「君たち」完全読解

arkios5496@aol.com 「君たちはどう生きるか」の真実@Arkios4

「君たち」完全読解

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最近の記事

現行版の「あとがき」に相当する「作品について」の意図とは

「君たちはどう生きるか」をちゃんと理解しようとすれば、最も重要視しなくてはならないテキストが「作品について」。 ↑ 書かれている内容は、表面的には執筆当時の社会状況を関連情報として書いているように見えるかもしれないが、言外の意味においては作品に直接関わっている、ということ。 吉野源三郎は当時の時代と全面対決した上、それを受けて「君たちはどう生きるか」を執筆しているので、ここで吉野が語る時代状況は、そのまま直接に作品の紹介ともなる。 ↑ 「君たちはどう生きるか」は、戦争の問

    • 99.9%の人は気づけないようです

      ↑の引用部の「このノートに」の 「に」 が、かけ詞になっています。 場所をあらわす助詞の「~に」 と 「~によって」の意味で使われる「に」。 コペル君の呼び名の由来の「表の意味」は、 「ノートの中に書かれている」 のですけれど、 同時にその「裏の意味」、より大切な方の意味は 「ノートによって(カモフラージュされ)隠されている」 という意味の、二重の意味となっています。

      • 「雪の日の出来事」と二二六事件

        二二六事件のおこった翌年の7月、「君たちはどう生きるか」は出版されています。それは青年将校たちが処刑されてからはおよそ1年後のことで、北一輝と西田税が処刑される1月まえでした。 出版当時に「雪の日の出来事」という章を読んだ人には、ほぼ同時に二二六事件を連想したに違いありません。 ↓この記事ですでに述べているのですが、 「君たちはどう生きるか」完全読解、実在した「水谷くんのうちの大きな洋館」のモデル 「君たち」の「五、ナポレオンと四人の少年」に出てくる「水谷くんのうち」

        • ジブリの映画化の前に知っておきたい。その⑤

          物語の後半に入り、おはなしは抽象的な話題が主体となってゆきます。 前の記事を読んでいない方はまずそちらを参照してください。 ① ② ③ ④ おはなしはここで終わっています。 この作品は、単体でも非常に豊かな内容を持つものですが、「君たちはどう生きるか」の解釈をすすめる手がかりとしても非常に重要な作品です。 「君たち」と比較した場合、テーマとして何が残され、 何が削ぎ落とされているのかという事。 そこから「君たち」で本当に言いたかったのが何なのかをあぶり出せます。 そし

        現行版の「あとがき」に相当する「作品について」の意図とは

          警告!『君たちはどう生きるか』こう読めば100倍つまらない!! 20220617ver

          私の記事は、「君たちはどう生きるか」を読解してゆくにあたっての、致命的なネタバレを多分に含みます。 「君たちはどう生きるか」は、世界最高の冒険小説です。 ネタバレをしてしまえば、二度と自力で冒険に出ることはできなくなります。ですから、この先読み進める方は、世界最高の作品をドブに捨てるつもりの覚悟をしてください。

          警告!『君たちはどう生きるか』こう読めば100倍つまらない!! 20220617ver

          ジブリの映画化の前に知っておきたい。その④

          これまでの「星空」関連の記事→ ① ② ③ 手紙の書き手である<おじさん(ぼく)>は、読み手である<純一>に手紙を通して語りかけ続けます。 (次の記事へ)

          ジブリの映画化の前に知っておきたい。その④

          ジブリの映画化の前に知っておきたい。その③

          これまでの記事は↓のリンクへ。 ① ② そとへ出ると、もうすっかり夜になっていて、氷のようにつめたくすきとおった冬の空気に、見上げればたくさんの星がとてもきれいにまたたいていました。 おとうさんはポツリポツリと天文の話をしてくれました。 光が一年間にはしる長さを1光年とし、それを単位に使ってあらわす、というお話。 地球は太陽を中心としてその周りをまわるいくつもの惑星のうちの一つにすぎないが、その太陽にしたって宇宙の中心というわけではなく、銀河の中心をめぐってまわっている

          ジブリの映画化の前に知っておきたい。その③

          ジブリの映画化の前に知っておきたい。その②

          前回の記事では、もう一つの「君たち」とでも呼ぶべき作品の存在が吉野の「作品について」で示唆されていると書きました。 今回は、その作品内容をみてゆきます。 (「星空何を教えたか ―あるおじさんの話したこと」吉野源三郎著) お話は、<おじさん(ぼく)>が<純一>に送った手紙という体で展開します。手紙は<ぼく>の14歳のお正月のときの思い出話から始まります。 なんとなく不機嫌だった<ぼく>は<弟のアキラ>に八つ当たりするように意味もなく意地悪をし、それがきっかけに二人は大喧嘩

          ジブリの映画化の前に知っておきたい。その②

          戦後に書き直された文学作品としての「君たちはどういきるか」。ジブリの映画化の前に知っておきたい。その①

          岩波文庫版「君たちはどう生きるか」の巻末には、吉野源三郎自身が書いた「作品について」という後書きが付されています。 その中につぎの一文があります。 おちゃめな書き方ですよね。 すっとぼけつつ、仄めかしています。 実は「別のかきよう」で書かれた作品が「作品について」が書かれた時点には既に存在していました。 それがこの作品↓ 現在確認取れている限りでは、この「星空」は1948年が最も古い版で、一方「作品について」は1967年が最も古い。「星空」→「作品」の順。 どうし

          戦後に書き直された文学作品としての「君たちはどういきるか」。ジブリの映画化の前に知っておきたい。その①

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          「君たちはどう生きるか」のカツ子さんが歌うラ・マルセイエーズ

