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私の夏休み、2019

秋を迎えた。少し肌寒い風が吹く。
夏が終わってしまった。今年、2019年の夏は忘れられない夏になった。
台風と戦った仕事、数年ぶりに一人で行った韓国、それからの生活。
大変だったことも、楽しかったこともひっくるめてまた、私の経験値を上げたことには間違いない。

8/20
少し遅い夏休みをもらったと同時にこの日にまた一つ年齢を重ねた。
28歳を迎えたにも関わらず自分が何歳なのかたまに分からなくなるときがある。必要書類に自分の年齢を記入するとき「あれ、私何歳やったっけ?」と頭の上にクエスチョンマークがつくのだ。同じような経験がある方は是非とも一度話をしたい。決して自分の年齢に目を背けているわけでない。ただ、年齢を気にしなさすぎるのだ。
19日から20日に日付が変わろうとする前にはすでに就寝していて、朝起きるとご丁寧に友達や先輩、家族から「誕生日おめでとう!」という祝福のLINEが入っていた。一通一通のメッセージに恥ずかしさ半分嬉しさ半分を感じながらも、一人一人に感謝の返信をする。
そして、最高の一日が過ごせますようにと心の中で自分自身におまじないをかけた。

夏休み。私はこの休み待ち焦がれていた。なぜなら、この休みを利用して韓国に旅行をする予定があったから。
2ヵ月も前に航空券を予約してから出発するこの日までまさか日韓関係がこんなにもこじれるとは思わなかった。
現地で会う友人から「本当に来れる?」という連絡を受けたが、迷わずに「大丈夫。」と返事をした。
友人に連絡したとおり、旅行の予定は変更することなく当日を迎えた。
少しの不安と久しぶりの韓国の地に大きな期待を感じながらもチェックインを無事に済ませる。いつだって空港という場所は不安よりもワクワクやドキドキを与えてくれるから不思議な場所だ。

朝から何も食べていなかったので、保安検査場に向かう前にざるそばを食べて気合を入れ込む。楽しむぞという気合だ。
保安検査場を余裕でクリアした後に飛行機に乗り込むと少し片言の日本語で美人CAさんが満席近いフライトだということが乗客にアナウンスされた。
「こんな情勢だから、ガラガラなのかも。」なんて私の予想は大ハズレ。
欠航することなく運航してくれたチェジュ航空、カムサハムニダ!

ほぼ定刻どおり仁川国際空港について、A'REX(空港鉄道)でソウル駅へ向かう。
ソウル駅に向かう間に窓から景色を見て、いろんなことを考えた。
ホテルに着いた後、どうするか。明日は何をするか。
あ、来月は結婚式x2があるぞ。
携帯に入る仕事のメールは無視しようとか、そんなこと。
そのうち考えるのがちょっとしんどくなってきて、家から持ってきていた沢木耕太郎さんの「旅の窓」を読み始めたけれど気づいたら電車は漢江(ハンガン)を越えようとしていて、空の色は夕日のオレンジから夜を迎える紫がかった色に変わろうとしていた。電車の窓から見た漢江と多くの車たちが照らす黄色や白色の無数のライトを見ると「ああ、ソウルだ。」と自分が韓国に来たことを思わせてくれる。

立地の良さだけで選んだ世宗ホテルでチェックインを済ませて、繁華街の明洞を歩く。「お腹がへった。夕飯を食べなければ。」と思って簡単に入れそうなお店を探して見つけた。大きなお店ではなかったけれど、店員のお兄さんの日本語が堪能だったのと素敵な笑顔がとても印象的だった。
この店で何品かオーダーしたのだけれど、やっぱり本場で食べるキンパ(海苔巻き)とチヂミは最高に美味しい。
「チャルモゴスムニダ(ご馳走様でした。)」と言って、私も店員のお兄さんに負けないくらいの笑顔でお店を後にした。

8/21
友達や家族に頼まれたブツ(お土産)をハントしに朝から街に繰り出した。
ハントももちろん大切なのだけれど、どうしても行きたい場所があったので立ち寄った。
そこは「梨花女子大学」韓国に来るたびに必ずこの大学に立ち寄る。
2013年、私はこの学校の付属の「言語教育院(語学堂)」と呼ばれる学校で韓国語を学んだ。
短期留学だったけれど、毎日が刺激的で日本の隣の国の文化の違いに驚きながらも、多くの経験を自分の中に吸収していった。同じクラスメートだった台湾人の子とは今でも定期的に連絡を取り合っている。
何よりもこの梨大(梨花女子大の略)のキャンパスが大好きだ。建築的にも美しいのだけれど、(夜はもっと綺麗。)この中に映画館があったり、ATMだけではない、窓口のある銀行があったりしてかなり設備が充実している。ちょっとした街?のような感じである。

