ここに来ると 味覚 だけでけでなく 視覚、聴覚、触覚、五感に集中できる 今に集中できる だから癒されるのだなあ
誰にも言えないものがあっていい 自分だけのものがあっていい
無邪気でかわいい瞬間を見ると 泣きそうになるのよね〜 昔から
世の中では毎日いろいろなところで すれ違いや誤解が重なりに重なっているよね。 #hspの日常 #hspの見る世界
自分の 幸せの基準が変わったように感じた日 ふと、あれ、基準が明るくなってると
彼氏に50万貸してから、(急展開) まず不安が襲ってきた。 焦って、いろいろと手につかなくなった。 お金が返ってこなかったらどうしよう、などというものではなく、単純に自分の生活資金。 かっこつけたはいいけど、ちょっとかっこつけすぎた。ここで助けなきゃ後悔する。できるだけのことをしたかった。 しかし実際50は出しすぎた(^O^) ってなった/(^o^)\ 自分の、諸々の支払いを甘く見ていたのだ。 計算してみて、正直ちょっと後悔した。🤏 しかし焦りの中で、セルフへそくりや
「自分の感受性くらい」 数年前のわたし、そこは国分寺にある夕陽の綺麗な喫茶店。 階段の本棚で、その言葉が目にとまり手に取った。 背表紙の文字。 「自分の感受性くらい」 茨木のり子さんの詩集だ。 国語の教科書にも載っていたというこの詩だが、私は子どもの頃に読んだ記憶はない。 最近になって、新しいキャッチーな装丁でまた出版されていたこともあり、広く知られた詩であろうか。 1977年、茨木のり子さんが51歳の時に発表されたものだという。 私は、「感受性」という言葉に、
自分で生きていってる感じがたまらない
私は、わりかし本が好きだ。 超本好き、というような人と並べられたら、それは知識もないし世の流れも追えてはいないけれど。 だけど小説や自己啓発系(他に良い言い方はないものかと常々思っている。)、心理学や哲学、国際情勢についてなど、いろんな本が好きである。 しかし、読んだはいいが、内容はわりとすぐに忘れてしまうのは悩みでもある。 先日、知り合いの素晴らしい音楽家のソロリサイタルを聴きに行った際、プログラムに、尹 伊桑(ユン・イサン)の曲が盛り込まれていた。 イサンユン(と
他者に憧れを抱くこと。それ自体は素敵なことだと思う。 けれど、憧れてその他者を自分にインストールするあまり、自分の考えとの境界がわからなくなる、ということが起こりうる。 そして、その状態になると、自分では気がつけない。 「お散歩。 ついつい携帯で検索して、目的を持って歩いてしまう…。 すると、Googleマップの中を歩いてるだけで、道中の偶然の出逢いに気づけず、視野の狭い生き方になってしまう。。わたしは何でもそうだから。 だからお散歩の訓練をしてます。」 という投稿
これを人と比べる術がないのでわからないけど、おそらく私は、他の人よりも見えすぎているし、聞こえすぎている。 いや、霊の話ではないので安心してほしい。 例えば、近くにいる人が何を探しているのかすぐにわかってしまう、などということは日常茶飯事である。 なんなら、あぁ、あの人あれ探してるな、と思いつつ、すぐに言うのも気持ち悪いかななんて思ってタイミングを見計らったりもする。 どうしてこのようなことが多発するのか。主観になってしまうがここでワタシ分析を挟ませていただく。 あ
少し広々とした部屋、南向きの窓から差すあたたかい陽。 都心からのアクセスも良い。 引っ越して1ヶ月のこの部屋を、私はとても気に入っている。 しかし、 ただただ、隣人のくしゃみがうるさい。 隣人くしゃみしすぎ。 あぁ、隣人のくしゃみ 心配だわ。 薬いりますか?と思うほどに。
人生で一番おいしかった、幸せなパンケーキの記憶が私にはある。 (人気チェーン店「幸せのパンケーキ」の話ではない。) パンケーキ、いや、世間を気にして私はそれをパンケーキと呼んだが、本当はホットケーキと呼びたい。 そしてそのホットケーキを再び食べることは、もうないのだと思う。 そう、料理上手な彼がいた。ううん、当時の私が、彼の才能を「料理上手」なんて有り体な言葉で表現されるのを聞いたらむっとするだろう。 彼の料理は、魔法みたいだった。 独自の目利きで良い素材を使い、手間