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龍隱寺道教祭(台湾)2020


道教 Tao

 世の中には様々な宗教が存在するが、祭典でここまで自分の期待をいい意味で裏切ったというのは中々ない。台湾では道教が最もメジャーな宗教であって国民の信仰もそれなりに篤い。媽祖様という台湾で有名な航海、漁業の女神様がいるが媽祖様も道教の神様の一人である。老子、荘子も神格化していることから当然多神教である。

 原義を紐解くと、錬丹術によって不老不死の仙人になることを最終目的とする、というのが本来の道教だが、実際にそこまでみんなが求めているのかというとかなり現実的にはいくらなんでも無理なんじゃ、と思わずにはいられない。いくら信者が多いとはいってもこんな現在に不老不死の仙人を目指す人がいたとしたら、ある意味大変なことになってしまいそうだ。古においては仙人の存在が信じられたからであろうけど、現在においては多くの人は媽祖様のように海で働く人は海での安全を祈願し、商売をしている人は商売繁盛を、健康に自信のない人は無病息災をそれぞれの神にお祈りするのが実際ではないだろうか。時代とともに道教の教義や解釈は変化しているような気もする。というか変化していなかったら、仙人を目指すとんでもない人が色々いて逆に大変そうな気がする。

 今回は道教の祭事で不思議な人々を目にした。今まで見たことのない強烈なインパクト。そして台湾にはこのような不思議な人々がいまだにいるのだなと予想外の驚きがあったのだ。それなりに発展していると世界からも思われている台湾ではあるが、不老不死の仙人まではいかないにしろ不思議な伝統的民間信仰的な人々が今も生きている。



官將首

 將首は将軍という意味だそうだ。実は昔にナショナルジオグラフィック(確かDaily Dozenだったような気がする)の写真で見てからとても気になっていた民間信仰だ。今回は偶然に遭遇し、一つの宿題をやり終えたような気分となった。官將首は地藏菩薩と文武大眾老を守る武将であり、歌舞伎や京劇を思わせる隈取がとてもインパクトある。文武大眾老は知らないにしろ地蔵菩薩の守護となっているというので菩薩の名前がつくからには仏教界の存在かというとどうもそうでなくなんと道教界のようである。後述の童乩もそうであるが台湾においては宗教の習合が結構行われている。この官將首は3人組というパターンが多いらしいが、一応区別があって中央ポジションが緑色の隈取で三叉槍(さんさそう)を持った「損將軍」、左右にいるのが赤色の隈取の「增將軍」というらしい。基本的に奇数でフォーメーション的に「損將軍」は「增將軍」の間に入る形になる。つまり三叉槍持ちは必ず間に入る形となる。こういうのを知っておくと非常に紛らわしい後述の「八家将」との鑑別がしやすくなる。「八家将」とは一見ほとんど雰囲気だけでなく服装や隈取もなんとなく同じ(現地の人ですら間違えるらしい)だが、由来は媽祖様や疫病神の王爺(おうや)を守る武将ということで全く別のものであるらしい。こちらの方は基本が8人(しかし必ずしも8人というわけでもないらしいが、8の倍数が多いらしい)。つまり3人または奇数人なら官將首であり、8人もしくは8の倍数なら八家将ということになる。両者は由来が全く違うのではあるがどちらも邪悪なものから神を守るという意味においては同じ役目からか、似たような雰囲気になってしまったのではなかろうか。進化生物学という分野に収斂という概念がある。全く違う生物の間で同じような働きをする器官が長い年月の間に同じような形になってしまう現象を指す。ここでは文化的な収斂が起こっているようである。
 官將首は祭事で演舞を行い、悪霊を追い払う役目を果たしている。つまり魔除けの将軍なのだ。相手を威圧するような怖そうな隈取はこのような悪霊と戦う武将ということでこのような形になったのだろう。今回の祭事で見た時は演舞が終わった後のようで、全くしゃべらず彼らは石のようにただ突っ立っていた。調べると会話をしてはいけない、笑ってはいけない、女性に触れてはいけないという禁忌事項があるようだ。


済公 ジーゴン

 13世紀に実在した中国臨済宗の僧侶。戒律を守らずに飲酒・肉食するとんでもない自由奔放な坊主だが、なんと神通力を持ち、悪を懲らしめ病人を治すという庶民の味方として伝わっている。こちらも本来は仏教界であったのだが現在においては道教的な存在となっている。その済公が憑依する霊媒師も済公と呼ぶらしい。

 黄色や黒の着物のような僧衣に所々綻び直しみたいなパッチが縫い付けられているのが特徴的。たいていみんな破れ芭蕉扇(ばしょうせん)と瓢箪型の酒入れを手にチビチビ飲んでほろ酔い加減でご機嫌な様子で現れる。実際の済公もいつも酔っぱらっていたらしい。独特の僧帽には「佛」の文字が描かれている。後述の童乩同様に済公の憑依を受けていて人生相談にのったり、爆竹の上を歩く。とするとこの道教寺院内には何人もの済公がいたので、みんなに同時に済公の霊が憑依していることになってしまうが、そこらへんは神通力で分裂でもしてなんとかなっているのかもしれない。似たようなことはミャンマーのナッカドーでもあった。


 中国でもあるらしいが「紙銭」(しせん)というのが存在する。これは燃やすことで紙幣が煙となって天の神様にとどけるお金だ。済公はふらふらと酔っ払いながら場所を決めると、付き添いの人がそこに紙銭を置いて火をつけていく。そして済公は燃え盛る火に酒をかけていく。神様の世界でもお金が必要なのかとちょっと不思議な気がしなくもない。童乩も同様のことをするようだが、今回の寺院内では済公だけがやっていた。