ちなみにこれは大学の入口にあるレリーフ。
中華圏ではこのレリーフにあるお花を触るとお金持ちになるという噂があるらしい。

その後は人と会った。
その人、いや、彼と会うのは実に7年ぶりでかなり緊張した。
私は梨花女子に留学する前にヨーロッパにあるマルタ共和国という島国に短期留学していた。そのころのマルタはまだまだ留学先として有名になる少し前で日本人もクラスにあまりいなかったことを覚えている。

私はECマルタという語学学校に通っていて、語学学校の運営するDrayton(綴りは少し違うかも。)という寮で生活をしていた。
私たちはその寮で出会った。お互いに今でも覚えているのだけれど、ある日私の持っている寮の玄関専用の鍵が全然玄関を開けてくれなかったことがあった。鍵を鍵穴に入れて、回すという簡単な行為を何十回と繰り替えしてもドアが開かない。風が強く吹く日で、早く部屋で暖をとりたいのに一向に玄関は私の願いを聞き入れてくれない。困ったと思ったそんなときに颯爽と彼はやってきた。やや玄関の態度に呆れていた私に彼は「どうしたの?」と聞き、私は事情を説明した。すると彼は簡単に玄関ドアに備え付けられていたデジタルロックのコードに暗証番号を入力し、私はようやく寮の中に入ることができたのである。
私は彼に感謝を述べつつもちゃっかり暗証番号を聞いて、それからは玄関の鍵は使わず、デジタルロックの番号だけで玄関を突破するようになったのは言うまでもないだろう。
そんな彼とはクラスは違ったものの、それ以来寮で会ったりスーパーで会ったり顔を合わせては軽い立ち話をするような仲になった。
私の方が先に帰国することになったのだけれど、帰国する前にお互いにfacebookの交換をしていて、それから7年たった今でも連絡を取り合っている。お互いの連絡方法はfacebookのメッセンジャーに始まり、それがskypeへ移り、kakaoトーク、LINEへとお互いの連絡方法の変わり方を振り返ってみると時代の流れを感じさせられずにはいれない。skype懐かしい。
お互いの国に時差がなかったのも好都合で、私たちは連絡を取る度に多くのことを話した。会わなかった7年間の間に私には父が亡くなり、向こうも身内に不幸があったのをお互いに知っている。
それでも私は彼のことを韓国の兄と呼び、彼も私のことを日本の妹と呼んで励まし合った。文字を交わすだけの7年間、その間に私も梨花女子に留学したり、友人と韓国を訪れたり、また向こうもマルタから韓国へ帰国後また別の国にワーホリをしたり、日本に友人と来てくれたけれど毎回タイミングが合わずに会うことがなかった二人がこの日再会した。

彼が世宗ホテルまで迎えに来てくれて、二人で鍾路3街へ向かった。
鍾路3街は下町というか日本でいう昭和の香りがする非常に哀愁が漂った街だ。
古い韓国式の家屋をリノベーションしたカフェでお互いにミルクティーを飲みながらマルタで出会ったときのことを思い出や、お互いの近況や日本でのことや、韓国でのことを話した。
この瞬間のことを最近の言葉で表すならば、「エモさの極み」といったところだろうか。
7年たてば少しくらい変わってるかと思ったけれど(外見も中身も)彼は全く良い意味で変わっていなかった。
彼は会う前に「本当に太ったよ~。」なんて言ってたけど、全然分からなかった。それに反して彼には私がどう映っているのか考えると少し怖くなった。

彼に会う7年の間に私はどのくらい成長できただろうか。
「冷静さを持つこと。」これだけは学生時代の時と比べて意識できるようになったと思いたいものだ。
ミルクティーの少しの苦みが私にそんなことを考えさせた。

それから、彼のおすすめのお店に向かうために私たちは漢南洞(ハンナムドン)へ向かった。
漢南洞は彼の庭らしく、「トンタッ」という食べ物が有名らしい。
ちなみにこれ↓がトンタッ。

