見出し画像

中論01/大乗仏教【仏教の基礎知識11】


帰敬偈

二十代の終りから三年間、私はインドのナーランダー仏教研究所に教師兼学生のような身分で滞在していた。私の個室の隣りの室に、これも教師兼学生のような身分のラマがいた。もの静かな、しかも博識の、リクツィン・ルンドゥブというチベット人であった。たまたま「中論」が話題になったとき、このラマは、彼がチベットのラマ寺院で勉強していたころ、
不生にしてまた不滅、不常にしてまた不断、不一にしてまた不異、不来にしてまた不去、能く是の因縁を説いて、善くもろもろの戯論けろんを滅す。我れ仏に帰敬礼す。もろもろの戯くものの中の第一たり
という『中論』冒頭の帰敬偈を読まされてどんなに驚いたか、そしてその意味はいまもって彼にはほんとうに分らない、ということを話してくれた。
昔も今も、そして日本だけでなく仏教圏の多くの国々で、仏教の思想を学ぶ学生は無数にいるが、『中論』を読んだことのない者はおそらくいないであろう。だが『中論』を読んで、すぐにそれが分ったといえる学生も、おそらくいないであろう。チベットでも同じことなのだな、とそのとき私は深い感銘を覚えた。(p48-49)

「空の思想:仏教における言葉と沈黙 」梶山雄一/人文書院

ここでいう、戯論とは言語的多元化・言語的な多様性・概念化という心の働きのこと。
もろもろの戯論を滅す ⇒ 思考が静まり、沈黙している状態。


『中論』を読んで理解できる人はほとんどいない。八千頌般若経も同様で、普通に読んでも理解するのは難しい。これらの経典には、人間の論理では理解しがたいことが書かれている。人間の頭脳は自然に論理的思考をするようにできており、文章を読む際にも自然と論理的に読もうとする。
しかし、八千頌般若経や中論は通常の論理を超えた内容を含んでいるため、論理的に読むだけでは理解できない。彼らの意図を汲み取る能力がないと、何を言っているのか全くわからない。


いまの日本で龍樹の研究に生涯をかけている人、といえばまず瓜生津隆真氏のことが胸にうかぶ。氏がかつて「中論を勉強すると不遇の人生をおくることになる」と云われたのを私は思い出す。氏がどういう心境でこういうことを言われたか分らないが、『中論』に限らず、いまの世で仏教学を専攻する学生に快適な人生がおとずれるはずのないことはたしかである。それは別として、偶然なのかどうか分らないが、心情の激動と人間関係でのつまずき、そして波瀾にみちた生涯というものは多くの空の哲学者に共通している。(p49)
中観の思想家たちの生涯は、その哲学と瞑想のさし示す絶対の静寂にも似あわず、狂瀾にみちたものである。彼らの弁証は、それが伝える空の世界の清明さにもかかわらず、火のように熾烈な論理であった。この世界を夢、幻と観た彼らが現実に見たものは、森林の閑かな生活ではなくて、みにくい人の世の悪夢であった。そういうことが中観の思想とまったく無関係なものとはいえないであろう。悪夢の痛みを知らぬ者に、この世界を夢、幻と観ることなどができるはずはないからである。(p50)

「空の思想:仏教における言葉と沈黙 」梶山雄一/人文書院

絶対に証明できないもの

ものはすべて原因によって生じ、他のものに依存して存在する。その縁起的な存在性は、自立的な実体の存在性とはまったく異なっている。縁起したものは、それ自体の実体性をもたないから、存在するとも存在しないとも言えない。だから、自立的な実体を仮定して、その有限・無限、生と滅、去と来とを論ずる形而上学はブッダにとって無用の議論であった。ブッダはかかる形而上学的問題に対して沈黙を守った。(p103)
『般若経』や『中論』がほんとうに云おうとしていることは、もしものが本質的存在として実在するならば、われわれがつねに経験している因果関係や生滅変化の世界が説明できなくなってしまう。だからものは本質的存在としてあるのではない。ものは本質的存在としては空である、ということなのである。「不生不滅の縁起」ということは、だから、すべてのものは本質的存在として生滅し去来するのではなく、本質的存在の空なるものとして、夢や幻のようにあらわれ消えるのだ、ということである。(p72)

