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『君たちはどう生きるか』の最終10章「春の朝」について
9章については、以下のリンクを参照して下さい。
『君たちはどう生きるか』の「水仙の芽」について
9章では、読者の論理的思考力が試されます。
吉野はすでに2章において、9章に至るための準備を読者に対して与えてはいます。けれどもその意図に気づき彼の期待したとおりに読み進めることが出来た人は、どうやら極めて稀なようです。
君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。
吉野は執筆当時世間を風靡していた軍国主義的な風潮・言論に対し、論理的な思考でもってそれに対抗してほしいと望みました。
少年少女に訴える余地はまだ残っている
9章がよくわからない感動物語仕立てになっているのは、当時巷間にあふれていた帝国主義的思想が、同時に清く正しい倫理思想として装われていたからでしょう。当時の支配的であった思想は、あくまで倫理的なものだと、人間的なものだと、正しいものだと、一般には見なされていました。
吉野はそこに隠されている「嘘」を見破って欲しいと願ったのだと思います。
ラストの10章で、コペル君は次のようにノートに記します。
僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行き着くだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。
けれども、9章においておじさんに安々と騙され、「汝自身を知らない」姿を晒し、自分勝手な傲慢な振る舞いをしていたコペル君です。「雪の日」において誠実な振る舞いができなかったコペル君です。
彼が語る「おたがいによい友だちであるような」とは、西洋の武力的・覇道支配ではなく、東洋的人徳・王道による統治を進める「王道楽土」「五族協和」とも、その思考は一致し得るのです。
これらのことから推測するに、コペル君はその後、当時の考え方としては「立派な」軍国青年になっていくであろうことが予感させられます。暗い未来しかありません。
ですが、考えて見て下さい。
コペル君の未来が暗いものであることを見抜くことが出来た読者は、精神の明るさを持っているといえ、未来も明るいです。
逆に、コペル君の未来に希望を感じて読んだ読者には、精神の暗さしかなく、未来も暗澹たるものになるでしょう。
コペル君の未来性と読者の未来性は反比例しています。
コペル君の未来が暗いからといって、嘆く事はありません。
なぜなら、この物語は最初からコペル君を主人公としている物語では無いからです。そうではなく、読者を主人公としている物語です。
ですから、読者の未来が明るければそれでハッピーエンドなのです。
『君たちはどう生きるか』という書のタイトルは、
読者への問いかけであると同時に、
コペル君の呼び名の由来の本当の理由を堂々と示しているのです。
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