韓国には何度か訪れているけれど、初めて食べた料理だった。
鶏を一匹丸焼きにしていて、鶏の中にもち米が入っている。
参鶏湯(サムゲタン)の焼きバージョンといったところだろうか。
丸焼きにしているので、パリパリとした鶏皮とジューシーな肉にお店の特性タレ(コチュジャン系?)をつけて、そして少し甘い醤油の味がしたもち米が口の中で絶妙なハーモニーを奏でる。いや、ほんとに美味しかった。
「美味しい」を言い過ぎて、彼が「演技入ってない?(笑)」と冗談を言うくらい美味しかった。タッカンマリに加えてこのトンタッもまた好きな韓国料理の一つになった。
お店の壁に芸能人や政治家や財閥の人たちの色紙や写真が一面に貼ってあり、このお店がどれだけ有名なのかを私に印象づける。
普段なかなか入れないお店らしく、私たちがすんなりとお店に入れたのはラッキーだったようだ。その言葉のとおり、私たちが食べ終わって店をでるころにはトンタッを求める行列が遊園地の人気アトラクション待ちの行列のようにできていた。

その後はBarに移動してお酒を飲んだ。
お酒のせいか、私も彼も口が饒舌になる。
お互いに今の生活に飽きていて、だけれど日常を変えれない歯がゆさがあった。私は地元での生活に飽きていて、そろそろ環境を変えなければと思っている。年齢的にもラストチャンスかもしれない。あとはこの生活を壊すために「行動」が必要だ。自分の人生の責任は自分が持つ。
彼は親からの仕事を受け継ごうとしていて、来年には全ての仕事を彼に引き継ぐことになっている。ソウルではない場所に彼は住んでいて、彼も地元の生活に窮屈さと飽きを感じていた。親からの仕事を完全に引き継ぐことになればもう地元からは出ることができないだろう。
「俺も都会で住みたかった。」そう言ったのを私は聞き逃さなかったし、そう言った彼の眼は都市で生活することの憧れと、まだまだ本当は彼のやりたいことがあったようにも見えた。しかし、彼の現実はそれを許してくれそうにない。韓国や中国は親を大切にし、親の言うことは絶対的な文化があるのを私は知っている。だからこそ、軽々しく「本当にやりたいことがあるならそっちやればいーじゃん。」なんてことは口が裂けても言えなかった。
きっと、彼も自分の人生を彼なりに受け止めていると思ったから。

ただ、彼の言葉に何の反応も示さずに沈黙のままというのはきついから話題を変えるためにも「マルタにもう一度住めたらどうする?」と仮定の話を振った。彼は少し考えてまた饒舌になった。
朝、スリーマの海沿いをランニングした後、マックで1ユーロシェイク(確か1ユーロだったと思う。)を飲む。その帰りにはアルカディア(スーパーの名前)で食材を買い、昼食を作る。昼からはEDEN(映画館)で映画を見て、夜はパーチャビルで遊びたい。月に2回くらいはバレッタ(首都)にも行きたいだとか、そんな一日の出来事だったり、住めたらなという妄想を細かく話した。話の終わりの方はマルタに飽きたらLCCでヨーロッパ周遊してまたマルタに戻る。彼とマルタの話をすると眼に活力を戻していたので安心した。改めてマルタ最高やんって思わずにはいられなかった。

「この近くに住んでいる友達にも会いたいから、一緒にいい?」と言われて一言返事で「もちろん。」と返した。
場所を変えて3件目になるころには結構いい時間になったけれど、まだ喋りたりなかった。
彼の友達と合流して、宴会が再びスタートした。
私はもうお酒はストップして、コーラに切り替えて食と口を進めさせる。
彼の友達は日本でいうと芸人のクロちゃんのような見た目だけれど、クロちゃんのような変な言動だったり行動は一切なく、むしろシロちゃんだった。(ここではシロちゃんと呼ばせてもらおう。)
初対面の日本人に「日本のどこから来たん?」とか「そこは何が美味しい?」とか「日本の曲教えて。」とか私のことに関心をみせてくれたのはありがたかった。
私もシロちゃんの質問に答えて、日本の曲は福山雅治の「虹」とミスチルの「Tomorrow Never Knows」をオススメしてみた。
シロちゃんが良い反応を示してくれて、良い反応をするたびにみんなでグラスを合わせて何度も乾杯した。わたしはコーラだけど。
私もシロちゃんの話が聞きたくて、いろいろと質問をした。
私の韓国の兄とはいつ出会ったのかとか、彼女はいるのかとか。
シロちゃんも丁寧に自分のことを話してくれた。
シロちゃんは彼と大学のときに出会ったこと、彼女ではなく、奥さんがいること。私が奥さんの写真を見せてというと嬉しそうに見せてくれようとするとなりで独身、彼女ナシの彼が少しやれやれといった表情で手を頭に抑えてたのを私は見逃さなかった。奥さんの写真を見せてもらったけど、これまた綺麗な人で目ん玉飛び出るかと思った。それからシロちゃんの奥さん自慢が始まった。彼がやれやれととった表情にはこうした理由があったのだ。
シロちゃんが私に「彼氏は?旦那さんはいるの?」と聞いてきたので、「募集中です。」と苦笑い交じりに言うと「アイゴー(韓国語の感嘆詞)」と言われた。私たちはまたコップを交わらせて音をコツと鳴らす。

