戦後に書き直された文学作品としての「君たちはどういきるか」 その⑤

物語の後半に入り、おはなしは抽象的な話題が主体となってゆきます。
前の記事を読んでいない方はまずそちらを参照してください。
   


おとうさんがそういう深い心づかいをもってあの時教えてくださったこと――泣いたり、わめいたり、怒ったりしているぼくたちの上に、大きな星空がかぎりなく広がっているということ――このこともまたぼくには得がたい教訓となって残った。ぼくはおかげで、ものごとをほんとうに知るには、広い大きな立ち場から、ある距離をおいて眺めることを知らなければだめだ、ということがわかってきた。
(中略)
学問的な言葉では「主観をまじえず客観的に見る」ということなんだが、ふつうの言葉で「すなおに、ものをありのままに見る」といっても、だいたい同じことである。(中略)およそ学問というものがなりたつための、第一の約束といってもいい
(中略)
いまの君ならば、そんなことたいして難しくないじゃないか、と思うかもしれない。ところが、そうじゃない。人間以外の事柄についてならば、それも比較的やさしいが、ことが人間についてとなると、とくに人間の社会生活についてとなると、(中略)知らず知らずのうちに、学問の第一の約束を忘れてしまうことが多いのだよ。
(中略)
損得や利害にかかわることとなると、自分につごうのいい考えかたにひかれたり、自分に損なことは見ようとしなかったりして、多くの人が本当のこと、正しいことを見失ってしまうのだね。
(中略)
いまの世の中にまだ残っている不合理をおそれずにのべて、動物に近い生活に追い込まれようとしていた労働者たちを守ろうとした人々は、西洋でも、日本でも、ある時代には何人となく牢獄につながれた。日本では、それも、ついこのあいだまであったことなのだ。
(中略)
ぼくたちは、生きてゆく喜びを生み出していくために、そういう暗いものを一つ一つ取り除いてゆこうとする努力だけが、この世でむなしくないものだと思わずにはいられないのだ。
(中略)
雲がどんなにこくたって、その上には、あの星空がいつだって輝いている。純一くん、それを、ぼくも君も忘れないでいこう。

「星空はなにを教えたか あるおじさんの話したこと」
吉野源三郎全集にも「星空」は収録されている

おはなしはここで終わっています。

この作品は、単体でも非常に豊かな内容を持つものですが、「君たちはどう生きるか」の解釈をすすめる手がかりとしても非常に重要な作品です。

「君たち」と比較した場合、テーマとして何が残され、
何が削ぎ落とされているのかという事。
そこから「君たち」で本当に言いたかったのが何なのかをあぶり出せます。

そして「星空」において繰り返し描かれている<ふしぎな体験>について。

正月に<おとうさん>に連れ出されて見上げた冬の星空の体験と類似した描写が、「星空」には引用しなかった箇所を含め何箇所かあります。

いずれも、無限とも感じられる広大な時間という観測点から世界を見つめるという点でそれらの描写は一致しています。

こうしたものの見方は「水月観」と呼んでよいでしょう。水面に映る儚くもおぼろげな月を眺め愛でるように、世界をみつめるその見方という程度の意味です。


「星空」を要約する記事は今回でおしまいとしますが、次回からはこの「水月観」をテーマに「君たちはどう生きるか」を読み解いてゆく記事を書いてゆきたいとおもいます。

なぜなら、「君たち」の第一章の「へんな経験」とはこうした「水月観」を契機にした経験に他ならないからです。








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