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他人の脳内を歩いているということではないですか

他者に憧れを抱くこと。それ自体は素敵なことだと思う。

けれど、憧れてその他者を自分にインストールするあまり、自分の考えとの境界がわからなくなる、ということが起こりうる。

そして、その状態になると、自分では気がつけない。

「お散歩。
ついつい携帯で検索して、目的を持って歩いてしまう…。

すると、Googleマップの中を歩いてるだけで、道中の偶然の出逢いに気づけず、視野の狭い生き方になってしまう。。わたしは何でもそうだから。
だからお散歩の訓練をしてます。」

という投稿を見かけた。とする。うん仮にね。インスタだ。

柑橘系のタルトと珈琲、そして分厚い本が見切れた写真と共に、恐縮しながらそんなキャプションを投稿している彼女とは、少し前まで頻繁に交流があった。という設定にしよう。

この内容は、一理あると言えなくもない。

もし、自分から湧き出た思いで、「お散歩」を「訓練」しているというなら、良い場所に辿り着けるかもしれない。

だけど彼女は、

Googleマップを歩くことをやめたかもしれないが、結局、彼の脳内を歩いてるのだ。

万人に伝わる説明をするのは難しいのだが、これは、もちろん自ら発案のお散歩訓練ではない。彼女が脳にインストールした存在、心酔している他人がそうさせているのだ。


なぜそんなことわかる?

私にも似たような経験があるからです。

幸い、曖昧になった境界が私にも見えてきている最近だけど、ふとした日常の中で、これは他人のルール、彼のルールなのではないかと思うことも正直よくある。

彼のルールでもないのに、インストールした自分の脳が勝手に作り上げてしまったルールもある。

彼のルールでもあるし、でも自分もそうしたいと思っている、ということもある。


ルールではなく、自分自身が何が好きか

それを自然体で感じて、気がついたら自分の好きなものに囲まれていた、というのが今の私の理想かもしれません。

そんなの、当然では?と思われるようなことだけど、一度、もやがかかった脳には、とても大切なことなのです。


あなたも、怖がらないで。

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