楽しい時間はあっという間にすぎてしまい、日付はとうに変わってしまった。
お店をでて、シロちゃんと別れた。「日本にも遊びに行くね。」と言ってくれて最後まで優しい人だった。

私も彼も2件目のBarで忘れ物を思い出し、タクシーで引き戻した。
このタクシーがなかなか捕まらなくて、二人で苦労をした。
2件目になんとか戻ることができて、忘れ物も回収できた。
またタクシーを拾うのに苦労しながらも「楽しいね。」と言ってずっと笑ってた。あまりにも私が楽しいねって言うから「ほんまかいな。演技やろ(笑)」とまた冗談交じりに彼が言うから一発肩パンお見舞いしといた。
日本人は自分の気持ちを押し殺すイメージが彼にはあるらしい。
そんな時間を過ごしながらもタクシーをまた捕まえて、ホテルまで送ってくれた。

世宗ホテルに向かう途中でソウルワールドカップ競技場を見た。
そこは最近クリスチアーノロナウドが親善試合に訪れたにも関わらずプレーをしなかった場所でもあった。彼から丁寧に説明を受けた後に「サッカー選手は誰が好き?」と聞かれた。私は速攻で「ベッカム。」と答えたらめっちゃ笑ってた。時代が止まりすぎとも言われたけど、ベッカムが与えたイケメン伝説の数々は語り継がれるべきだよ。
「サッカーちゃんと見たことある?」と少し馬鹿にしたように言われたから「そっちだってウイイレ(ウイニングイレブン)ばっかやってたらあかんよ。」と言い返した。私がウイイレを知っていたことに驚いたようだ。
男の人はウイイレと共に成長している。(気がする。)

雨が降った後の霧がかったソウルの街並みをタクシーで走行していると、とても幻想的で思わず「fantastic」と呟いたほどだ。
タクシーから流れるクラシック音楽もそのムードに拍車をかけるようで、彼はそのムードを「RPGみたい。」と言った。またゲームかい。

本当にゲームをしていたような楽しい時間はあっという間に過ぎて気づいたらタクシーはホテルに着いた。
彼にホテルで少し待ってもらい、日本から彼のために持ってきていたお土産を渡して、私は感謝を伝えた。
「また会おう。」と言うと「次に会うのはまた7年後かもね(笑)」と最後まで笑いながら約束して、私たちはまたバイバイした。

7年前のマルタでの日々がこうして今でも思い出として残っただけでなく、繋がりを持って今日まで至ることに少しの感動と相手への感謝を感じずにはいられない。年齢も違う、国も文化も違う中でお互いにそれぞれの年月を過ごしてきた。それはこれからもきっと変わらないけれど、こうして会えたこと、そして今でも変わらない友情を再確認できたのは嬉しかった。改めてサンキュー!ブラザー!
あの時にマルタに留学をしていなければ彼とも会わなかったし、私は英語から逃げていただろう。
近年、マルタが留学地として知名度がアップして多くの日本人が留学先にマルタを選んでいる。
私も何人かに「マルタってどうだった?」と聞かれることがあったが自信を持ってマルタをオススメしている。
「マルタに短期留学していました。」と言うと大抵の人は「マルタってどこ?」と反応してくれるし、「自分もマルタ行ってました!」って返してくれるとやっぱり盛り上がってしまう。
いずれにせよ、マルタ共和国での留学経験がなければ私の人生変わっていたのかもと考えるとゾッとする。同じようなことを繰り返し書くが、本当にマルタに留学してよかった。マルタ、最高だよ。


翌日は日本に帰るだけだったから、眉毛とリップだけメイクしてホテルを後にした。空港行のリムジンバスに乗って、私が乗った2,3個後に日本人家族が入ってきた。バスは満席になって私の隣に日本人家族の中の小学4年生位の女の子が座った。
運転手がこれから高速に乗るからシートベルトをしてくれといい、私はすんなりシートベルトを着けたのだけど、隣の女の子はてこずっていた様子だったので手伝ってあげた。彼女は私の顔を見るなり、「ありが、あ、サンキュー!」と日本語から英語に言い直した。「(心の中で)まてまて、私も日本人や。」と突っ込みたかった。彼女の中で私は何人に見えたのか。いや、何人でもいいのだけれど。とにかく、笑顔で返しておいた。

そんな私の夏休み、2019。




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