掌編小説 | 棺(Kan)
なみだ。
貴方の左眼から零れた。それはわたしの右頬にしばし留まっていたが、やがて貴方の指の腹で優しく拭われてしまった。
貴方が去ろうとしている気配を感じる。
蛍光灯の白い灯りを遮っていた貴方の体が、ゆっくりと離れていった。
そばにいて欲しいというわたしの叫びは、決して届かないと知っているから、わたしは黙ってまぶたの裏の眩しさに耐えた。
代わる代わる、わたしの頬に冷たい誰かの手の甲が触れる。
わたしは今、貴方以外に触れて欲しくはないのに。
髪を撫でながら、わたしの耳元で囁く者たち。その誰のことも思い出せない。きっと、わたしを大切に思ってくれた人であろうことはわかるのに。
このことはもどかしく、それでいてわたしを密かに満足させた。
わたしの、最期の願いは聞き入れられたのだ。
誰のことを忘れても、貴方のことを最期の最後まで覚えていたいというわたしの願い。
花の香はわたしを包む。
もう、いよいよ今生の別れというとき、きっと貴方はもう一度わたしに触れるでしょう。
わたしは静かにそのときを待つ。
寝ているわたしが、今どんな顔であるのか気になる。
乱れた前髪を整えて欲しい。
少し空いた口は閉じさせて貰えないだろうか。
そんなことを考えている折、温かな大きな手のひらに頬を包まれた。
覆い被さる貴方の体で、まぶたの裏が再び薄暗くなると、わたしの緊張は高まった。
二度と脈打たない心臓を意識したわたしは、まだ人としての記憶を失っていない。
貴方の柔らかい唇は震えていて、恐る恐るわたしの口元に、ほんの少しだけ触れた。
もっと感じたいのに、そんなに怯えなくていいのに。
これが最期のキスだなんて嫌だ。
わたしたちはこれまで、こんなに短くて悲しいキスをしたことはなかった。
「さようなら」と貴方は言った。
わたしは「愛してる」と言って欲しかった。
甘野さん、よろしくお願いします°・*:.。.☆