帰敬偈
ここでいう、戯論とは言語的多元化・言語的な多様性・概念化という心の働きのこと。
もろもろの戯論を滅す ⇒ 思考が静まり、沈黙している状態。
『中論』を読んで理解できる人はほとんどいない。八千頌般若経も同様で、普通に読んでも理解するのは難しい。これらの経典には、人間の論理では理解しがたいことが書かれている。人間の頭脳は自然に論理的思考をするようにできており、文章を読む際にも自然と論理的に読もうとする。
しかし、八千頌般若経や中論は通常の論理を超えた内容を含んでいるため、論理的に読むだけでは理解できない。彼らの意図を汲み取る能力がないと、何を言っているのか全くわからない。
絶対に証明できないもの
自分が存在することは絶対に証明できない。これは認めるかどうかの問題に過ぎない。世の中には証明できないことが多いが、それについて議論することは可能だ。このような議論は形而上学の領域に入る。ブッダは形而上学の議論を避け、沈黙を守った。「般若心経」や「中論」は、この世界が夢のようなものであり、永遠に変わらないものは存在しないと繰り返し説いている。彼らはそれを証明したと考えているが、そもそもその証明自体に誤りがあり、実際には証明にはなっていない。
すべてのものには本質的な存在はなく、「空」として現れては消えるという意味で、不生不滅の「縁起」を語っている。「般若心経」での不生不滅の意味は、本質的存在が実体ではないことを示している。すなわち、不生不滅の「縁起」とは、仮に生じて仮に滅するものであり、どんなものも本当には生じず本当には滅しないということ。
この考えに基づけば、世界は虹のように現れては消える夢や幻のようなものである。これが彼らの世界観であり、以上がこれまでのまとめ。
不生不滅の縁起(八不の縁起)
「不生不滅の縁起」は「縁起」が生じたり滅したりしないという意味ではない。「縁起」自体は、生滅を論じるものではない。では何が生じたり滅したりしないのかと言えば、「どんなものも」生じたり滅したりしないということ。訳では原文(漢文)にはない「何ものも」という言葉が付け加えられている。
ナーガルジュナの思想
たしかに「空」についての解説書は巷に数多く存在し、それらを読むほどに「空」の概念がますます不明瞭になる。しかし、抽象的な説明にとどまらず、「空」を明確に理解するためには、直接ナーガルジュナの言説や般若心経の思想家たちの言葉をその文脈の中で捉える必要がある。当時の歴史的背景を考慮し、文脈に即して理解することで初めて「空」の本質が明らかになるのである。
自性論
初期仏教:この世に関しては「有」でもなく「無」でもない。(存在の仕方が何となくぼんやりしている)
般若心経:不生不滅(ものが究極的には存在していない)
八千般若心経:実に幻と物質的存在は別々ではありません。世尊よ、物質的存在は幻であり幻は物質的存在と同じです。(ものの存在の仕方が幻想のように主観の創作にすぎない)
ナーガルジュナはこれらを踏まえた上で、ものに自性がなく、すなわち自性が欠如している状態を「空」として明確に定義した。ここで重要なのは、自性そのものの本質。この自性という存在が何であるかを理解しなければならない。自性の定義が欠けていれば、空の概念も意味をなさない。
~である。(等しい・イコール)
~がある。(そこに存在する)
自性は常住かつ不変不滅 ⇒ 自性は無常かつ不生不滅
ブッダ:五蘊はアートマンでない
龍樹の勘違い:アートマンがない
ダルマ(法)と自性
無自性 ⇒ 非自性
詭弁論法
相依性の縁起
サーンキヤ哲学では「自己」と「プラクリティ」がある。自己は「有」と考え、プラクリティは「無」と考えるのがよい。これらは形而上学的な概念であり、「有」と「無」の言葉で説明するのが適切である。
物が存在し、無であることは同時に成立しない。サーンキヤ哲学者は自性を仮定し、それを体験的に知っている人もいる。存在を認めるが、同時に無と定義しているため、存在と無は同時に成立しないということになる。しかし、無がなければ有もない。常に有と無の両方が存在する。無なくして有も無もないわけではなく、有は自立自存しており、不生不滅であるため、片方がなければ片方がないということは成立しない。これは相互依存ではなく、自立している。したがって、この議論は全て否定できる。
愚かな人は物に自性を想定し、有るとか無いとかを議論のために煩悩に支配されると言っているが、サーンキヤ哲学では「有」と「無」を設定し、意識をプラクリティあるいはプルシャに持ち上げることで解脱を目指している。煩悩から脱することを目的としているため、この論理には根拠がない。「有」と「無」で議論することにより煩悩に支配されるという主張には根拠がなく、自らの立場を擁護する言葉でしかない。
「縁起」によって存在するものは水に映った月のように「有」でも「無」でもないという人は、挫折に心が奪われないと言うが、サーンキヤ哲学でも説一切有部でも「縁起」によって存在するものは「有」でも「無」でもないとされる。水に映った月のように「有」でも「無」でもないわけではなく、単に必要のない部分である。このような文章は無意味である。
