 これは心当たりがかなりあります。作業療法士を目指すきっかけ、今の所属、発信を始めた、iMacを買った、大きな買い物に関しても本来の目的で行った店の隣についでに見た店がきっかけで調べ始めたなど、どれも「たまたま」あった誘いや思いつきで始めた行動がきっかけになっていると改めて感じます。時折、計画的でない行動が思わぬ幸運を呼び込むことを実感しています。
 こう考えると、計画に固執しすぎるのも逆にマイナスに作用することもあるように思えてきます。


 人生は絶えず変化していきます。この「人生のはかなさ」をきちんと受け止める事が、成熟した人格になるためには必要です。執着する、しがみつくということは、「人生の流転」という真実に抗い、逆行する在り様だからです。
 また、人間関係がそうですが「こうあらねばならない」という自分の考えを人に押しつけることで、事態が悪化していくことは多いものです。逆に、人はなるようにしかならないと諦めた時に、事態がいい方へ流れ始めることはよくあります。執着すればするほど人間関係は悪化してしまいやすいものです。

 他人の在り方に執着し「無理矢理矯正させることにこだわる」と碌なことにならないなというのは、自分や他人の身の振り方を見て学んだつもりです。自分もこだわりが強くて正論バカと言われましたが、逆に人間関係に「こうあらねばならない」と考えを押し付けてくる人が苦手ですし、自分の価値観を人に押し付けることを絶対にしたくないです。


 自分が「これだけは大切だ」と思える何かを本気で選び、そのことにだけは徹底的にこだわりぬく。そうした何かを持っていることが、成熟した人格の特徴です。
 「大切なのは、何を選ぶかではない。何かを本気で選ぶということだ。」

 先ほど話した「執着」とはまた別のベクトルでの「こだわり」になるかと思います。自分の場合は「価値観マップ」を作成した際に、何に注力するかはある程度は絞りました。こだわる時に人に害にならないようにするためには、どうしても一定の距離感が必要になることがあると感じます。それを決める覚悟も時には必要かもしれません。


 人が自分の人生に与えられた使命、魂のミッションに目覚める時は、そこの共通する感覚的特徴があるということです。
 それは「半ば新たなものを発見した」と同時に「そのことについて、自分は深いところでどこか以前から知っていた。そしてその何かを今、思い出した」という感覚です。

 自分の場合は、いわゆる魂のミッションと言って良いかはわかりませんが、上記のような感覚に近いものが「障害受容」の過程だと感じています。
 一般的な障害受容の認識はおそらく「認めたくないものを無理矢理認めざる得ない状況に追い込まれ、合理性と半ば諦めに近い、折り合いの最中に行われる作業」といった印象です。
 自分の場合は、合理的な判断といった意味はもちろんありますが、諦めや妥協といったようなネガティブな思いはほとんどなく、むしろ新しい立ち位置で「面白い価値観を探し発信できるのでは」といった、むしろ好奇心をそそられるような、物申せるような非常にワクワクした感触があります。
 そういった観点から、「半ば新しいものを発見した」「以前から何となく知っていたが、それを思い出したようなピンポイント感」のような感触があります。


 アドラーは、人間はあえて「ダメな自分」、「不幸な自分」であり続けることをしばしば選ぶ存在だと言います。
 なぜか。もし「幸せになること」を選んでしまったら、仕事についたり、結婚したりと様々な課題にチャレンジしていかなくなるからです。それは大変だ。難儀だ。だったら今のまま仕事もせず、結婚もせずに、不幸な自分でいた方がいい。つまり楽な選択をするのです。(中略)
 人間は無意識のうちに「今と変わらない”ダメな自分”でい続ける」という目的を選んでいるとアドラーはいうわけです。

 確かに楽な選択をしたいという無意識な気持ちは大いにあるでしょうし、自分もそうです。チャレンジという行為にシフトするには「自然と湧き上がる想いで、どうしてもチャレンジをしたい」というような何らかの強烈な内発的動機付けが必須に思えます。
 基本は「楽<チャレンジ」の状態になればチャレンジすればよいのではないでしょうか。場合によっては休むことも必要ですし、自分は状態に合わせて「楽」をあえて選んでいます。
 場合によっては「楽」をすることを環境が許さず、外発的動機付けによってチャレンジする選択をせざるを得ない状況も大いにあるでしょう。そのような状況に追い込まれた人は、楽をしている様に見える人に対して苛立つことがありそうです。距離をとり巻き込まれないように回避防衛する必要性があるでしょう。


 死ぬ時に、未練たらたらで死ぬことは、避けたいものだ。
 そのためにも、一つひとつのことを思いと祈りを込めて、日々のことをおこなっていきたい。

 自分も未練を残したくないと思っています。最近もnoteで「過剰適応して操り人形で人生を終えたくない」と意思表示をしました。
 現在思っていることは、やりたいことを地に足をつけながら地道にコツコツやることですね。

■終わりに

 ここまで、成熟について自分なりに熱く書き綴りましたが、自分は成熟の度合いで人のことを上下で見るつもりは毛頭ありません。人それぞれに「生物-心理-社会」の状態、状況が異なるので、優劣をつけること自体ナンセンスに思えます。
 自分が成熟を目指す理由は、
「未熟のまま歳を重ね続けるのは、明らかに生きづらさを感じるから」
といった、ものすごく個人的な事情です。ごくごくシンプルな動機だと思います。

 ですので、「成熟」していて偉い、立派という名誉、勲章の様なものには一切興味がなく、今現在は人から「成熟」マウントを取られても戯言として受け取れる気がします。そしてそっと関わりからフェードアウトします(笑)

 自分なりに「成熟」に対する解がそれなりにまとまったと自負しています。
 最後まで、読んでいただきありがとうございます✨
 それではまたお会いしましょう🙋‍♂️

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