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ありのままの自分を大切にするための最も大切な考え方―being と doing

定義


being 存在そのもの 目には見えない 比べられない 変化しない 評価できない
doing 行為や証拠 目に見えて、比べられる 変化する 評価できる

beingとの周りにあるのがdoing

being(存在)とdoing(行為)に分けて人間や物事を見る

人間の存在価値は比べることができません。誰もが等しく、尊い存在です。比べることができるのはdoingですから存在ではないです。しかし、実際に私たちは劣等感や優越感を感じます。つまり、doingで人間や物事を見ることを当然として受けれいています。下手より上手いほうがいい、少ないより多いほうがいい、遅いより早いほうがいい・・・そうやってdoing的に「より良く」なろうと努力をしていますし、し続けています。

人間の存在はdoingでは規定されません

たとえば、走るのが速い人がいたとします。その人が足を怪我して速く走ることができなくなりました。この人の存在価値はなくなるのでしょうか?そんなことはありません。怪我をしなくても、誰しもが若いときよりも歳をとったら足が遅くなります。だからと言って、存在価値が変わることはありません。

子育てを例に考えてみたいと思います。あなた自身が子どもだとしてどちらの親の元で過ごしたいでしょうか?
家族A
とにかく勉強さえしておけば将来は大丈夫だからと、塾を二つと家庭教師をつけられて勉強する。成績が良いと何でも好きなものを買ってもらえるが、悪いと怒られる。子どもの将来のことを常に案じており、学校の勉強の進め方や指導の仕方を常に気にしている。

家族B
子どもは成績が良くても悪くても特に怒られたりしない。子どもが学校でどんなことをしているか興味があるから学校で何をしたかを両親が尋ねる。子どもがいないところでも良く会話の中に子どものことがでてくる。子どもが毎日健やかに育っていることを喜んでいる。

恐らく、こういう記事に目を留めてくださる方は家族Bの方がよいといわれると思います。家族Aはdoing的なんです。成績で子どもの存在価値を決めています。家族Bは子どもの様子を両親が気にしており、存在に目が向いています。

感覚としてはbeingに寄り添う方が良いというのは分かっています。それはなんとなくもやっとした違和感のような形で私たちの心に残ります。子どもの成績の話は分かりやすいので例にしましたが他にもdoing的なものはあります。

  • 成績の良し悪しだけしか生徒を見ない学校と、生徒一人一人の成長を見守ることができる学校

  • 利益だけを追求する企業と、社会貢献のために多少の損も覚悟している企業

  • 売り上げをあげる人、目立つ人だけが評価される企業とすべての従業員の働きを認める企業

  • 決められた手順通りにしかケアをしない老人介護施設と、一人ひとりに話しかけてケアをする老人介護施設

  • 病気の状況だけを聴き取って処置をする医者と、病気以外の情報も聴いてくれる医者

前者はdoing的で「行為」つまり、人間の存在ではないものに目が向いているにもかかわらず、それがそのままその人のbeing(存在)を評価しているかのように見えてしまいます。

being(存在)>doing(行為) ではない

ではbeingが良くてdoingが悪いのかというとそういうわけではありません。どちらも大切なんです。ただ、beingを無視して、doingだけにしか目が行かない状態が良くないのです。どんな行為(doing)も自身の存在(being)が肯定されている上に成り立つことが重要です。doing=存在と考えてしまいがちですが、行為は行為、存在は存在です。

仕事でミスをしてもそれは仕事のミスであって存在のミスではありません。ミスは人間につきものです。上司に叱られたとしてもそれは仕事を叱られているだけであって存在を否定されているわけではありません。事業に失敗したとしても、事業がうまくいかなかっただけで、自分の存在がうまくいかないということでもありません。beingとdoingは分けて考えることで、自身の存在を肯定する思考が生まれます。

○○していない自分、何かができない自分には価値がない

ということは全くありません。できる、できないはbeingとは関係ありません。存在、つまり「在ること」だけで十分に私たちは価値のある存在なのです。生まれたての赤ちゃんは何もできません。しかし、価値がないなんてことはないはずです。私も、子どもが生まれて数日は、見ているだけで幸せな気分でした。眠っているだけ、たまに体を動かすだけの子どもを何時間眺めても退屈ではありませんでした。

しかし、いつしか「早く準備しなさい」「部屋を片付けなさい」「勉強しなさい」と言ってしまいます。できることが増えると、できることばかりに目が行ってしまいます。だから、大人も子どもも、「できない自分には価値がない」という思いが生まれてきます。これは間違った自己認識です。

人は存在を認められた時に生きるエネルギーを得る

being(存在)に向けたまなざしが大切な理由は、存在を認められることが生きるエネルギーになるからです。逆に存在を否定されると生きていくエネルギーはなくなります。doingを認められてもエネルギーは得ますが、それは一時的なものでしかありません。doingで得られる最高の承認は一番になることです。勉強でもスポーツでも、音楽でも料理でも仕事でも一番になればそれは誰でも気持ちが良いです。

しかし、その座はすぐに奪われてしまいます。スポーツはオリンピックがあるから分かりやすいですがそれでも一位と二位は紙一重です。そもそも、「一番」を決めることは本当に難しいことなのです。仕事の一番はどうやって決められるでしょうか?売上でしょうか、働いた時間でしょうか、ヒット商品を開発することでしょうか・・・その一番は誰が評価してどう決められるのでしょうか?