          歌詞の意味・和訳(テキスト) →http://www.worldfolksong.com/national-anthem/france.html カツ子さんは当時流行していた偏狭な軍国主義精神のカリカチュア。 吉野源三郎がこの歌をカツ子さんに歌わせたのには、当時、「暴支膺懲」というスローガンのもとで「無法にも暴れまわる中国をこらしめてやれ!」という思想が流行していたという背景からであろう。吉野源三郎の著作にはこの「暴支膺懲」について言及がいくつかあり、その考え方の傲慢さに憤りを感じていたようだ。 この「暴支膺懲」は黒船来訪以来この国が培ってしまったルサンチマン精神の果実であるし、その精神によって形成されてしまった国家は、破滅的な崩壊に到達するまで突進を止めたりはしない。 吉野源三郎は、エミール・レーデラー氏の著作を読み(「岩波新書の50年」127ページ)、このように理解したのではなかろうか。だからこそのカツ子さんなの登場だと思うのだ。 盧溝橋事件とは、そうした思想風土を追い風として発生した出来事であっただろうと思う。 「岩波新書の50年」127ページ 「そのころ私は、ニューヨークの社会学研究所の報告で、当時日本を去ってこの研究所にいたレーデラー教授の、日本経済の分析と日本の動向についての判断とを読んで、強烈な印象を受けたことを覚えています。そこには、私たちの日本が戦争への道を辿って、やがて恐るべき破局に落ち込んでゆくという予見が、鋭い理論で語られてありました。中日事変で浮足立った新聞の記事を毎日見ながら、私は日本の行く末に暗澹たるものを感じずにはいられませんでした」(吉野源三郎) 以下、千葉準一さんの 昭和の恐慌と『商工省準則』の形成 よりの引用 レーデラーは,まず,当時の世界に類をみない異例の急成長を遂げた日本帝国の「近代化」が「西欧化」というかたちを不可避的にとらざるを得なかったのは,まさしく自分たち西欧列強の「影響力」の帰結であったことを確認する。 その意味で,こうした外圧による「西欧化」を,自分自身の歴史的展開において体験したことがなく,しかも日本に対して「西欧化としての近代化」を強要した当事者である自分たち西欧人は,少なくとも自らの体験をもって日本の「近代化」についてとやかく言う資格を有しない。 それにもかかわらず,現状での日本の「近代化」の度合いについてまで渝らぬ批評を加えている威丈高な「西欧人の尊大さ」が存在するのはいかなることなのか。 レーデラーは,こうした尊大さを,本来の西欧的自己批判精神の反対物であるとして,批判するのである。 しかしレーデラーの本心は,こうした彼自身の自己批判的な記述のみにあったわけではない。彼の関心はこうした自らの問題提起に対する日本側からの反応にあった。すなわち,日本の「近代主義」にみられるような「西欧人の尊大さ」への追随がある限り,日本の自己喪失を回避できなくする懸念があることを指摘したかったのである。 こうした認識の下でレーデラーは,当時の日本の危機を以下のように捉える(Lederer und Seidler, 1929, 水沼, 1978)。 日本人に特有な精神的態度であるといわれる「封建制」や「団体精神」は,日本の「産業化」の結果「西欧化」された様々な近代的機構や近代的組織の中に,なお連綿と生き続けている。しかし,欧米追随の「近代主義」者からは否定的な扱いしか受けないそうした「封建制」や「団体精神」は,当該集団への無限の献身と忠誠を求めうるという点で,むしろ個人主義・自由競争の原理に立脚した西欧型の「産業化」からは想像もできないほどその規模と速度の面で優れた成果を達成しえたひとつの重要な条件となっていることを指摘する。 しかし他方,こうした「封建制」や「団体精神」は,あたかも家長が家族に対して負うような,構成員に対する扶養(Nahrung)の義務を伴うことになる。すなわちそこでの構成員の貢献と忠誠は,かれらの業績の没情諠的(sachlich)な評価に基づいてではなく,家父長的な扶養の義務に裏づけられて初めてその無限の動員が保障されるものであった。 ところが集団経営が,経済不況等によって「外から」の・「上から」の合理化を余儀なくされ,こうした扶養の義務が果たせない場合には,構成員の集団に対する無限の献身と忠誠が保障されず,集団存立の「内的」要因が失われる。また当該集団がこうした情況下で「合理化」を拒否するならば,当該集団の存立理由は「外から」も失われることになる。 そしてこの矛盾は,明治維新以来最大の,日本国家と社会構造の危機を産み出すことになり,結局,国外への膨張主義を不可避的なものとし,とりわけ中国ナショナリズムとの対決がさけられないものとなるであろうというのである。 レーデラーのこうした指摘は,「昭和の恐慌」と共に,日本の中国大陸へ の侵略と日中全面戦争というかたちで帰結していった。

          「君たちはどう生きるか」のカツ子さんが歌うラ・マルセイエーズ

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          実在する「水谷くんのうちの大きな洋館」のモデル

          「君たちはどう生きるか」が書かれた当時は、言論の自由が厳しく制限された時代でした。それゆえに、吉野源三郎は伝えたい真意を、「含み」として文章に持たせることで、何とかして読み手に受け取ってもらおうと、文章に様々な工夫をしました。 「五、ナポレオンと四人の少年」の章をみてみましょう。 コペル君が遊びに行く「水谷君のうちの大きな洋館」の所在地について、作品の中で、 などど、不自然に繰り返し地名を用いています。文学作品の書き方としては下手くそなやり方だといわねばなりませんが、吉

          実在する「水谷くんのうちの大きな洋館」のモデル