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掌編小説 | 儀礼

※暴力的な表現を含みます。






 平日の昼間だ。早朝から江の島観光をした帰り、新宿までの普通電車の車内は空いていた。座席のシート一列を二、三人で分け合い、それぞれが他人の空間に立ち入らない配慮をして座っている。

 わたしにはあきらの右側を半歩下がって歩く癖がある。彼の前に立とうと思ったことはない。それはわたしが彼と保つ、絶妙な角度と距離であって、彼の方でもおそらくそう感じている。そのことについて二人で話したことはない。二人の間に保たれた距離というのは、恋人たちが一緒に過ごしていく中で、互いを探り合い、感覚的に見つけたものなのだ。だから誰かに説明する必要はないし、言葉にするのはナンセンス。わたしは、そう感じている。

 晶が座った右隣に腰をおろした。晶は座ると腕組みをする癖がある。わたしは彼の肘に当たらないように、体の向きを整えた。
 座るとすぐに、寝るね、と言って首を傾け、寝息を立て始めた晶の背中に隠れるようにして、わたしも小さくあくびをした。
 あくびをした顔を上げると、そのまま左の肩越しに、流れていく景色を見ていた。何も感じない。初めて見る景色に、わたしは何も感じることがないのだ。この世界には、誰もが旅を楽しんで、初めて見る景色に心を震わせ、また旅に出たいと願うものだと信じる人達がいる。わたしは違う。見慣れた景色を愛おしく思い、情をかける。少しずつ時間をかけて見えてきたものに愛着が湧き、それを見つけた自分自身に満足する。それがわたしにとって〝愛情〟という観点で、ある種の到達点だった。

 「あなたは動くものに目がいくタイプ? それとも動かないものに気持ちが向くタイプですか」
 出会った時、何気なくわたしが口にした、たいして意味を持たないこの質問に、明らかに面倒くさそうな態度をとったのが晶だった。彼のわたしに対する静かな怒りは、内に秘めた暴力性を物語っているようで、わたしは彼に強く興味を持った。実際、晶は暴力的な一面を持っており、初めてわたしたちが男女の関係になったときには、久々に恐怖で震えた。それでも、次の約束が欲しくて彼に連絡をとったのはわたしのほうだ。
 わたしは、決して暴力を許容しているわけではない。うまく説明がつかないが、暴力に付随した見過ごせない愛を欲している。
 恐怖や痛みは、ほとんどの人にとって苦痛でしかない。だけど、わたしはそこに一筋の光を感じることがある。わたしは暴力に依存しているのではなくて、その一筋のありがたい光に魅了されているんだ。
 
 電車の振動で、晶の体がだんだん左側に傾き始めた。晶がわたしの体から少しずつ離れていくことに不安を感じて、わたしは彼の肩を優しく叩いた。
 びくっと体を震わせた晶が驚いて目を覚まし、わたしを見ると睨んだ。
 「ごめんね、体つらそうだったから」
 慌てて弁解するわたしの言葉には耳を貸さず、晶は無言で座り直し、また眠りに落ちた。
 晶が寝入ったことを確認して、わたしは細く長い溜息を吐いた。晶の体がわたしから離れたときに感じた不安、睨まれたときに思い出した昨夜の情事。わたしは目をつむり、自分の左頬をなで、忘れかけている痛みを思い出す。
 
 動くな、と初めての夜に晶がわたしに言ったとき、やっぱり、と思った。この人の支配欲は、きっとわたしを物のように扱うことにあるのだと感づいていたから、わたしはひとりほくそ笑んだ。
 後ろを向けと言われて、拒んだ。一瞬の内に平手打ちをされた。左頬だ。彼は右利きで、わたしの左側を激しく打つ。
 わたしから拒まれれば、その力は強大になり、息が止まりそうなこともある。わたしは殴られても泣いたりしない。自分の体が彼の物でありたいと願う。物でありながら、彼の指示にすべて従うわけではない。そのことを彼に知らせることが、わたしからの唯一のメッセージで、わたしという存在を認識させるための手段だった。
 わたしの思惑どおり、彼は物としてのわたしの肉体と、少しの意思を感じさせる抵抗に興奮したようだった。こうなるとわたしたちはもう離れることができない。互いに依存するのだ。

 昨晩もいつものように激しい平手打ちを受けた。晶はこぶしで殴りつけることはしない。手のひらを使い、できるだけ大きな音を立てるのが好きだ。泣きも喚きも、怒号もないわたしたちの夜は、空気が震えるような、肉を打つ乾いた音の中に晶の嘲笑が混じる。もうとっくに聞こえなくなっている左耳よりも感じやすいわたしの右耳は、そんな不穏な音を聞きたくて聞いているのだ。誰にも知られなくていい。ただ二人だけでこの時を生きていたいと思うとき、わたしは絶頂に達する。そのとき初めて泣くことを許されるのだ。それもわたしたちがたどり着いた、二人しか知らないルールだった。


 目を閉じて頰をなでていると、晶が目を覚ました気配を感じた。
 「すごく寝た。いびきかいてなかった?」
    と晶がわたしに微笑みかけた。
 「全然、静かだったよ」
 そう言ってわたしも、晶の肩ごしに笑う。
 晶がわたしの右手を掴んで、自分の腿の上に置いた。デニム生地のひんやりとした温度を感じる。
 「何が楽しかった?」
 晶がわたしに訊いた。何を問われているのかわからず、しばらく黙った。
 「楽しくなかったの? 江の島」
 晶が顔を覗き込むようにわたしを見た。
 「ああ、江の島のことね。うん、楽しかったけど、よく覚えてない」
 わたしが正直に答えると、晶が笑った。
 「そういうとこあるよね、美和みわちゃんって」
 美和ちゃん。わたしはその呼び方に寒気を感じたが耐えた。晶の趣味で、外ではわたしをちゃんづけで呼ぶ。晶の欲求が高まったときにわたしを罵り虐めるための、いわば下準備のようなものだ。落差があればあるほどいい。それはわたしも同じで、今感じている寒気は明らかにわたしの欲を刺激する。
 「次はいつ会える?」我慢できずに訊いた。
 「まだ一緒にいるじゃん」晶が笑った。
 今わたしたちは分厚い化けの皮を被っている。すぐにでもこんな物は剥ぎ取り、地獄のような痛みの中に沈みたい。
 わたしの横でにこやかに笑う晶を殺したいと思った。息苦しくて泣きたかった。どんなにひどい暴力にも耐えるのに、穏やかな日常では死を求めてしまう。
 生きづらい日々の中で、唯一わたしが幸せだと感じることは、わたしの左側を愛してくれるこの人がいて、決してわたしの右側に興味を持たないことなのだ。 
 




[完]


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