童乩 タンキー

 童乩は台湾独自のシャーマン、つまり霊媒師である。道教界の神様が憑依するのかと思いきや、調べるとなんと仏教、道教、儒教の神様が憑依するのだという。もう何というか聖なるものであればなんでもOKという許容感がハンパない。今までに色々シャーマンというものを見たが、ここまで宗教という壁を乗り越えて存在するというのはそう簡単にないような気がする。前述の済公もある意味においては童乩タンキーの一種ともいえる。

 この道教祭において童乩はそのシャーマンという役割というよりも見た目のインパクトがものすごい。基本形というのがあって、上半身裸で前掛けのようなもの(兜仔 トオア)を身に着けているのだ。これには憑依する神の名前などが書かれているらしい。複数の神が憑依する場合もあるらしいが基本的には同じ神が憑依するという。


 複数の童乩がこの祭りにやってくるのだが、最初に見た童乩は強烈だった。頭には2本の長い鳥の羽を付け根本には青のポンポン玉が何かの耳のように二つ付いている。これだけで頭部のみを注目するとさながらバニーガールっぽい。しかし前掛けの股間辺りにポケットがあり、そこになぜか哺乳瓶を入れている。どう見てもアレなのだ。体を動かす度に股間のその哺乳瓶が揺れる。場所が日本なら変質者確定で警察に通報されるだろう。もう見た目が下品で卑猥なのだ。最初に見た時の心の声は、「なんか寺院内にヤバイ変な人がいる!」だった! 聖人というよりも性人と書いた方が近いんじゃないかという感じなのだ。聖なる存在であるはずがどうしてこんな卑猥な恰好しているのかよくわからないが、ひょっとしたら子孫繁栄の神が降臨しているとすれば、まぁわからなくもないといったところだ。一度地元の人の意見も聞いてみたいくらいだ。しかし、この見た目の変態感とは真逆に参拝者からは祈祷や「問神」と呼ばれる人生相談などでどうもちゃんとした聖なる存在としてあがめられている。他の童乩も結構わけが分からない行動をしている。童乩というのは憑依を受けた存在であるから、わけのわからない狂人的な部分というのは人々に許容されているのではという印象だ。


 神の憑依によって体を動かしている童乩は自分の理性とかとは切り離されている行動している。したがって憑依されている間は本人には感覚や記憶がないらしい。こういった祭事でもう一つ童乩が重要なのは自傷行為だという。神の憑依で痛みを感じることなくこういったことができるようである。刺球という針が放射状に突き出た球を自分の体に打ち付けたり、銅釘棍と呼ばれる無数の釘が打ってある棍棒で自分の体を叩き、大量の爆竹の上を歩いたりとんでもないことを平気でやってのける。血は血でも舌からの血は特に重要らしい。舌を傷つけ血が滴る舌で護符をなめるのだ。そうすることで護符に神の血が注入されたとみなされ効力がもたらされるという。 童乩はこういった祭典だけでなく、日常の儀式でも血を流すが これは神の意思で動いているので痛みはないという自己証明につながり信者獲得に必要な行為なのではないだろうか。自傷行為やとんでもない行動を見ていると、この童乩なるものはどことなく聖と狂を併せ持ったかなり独特の存在のようである。それは狂であるからこそ聖なんだ、という独自の文化的解釈があるような気がする。


龍隱寺道教祭

 龍隱寺は台湾の阿里山の山麓に存在している。ここは阿里山への玄関口といったところだ。背後がすぐ阿里山なので寺院が阿里山に守られているようにも見えるが、宗教的には聖なる阿里山へ邪悪なものが登って行かないように入り口で阿里山を逆に守るよう建てられているように思う(聖地でよくあるパターン)。なおこの寺院では済公が祀られている。
 寺院の正面にある参道というか庭はおびただしい爆竹で激しく煙り、火薬のにおいが充満していた。台湾では祭事では爆竹がつきものではあるが、今回のはかなりとんでもないほどの量の爆竹が使用された。日本人が想像する量をはるかに超える量だ。台湾では神様を迎えるという意味で爆竹が使用される。したがって寺院の格式が高かったり、祭事が大規模となったりすると必然的に消費される爆竹の量も規模に応じて上がっていくのだろう。

 基本的には信者グループが神様を載せた山車で参拝する。山車を中心に様々なもの、巨大な着ぐるみやドラゴンダンスなどが付属してくる。山車はグループによるが5-10台ほどはありそうだ。山車に乗せられた神様は降ろされると寺院前の香炉(こうろ)を通して寺院内に運ばれる。香炉を通して邪悪を払うのだろうか。そして本尊前に運ばれ、おそらく祈祷などを受けてから再び香炉を通過して山車に戻される。この信者グループであるが、童乩や済公を中心に作られているようにも見える。信者たちが童乩や済公をサポートしているように見えるからだ。調べると、童乩が出現すると知人などが支援グループをつくる。近隣の人が問神(神託を聞く)などでいい童乩と評判になるにつれ信者が増え支援グループ大きくなって小さい一室からちゃんとした寺廟に移り、支援グループも協会組織と変化していくらしい。今回の寺院で見るのは経済的にそれなりにあると思われる童乩組織のグループなのではないだろうか。


 童乩や済公という存在は日本人の目からするとちょっと胡散臭い存在のように思われるが、検索して様々な記事を見ると、信じがたいような予知能力など持っているようだ。そしてその特殊能力が当たっているからこそ人々に評価され信者がいるのである。
 台湾には我々日本人には知られざる不思議な世界がいまだに生きている。


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