一番を決めるには基準が要ります。そしてその基準も人間がつくるわけです。では、基準を決めるほうが偉いんじゃないだろうか?と、突き詰めていくと一番よりも、権威の方が重要になります。そしてその権威が信頼による権威なのか、支配による権威なのかによっても違ってきます。が、この話は本筋から外れるからこのあたりで辞めます。

いずれにしろ、doingで得られるエネルギーは「優越感」や「達成感」でしかありません。優越感は劣等感の種でもありますし、達成感は徒労感の種でもあります。つまり、誰かに負けないだろうかという不安、無駄に終わるんじゃないかという不安と一緒なのです。

beingは内発的、doingは外発的

動機には内発的動機付けと外発的動機付けがあります。内発的動機付けは自分の内側から湧いてくるものです。興味関心、好き、好奇心、自発性などとセットです。外発的動機付けは、報酬、評価、命令など外からくるものです。人の顔色を窺って行動しているときは外発的動機付けです。それは自分の内側から来たものではないので、苦しいし、正直やりたくないことです。やりたくないことをやるとき、実は自分の存在を自分で否定しています。

存在を否定しているのは自分自身

外発的動機付けの行為が増えるのはなぜか?それは自分の存在を自分が認めていないからです。どういうことかと申しますと、自分で否定しているから、誰かに認めてもらう必要があります。人に認めてもらうには、人からの評価が必要なのです。それは相手を喜ばせるためだけの行為になってしまい、自分自身が置き去りにされてしまうのです。そこには自分の思いや考え、それこそ内発的動機付けなんかありません。人に認めてもらうことで何とか存在を認めてもらおうとするわけです。これはとても危険で、うまくやっているときは良いですが、そうでないと不安でいっぱいになります。

人に怒られないようにするためにいろいろと取り繕うのも自身の存在否定です。失敗する自分には存在価値がないと認めているから取り繕ってなんとか認めてもらおうと努力するのです。そして、一時的に肯定感を得てすぐにまた不安になってしまうのです。

存在否定と不安

自分のbeing(存在)が否定されているときには、常に不安な状態にあります。価値のない存在だという思いが強いです。ひどくなるとそれが人にばれないかと不安になってしまいます。これは内面世界の、個人的な問題なので回りがとやかく言っても変わるものではありません。
・自身を持て
・しっかりしろ
・気持ちを前向きに保て
なんていう言葉は全くもって役に立ちません。むしろ「人に心配されている自分」にさらに自身の価値を見失い否定感が強まります。否定感が最高に強まった境地で起きるのが自殺行為です。未遂にしろ自殺企図にしろ、死のうと思う行為は存在否定から来ます。例ねん「どうしてこの人が?」と思う人の自殺のニュースがあります。特に芸能人の方などは華々しく活躍されていると思いきや突然、命を絶ったニュースが流れ世間を驚かせます。理由はいろいろありますが、自身の存在に対する否定感が強いということは一要素と考えて間違いないわけです。

being(存在)を認めるために

being(存在)に対する承認がない生きる力を失います。絶望的な気分になり、人が羨ましくなります。自分が世界で一番不幸な人間で、自分なんかいなくなった方がよいと思うわけです。
ではどうやったらbeing(存在)を認められるのかということですが、いくつか方法があります。

  1. being(存在)とdoing(行為)を分けて考える

  2. 自分の存在価値は生まれてからずっと同じで変わっていないという事実に目を向ける

  3. これまでの経験のなかで肯定的なできごとを思い出す

  4. 外発的な動機付けでやっている行動を辞めて内発的動機付けでの行動を増やす。ただ、外発的動機付けでやっているものですぐにやめられないことは「これは外発的なこと」「所詮doing」と割り切る。

  5. 自分のありのままってどんな姿かをイメージする。この自分で良い、この自分がありのままの自分なんだと自己受容する。(長所も短所も認める)

ありのままの自分=being(存在)が肯定されている

ありのままの自分はさかのぼれば、生まれたての赤ちゃんになります。赤ちゃんを経験したことがない人はいません。もしその時に存在が否定されていたら、すでに命はないはずです。今ここに生きていてこの文章を目に留めて(しかもこんなところまで)読んでくださっているということは、少なくともbeingを肯定された存在だからです。他者からの存在肯定ではなく、自分自身で自分の存在を肯定していく。そうすると、ありのままの自分がどれだけすばらしく、尊い存在であるかということが見えてきます。その変かはじわじわ来るかもしれませんし、ある瞬間突然おとずれるかもしれません。

間違いなく、あなたの存在は肯定されています。


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