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解放されたアートと勇士たち。 n.5 - ミラノ、ベニス、フィレンツェ、ローマの館長たち。

ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。

これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。

解放されたアートと勇士たち。 n.1 - 戦争前夜
解放されたアートと勇士たち。 n.2 - 開戦
解放されたアートと勇士たち。 n.3 - 奇跡の木箱
解放されたアートと勇士たち。 n.4 - 砲撃をくぐり抜け車を走らせる。新たな救出作戦。
解放されたアートと勇士たち。 n.5 - ミラノ、ベニス、フィレンツェ、ローマの館長たち。
解放されたアートと勇士たち。 n.6 - イタリアの無名の英雄たち。
解放されたアートと勇士たち。 n.7 - もうひとりの英雄と、戦後の勇士たち。

ミラノ、ベニス、フィレンツェ、ローマ。
イタリア観光旅行の定番都市。この4都市も戦争を回避することはできなかった。

ミラノ

女性初のブレラ美術館館長。ハンガリー出身の母親を持つ、フェランダ・ヴィトゲンス。

参照:Elle

大学で美術史を学び優秀な成績を収め、男性ならすぐに重要な地位を与えられるであろうが、女性であるがゆえボランティアに近い安月給で、1927年にブレラ美術館の簡単な仕事に就く。

が、ここで、生涯のメンターとなる館長エットーレ・モディリアーニと出会い、運命は大きく変わる。彼はヴィトゲンスを高く評価し、重要な仕事を任せるようになる。このとき、ヴィトゲンスはまだ27歳。異例の抜擢である。

イタリアではファシストが力を増し、不穏な空気が漂う中、ブレラ美術館館長のモディリアーニは反ファシストであることから、1935年に館長を解任させられる。さらに1938年には人種法と呼ばれるレッジ・ラツィアーリ(Leggi razziali)が発布され、ユダヤ人であるモディリアーニは、身を隠すことを余儀なくされる。

その間、ヴィトゲンスはモディリアーニに代わり、ブレラ美術館とスフォルツェスコ城の作品を、ウンブリアのカルペーニャ邸とサッソコルヴァロ要塞に避難させることに成功する。

参照:Rai Luce

天井まで高く積まれた砂袋で壁を覆うことで、レオナルドダヴィンチの『最後の晩餐』が守られた写真を、第1回目で掲載したが、そのとき指揮を取ったのがヴィトゲンスである。

参照:Raffaella Arpiani - Arte essenziale

ヴェネツィア

ヴェネツィアの街は海の上に建っている。作品を避難させるにも、ほかの都市とは比べ物にならないほど難航するのは明らかである。

救世主となるべく人物が、第一次世界大戦を経験している、ベネト州の美術館や芸術作品の責任者であるジーノ・フォゴラーリ。余談だが、フォゴラーリは、イタリアで初めて、国立東洋美術館を作った人物である。

フォゴラーリの指示で実際に動いたのは、アカデミア美術館の館長であるヴィットーリオ・モスキーニ。栄華を誇ったヴェネツィアの作品には、サイズが大きい大作が多い。ウルビーノのカルペーニャ邸やサッソコルヴァロ要塞へ運べないものは、ヴェネツィアやその周辺に避難させる。

参照:2枚ともにRai Storia

一方、運ぶのが可能なサイズの作品は、20世紀の最も重要な美術史家のひとり、ロドルフォ・パルッキーニが、ウルビーノまで避難させる。第2回目で紹介した、ジョルジョーニ作の「テンペスタ」も彼が運んでいる。

ジョルジョーニ作「テンペスタ」
ヴェネツィアのアカデミア美術館所蔵

フィレンツェ

フィレンツェ県の芸術責任者ジョヴァンニ・ポッジ(Giovanni Poggi)は、他都市とは異なる方法で作品を守ろうとする。ヴェネツィアのフォゴラーリと同様に、第一次世界大戦を経験しているポッジは、トスカーナ州から一切美術品を出さず、点在する城や、メディチ家の別荘に隠し、自分たちで守ろうとした。

フィレンツェ周辺に避難させている

第2回目で、「モンテカッシーノ修道院を破壊する計画だから作品を移動した方が良い」と忠告したふたりが属する、Kunstschutz機関。名目上は芸術保護。作品を保護するために、どこにどのような作品があるか目録を作成し、彼らの管理下にある建物に保管し、戦後は元の場所へ戻す機関である。

機関の背後には、ヒットラーとゲーリングが控えている。Kunstschutzが言うのを鵜呑みにするのは、はなはだ疑わしい。Kunstschutzは、本当は、イタリアの芸術作品を、ドイツへいかに多く運びこむ(盗む)かを虎視眈々と狙っていたのである。

他州とは異なる方法で避難させていた、フィレンツェの歴史と芸術が集結された、ウフィッツィ美術館とピッティ宮殿の作品のほとんどは、Kunstschutzにより持ち去られてしまう。

1944年8月13日にドイツ軍により持ち去られた
ルカ・シニョレッリ作の磔刑図
ウフィッツィ美術館所蔵

艶かしい裸体をベッドに横たえ、視線をこちらに投げかけるウルビーノのヴィーナス。ウフィッツィ美術館所蔵の作品。

参照:Wikipedia

美術館では、下にも置かぬ待遇で展示しているというのに、ドイツ軍は、なにを思ったのか「ルネッサンス祭り」なるものを開催し「ウルビーノのヴィーナス」を部屋の中心に添え、飲めや歌えやの大騒ぎを繰り広げたらしい。

