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#紀貫之
シン・短歌レッス97
紀貫之の和歌
紀貫之の『古今集 恋歌二』は「不逢恋」で冒頭の小野小町の夢の恋で有名だけど、ここにも紀貫之が登場してくるのか?もしかして全部の巻に最低一首は入っているのか?それも考えられる。
「思ひ」の「ひ」は掛詞で火も掛けてある。四句目「嘆き」も「投げ木」の掛詞。火にくべる投げ木でますます燃え上がる恋。『新古今集』の式子内親王の紀貫之のこの歌の本歌取りがあるという。
式子内親王の歌は恋人がや
シン・短歌レッス96
紀貫之の和歌
『古今集 恋歌一』。『古今集』だけでなく次の勅撰集『後撰和歌集』にも収録されている歌だそうで、上句が情景で、下句が心情という構図。景から情へというのが『万葉集』以来の伝統であるという。「吉野河」は歌枕。「はやく」を導き出す序言葉が景として読まれているのだが、それは情にも影響を与える見事な景になっている。下句では「思ひ」しか言ってないのである。
『古今集 恋歌一』
「恋歌一」はま
シン・短歌レッス94
紀貫之の和歌
『古今集 羇旅歌』で前の『離別歌』との違いは「羇」も旅のことで旅に特化したものなのか?「糸によるもの」は糸が縒り合わせる前の段階で「片糸」という非常に細いもの故に四句の「心細く」を形容した言葉になっている。この歌の心は三句目以下でその前はものに託した言葉ということだった。どうってないようなんだが、吉田兼好が『徒然草』で今の人にはとおてい読めそうもないと言ったとか。「片糸」というのが
シン・短歌レッス93
紀貫之の和歌
『古今集 離別歌』で紀貫之が志賀の山越えで山中の清水のほとりで詠まれた歌だという。「むすぶ手の」は手をむすぶことではなくて、水を掬い上げて、その雫が濁らせてしまうという意味だという。美しい女性との別れだというがどこにそんな姿があるのだろうか?しかし、藤原俊成が歌論書で「大方うすべて、詞、事の続き、姿、心、かぎりもなき歌なるべし。歌の本体は、ただこの歌なるべし」と絶賛しているという。
シン・短歌レッス92
紀貫之の和歌
『古今集 冬歌』で紀貫之が一年の終わりを詠んだ歌。鏡に映し出された自分の姿までも老いてしまったという意。「増鏡」は「真澄みの鏡」から転じた言葉。紀貫之は当時三十五歳ぐらいだったらしい。当時は四十歳で老人の仲間入りだと言うから、今の55歳ぐらいなのか?でも55歳でも若作りの人は若いよな。このぐらいの年で病気になって一気に老けた感じになってしまったが。ナルシスだったら絶望する年かもしれ
シン・短歌レッス91
京都行きの電車に乗ったが京都は通過駅だった。もう何十年も京都に行ってなかった。京都といえば自分の中ではお寺巡りよりもジャズ喫茶。
ベンチャーズよりも、『二十歳の原点』の高野悦子が「しあんくれーる」で聴いたというスティブ・マーカス。
紀貫之の和歌
『古今集 秋歌下』の紀貫之が9月の末日に秋の締めくくりとして詠んだ歌。「小倉の」は「をくら(し)の」で掛詞「暗い」という意味であり、鹿の姿ではなく鳴
シン・短歌レッス87
紀貫之の和歌
紀貫之のスーパーテクニックの短歌。夏に袖が水に濡れたことから、水が氷になり氷が溶けて、立春という四季の循環を歌った歌という。そこまでやらなくても立春でいいじゃんかと思うのだが過去に浸るのが和歌なのか?
古今和歌集
少し古今和歌集を読んでいくことにする。テキストは小町屋照彦『古今和歌集』「秋歌上」(ちくま学芸文庫)。
季節がら「立秋」からその巻の最初に来る歌は重要な歌だとされて
シン・短歌レッス86
紀貫之の和歌
前回の復習も兼ねて、「見立て」の紀貫之の名歌。
落花の美を詠んだ歌で、第三句「なごり」がポイント。第二句までは現実に散る桜を見たまま描いているが「なごり」は「名残」と 「余波」を表して、心情から想像の世界へ入っていく。「水なき空に波ぞ立ちける」は空に舞う桜だがその桜吹雪が海の白波のようだと見立てている。「水なき」もポイントで青空を海のように見上げてそこに白波のような桜が舞い散るので
シン・短歌レッス80
紀貫之の和歌
『古今集 夏』のホトトギスばかり読んだ一連の歌でほぼ初期の歌だという。出典となった歌合では、紀友則の恋の歌と合わせられているから、この一夜は女性の元へ行った歌だという。ホトトギスよりも短夜を歌ったものだと。
同じような歌に『古今集』を編集時に醍醐天皇から歌を詠めと言われて詠んだのが、
漢字の郭公と時鳥の区別はなんでだろう。郭公の方が古い言い方なのか?
「桜花」の歌も『古今集