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『君たちはどう生きるか』の「水仙の芽」について
楓の枝は、硬い肌のいたるところから、真っ赤な芽を吹き出して居ます。八つ手の頂きにも、厚い外套をスッポリとかぶった新芽が、竹の子のような頭を突き出していますし、ドウダンの細かな枝の先は、みんな小さな玉をつけています。庭のどこを見ても、柔かな土をもちあげたり、堅い梢をふくまらせたり、数しれない新しい芽が、みんな、もう外をのぞきたがって居ました。そして、他のものよりも先に地上に顔を出した草の葉は、僕を見てくれというように、いきいきとした顔をあげて、一生懸命伸びあがっています。
コペル君の黄水仙のエピソードで現れる、美しい表現です。
みなさんはこのエピソード、美しく感動的な話だと感じますか?
僕はこの話を醜くておぞましい話だと思います。
「庭のどこを見ても、柔かな土をもちあげたり、堅い梢をふくまらせたり、数しれない新しい芽が、みんな、もう外をのぞきたがって居ました。」
と、書かれているのですから、コペル君が黄水仙を移し替えた先にも、なにかしら「延びてこずにはいられないもの」が芽吹いていたはずなのです。直接の描写はないものの、コペル君はそこに元々生えてきていたものを、引き抜いて殺してしまっているはずなのです。
さらには、なにやら意味もなく感動的な描写に仕立て上げていますが、
コペル君が「よくやった、よくやった」と褒めている水仙は、
既に十分その場所に根を張っているわけですから、放っておけばその場所で立派に育ってゆくはずです。
にもかかわらず、コペル君は勝手な思い込みで、そうした苗まで移し替えてしまうのです。
「よくやった」黄水仙の根が深く張っていることを考えると、もしかしたらその場所の日当たりが良くないのは、コペルくんがそれを見た朝の時間のいっときだけで、日中を通してみたら、日当たりの良い場所なのかもしれないですよね。
吉野源三郎がここで読者に気がついて欲しいと願ったものは、
道理を見失い暴君として振る舞うコペル君の傲慢な姿です。
この話の背後には、当時の時代背景があります。
当時おこなわれた移民政策です。
![](https://assets.st-note.com/img/1715569603508-Joq6nLMjcC.png?width=1200)
「君たち」巻末の「作品について」では、その出版の年の様子が次のように書かれています。
1935年といえば、1931年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に進出を開始してから4年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期です。
9章の冒頭の「汝自身を知れ」という言葉の真意ももはや明白なはず。
この言葉は、コペル君に向けての言葉であると同時に、読者へ向けて語りかけてもいるわけです。この章をわけもわからないまま「感動物語なんだろうな」と受け取るのは「汝自身を知らない」読者ってことです。
この物語では、人の儚く無常なさまを「水」で表現して来ました。
潤一、水谷、浦川、黒川らは、皆、なまえに水の意味が含まれます。
水仙とはすなわち人間を模した表現なのであり、
それが黄色なのは、私たち日本人が黄色人種であるからです。
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