誤った認識によって苦悩する煩悩の過失がないというが、これを認めない立場の人には根拠がない。これは無意味な言葉の並びに過ぎない。
もしもその本性上あるものが有であるとするならば、そのものの無はありえない。そのものが無になること、なくなることはない。本性が無である時、何者が存在し変化することがあろうか。しかし、あるものが有であるならば、それを自己と認めているのではなく、五蘊の中の何かが有であるならばという意味が理解しづらい。本性上有であるという意味が分からない。ある個人が自己プルシャとプラクリティ、すなわち有と無を本性として持っているのではないか。物も魂を持ち、石や花などすべての生命も自己プルシャとプラクリティを本性として持っている。
本性上、どんなものも「有」でありかつ「無」である。本性が2つあるとされ、「有」と「無」という二つの性質を持つ。ゆえに、本性に関する議論は成り立ち得ない。本性が無である時、何者も変化することがないという考え方は誤りである。「無」の本質は無常であり、変化するものである。自性が本性であるからこそ変化する。プルシャという本性があるため、それを保持しようとする力が働くのである。
本性が無である時、何者も変化することがないという考え方は成り立たない。むしろ、本性が無を持つため、現在の状態を維持しようとする力が働くのである。「無」だけが本性ということはなく、「有」というのは執着であり偏見であり、「無」というのは断滅を意味する偏見である。この五蘊のものが五感に認知される状態を「有」と呼び、認知されなくなった状態を「無」と呼んでいるだけである。「有」と「無」は別の概念であり、これは形而上学的概念と現象学的概念を混同した議論である。
議論とは立場に応じてどうにでも解釈できるものであり、逆の立場から反論することが可能である。このような立場を認めることを嫌う人も存在し、そのような人々は、この考え方を愚かと見なすことがある。愚かな人々は、苦しみから逃れられないとされるが、実際には、修行して悟りを得ることが重要である。
縁起と因果
「縁起」の関係はペアになっており、「因果関係」はペアに なっていない。
例えば、火と煙の関係を考えてみる。一般的には、火が原因で煙が結果と捉えるのが普通だ。火があれば煙が立ち上るし、火がないところで煙が立つことはない。したがって、「火があれば煙が立つ」という命題は常に成り立つ。また、「煙があるならば火がある」という命題も成り立つ。つまり、煙の原因は火であり、火がなければ煙は立たない。この関係を「因果関係」と呼ぶ。火が原因で煙が結果として現れるということだ。
一方、「縁起」という概念を考える場合も同じように、火と煙の関係が当てはまる。縁起の本質は、「これがあれば彼がある、これがなければ彼がない」という関係だ。つまり、「火があれば煙がある、火がなければ煙がない」という二つの命題が成り立つ。
ここで注意すべきなのは、縁起の関係には時間的前後関係が必ず存在するということだ。火が先に存在し、その結果として煙が後に発生する。原因が先で結果が後になるという時間的な前後関係が縁起の重要な要素となる。
このように、因果関係と縁起の関係は、火と煙の例で説明することができる。火が原因で煙が結果となり、時間的な前後関係を持つことが縁起の本質だ。
対偶
⇒参考記事
中村博士が言うように、前の方は時間的前後関係であり、後ろの方は相互依存関係である。書き換えが可能かという点だが、できない。なぜできないかというと、論理には非常に重要な点があり、時間を含む場合、単純な書き換えができないからだ。
区別の哲学
中論や般若経では、言葉に頼らない広大な世界が存在することを強調している。非論理的な言葉を多用するのは、その言葉の彼方にある真実へと人々を導こうとするためだ。これをまず理解すべきである。
実在論の生成
説一切有部は、すべての存在が単一の本体と単一の機能を持つ究極的要素で成り立っていると定義し、世界を七十五の究極構成要素に分類した。
しかし、ここに大きな問題がある。単一の本体に単一の機能を持つものなど現実には存在しない。この矛盾に気づいたのがナーガールジュナだ。彼はこの矛盾点を徹底的に突き、説一切有部の理論を崩壊させた。
もし何かが「究極の本体」であり、それが唯一の存在で、ただ一つの機能しか持たないとしたら、それは他のものと関わることができない。例えば、ある物質が全く変わらず、他の物質とも影響を与え合わないとする。そうなると、世の中の全ての出来事が「縁起」(原因と結果の連鎖、相互依存)によって成り立っているという考えが否定されることになる。
何かが他と影響を与え合わずに単独で存在するなら、物事の成り立ちの説明ができなくなる。すべてが他と関わりあって成り立つという「縁起」の考えを否定することはできないということだ。
意識・物・心
「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社
参考文献
仏教の基礎知識シリーズ一覧
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