そうして、この美しい絵画は、祭りで使った松明の火でダメージを受けてしまう。

絵画は持ち運べるが、4メートルもあるダヴィデ像をはじめとする、大きな彫像はどうやって避難させたのだろう。

まずは木組を組む。

参照:Raffaella Arpiani - Arte essenziale

それから、すっぽりとセメントで覆って防御したのである。

参照:Raffaella Arpiani - Arte essenziale

奪われてしまった作品は、取り戻さなければならない。

ここで暗躍するのが、芸術の007を言われるシヴィエロ・ロドルフォ。彼が住んでいた邸宅は、いまでもアルノ川沿いに建っている。

実は、モンテカッシーノ修道院から作品が持ち去られた時点で、アルガンがシヴィエロと内密に連絡を取り、どこに保管されているのかを調べさせている。

シヴィエロは協力者とともに、作品が積まれているトラックを見つけ出し、オーストリアとほぼ国境にあるアルトアディジェ州で、無事に作品を取り戻すことに成功する。

参照:Wikipedia

ヒットラーに奪われた「Discobolo(円盤投げ)」やゲーリングの寝室に置かれたティツィアーノ作の「ダナエ」を取り戻したのも、スパイ・シヴィエロである。

ローマ

ローマでは前回登場したエミリオ・ラヴァンニーノが奔走し、ヴァチカン市国へ避難させるが、ローマには、もうひとり重要な人物がいる。パルマ・ブカレッリ。とても美しい女性。

ミラノのフェランダ・ヴィトゲンスと同様に、1930年代に社会へ進出した女性のひとり。32歳という若さで、ローマ国立近代美術館の館長に就任する。

参照:iodonna

1938年にジュゼッペ・ボッタイ文化政策大臣が発布した内容をもとに、所蔵する作品を3つのグループに分け、ローマから65キロ先にあるローマ郊外のファルネーゼ宮殿の地下に避難させる。

木箱に梱包した作品を積み上げるのは、屋根のないトラック。当時の状況では、これしか準備できなかった。

どうか雨が降りませんように。トラックが故障しませんように。事故に遭いませんように。

作品の運命は、自分の手の中にある。自らもトラックに乗り込み、無事に作品が避難されるまで指揮を取り続ける。

戦争は収まることなく、激しさが増していくなか、1943年には避難させていたファルネーゼ宮殿も危なくなる。

そんなとき、ラヴァンニーノがローマ周辺の街から作品を救出しに行くことを知る。だが、ラヴァンニーノにはすぐに使える車がなかった。

ブカレッリとラヴァンニーノは、ローマのサピエンツァ大学ヴェントゥーリのもと美術史を学んだ同門であり、友人である。

わたしの車を使って。

ブカレッリは、自分の自家用車であるフィアット車バリッラをためらうことなく提供する。のちに、ラヴァンニーノは4年間車庫で眠っていた自分の車フィアット車トポリーノを、エンジンを復活させて使うようになるが、最初はブカレッリの車で方々を走り回っていたのである。

ブカレッリも、爆音の鳴り響くなか、ファルネーゼ宮殿に到着。避難していた作品をトラックに乗せ、爆弾が投下されたヴィテルボ街で身を隠しながら作品を集めたラヴァンニーノと合流し、無事にヴァチカン市国入りする。

ボルゲーゼ美術館の館長アルド・デ・リナルディスも、ウルビーノ州のカルペーニャ邸とサッソコルヴァロ要塞がまだ避難地だったときに、作品をローマから運んでいる。日中は目立つので夜中の出発である。

梱包時の目録
木箱の番号、寸法、作家、作品名が記載されている。

その後、ラヴァンニーノによりヴァチカン市国へ避難するが、ラヴァンニーノが戦火のなか作品を探し周っているとき、アルド・デ・リナルディスは、教会所有でも、国所有でもない、プライベート所有の作品を集めるのに奔走し、ヴァチカン市国へ運び込む。

ヴァチカン市国はローマの中にある都市国家なので、戦争で攻撃される心配はない。アルガンの機転で、ヴァチカン市国へ避難された木箱は、総数900箱。イタリアの魂がバチカン市国に集結していた。

次回へつづく。

参照:『ARTE LIBERATA 1937-1947』 
ローマのクイリナーレ宮殿の美術館で開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」。


4都市以外にも、全国の館長達は、勇猛果敢に作品を救出しますが、すでに長文になっているので、後編へ繋げます。

ミラノのファエランダ・ヴィティゲンスや、ローマのパルマ・ブカレッリは、作品を救出するだけでなく、戦中戦後、素晴らしい活躍をすることになります。今回は作品を救出する勇士たちの話しなので、ここでは割愛しますが、次回のテーマになる予定です。

スパイ・シヴィエロにも興味がありますが、スパイというだけあり、残されている文献や情報がほとんどありません。思い返せば、シヴィエロのことをもっと知れるかもしれないと、今回の展示会へ行くことにしたのでした。

展示会場では、彼の唯一と言ってもいいほどの1冊の本と出会えたので、読後にこちらも、書く予定です。楽しみ。


最後までお読みくださり
ありがとうございます。

次回もお立ち寄り頂けたら
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