「空の思想:仏教における言葉と沈黙 」梶山雄一/人文書院

自分が存在することは絶対に証明できない。これは認めるかどうかの問題に過ぎない。世の中には証明できないことが多いが、それについて議論することは可能だ。このような議論は形而上学の領域に入る。ブッダは形而上学の議論を避け、沈黙を守った。「般若心経」や「中論」は、この世界が夢のようなものであり、永遠に変わらないものは存在しないと繰り返し説いている。彼らはそれを証明したと考えているが、そもそもその証明自体に誤りがあり、実際には証明にはなっていない。
すべてのものには本質的な存在はなく、「空」として現れては消えるという意味で、不生不滅の「縁起」を語っている。「般若心経」での不生不滅の意味は、本質的存在が実体ではないことを示している。すなわち、不生不滅の「縁起」とは、仮に生じて仮に滅するものであり、どんなものも本当には生じず本当には滅しないということ。
この考えに基づけば、世界は虹のように現れては消える夢や幻のようなものである。これが彼らの世界観であり、以上がこれまでのまとめ。

不生不滅の縁起(八不の縁起)


八不》はっぷ」の縁起
「帰敬偈」
何ものも滅することなく、何ものも生ずることなく、何ものも断ずることなく、何ものもじょうであることなく、何ものも同一であることなく、何ものも別異であることなく、何ものも来ることなく、何ものも去ることのない、戯論(言語的多元化)が寂滅じゃくめつし、吉祥きちじょうである(めでたい)縁起を説きたもうた正覚者しょうがくしゃ(仏陀)、もろもろの説法者のなかの最もすぐれた者に、敬礼す。(p186-187)

「ナーガルジュナ:空の論理と菩薩の道 」瓜生津隆真/大法輪閣

「不生不滅の縁起」は「縁起」が生じたり滅したりしないという意味ではない。「縁起」自体は、生滅を論じるものではない。では何が生じたり滅したりしないのかと言えば、「どんなものも」生じたり滅したりしないということ。訳では原文(漢文)にはない「何ものも」という言葉が付け加えられている。

仏陀は「縁起」の法(ことわり、道理)を悟り、そのことわりを説き示されたのであって、仏陀の説法は縁起のことわりにもとづく教えが中心であったといえる。
もろもろの事柄は原因から生じる。
如来はそれらの原因を説きたもうた。
またそれらの消滅をも説かれる。
大沙門はこのように説く人である。
この偈が「因縁偈」、すなわち縁起のことわりを説いた偈と呼ばれている。
***
ものが生じ事柄が成り立つ、また生じたものや成り立った事柄が滅する、これが「縁起」ということである。このようにものの生滅は原因(因)と条件(縁)によるのであるが、同じく縁起を説いているとしても、帰敬偈と因縁偈とには、前者は不生、不滅の縁起を、後者は生、滅の縁起を語っていて、一見すると矛盾するように見える。しかし問題は、不生、不滅の縁起とは何を意味していっているか、ということである。
その要点は、生じるとか、滅するか、といっても、何ものもそれ自体(本体、実体)として生じるのではなく、滅するのではない、ということであって、そこに「縁起」の深意があり、このような縁起を仏陀は説かれた、と帰敬偈はいっているのである。(p188-p189)

「ナーガルジュナ:空の論理と菩薩の道 」瓜生津隆真/大法輪閣

いま「不生(不滅〜不去)なる縁起」(Aとする)という表現を、それに続く「戯論が寂滅している縁起」(Bとする)および「吉祥なる縁起」(Cとする)と比較してみよう。
たとえば「赤い花」という概念は、直ちに「花は赤い」という命題に置き換えられるように、右のBとCとは、「縁起は戯論が寂滅している」、「縁起は吉祥である」と、容易に置き換えられる。
同じことをもしもAについておこなえば、「縁起は不生(不滅〜不去)である」となる。これをそのまま解釈すれば、「縁起は生ずる(滅する〜去る)ことがない」と見て行かなければならなくなる。
このような過誤を免れるために、私はこの冠詞に bhāva (またはその複数、そしてふつう「中論」では、この語が「法」と漢訳されているから、以下は「法」という)という概念を持ちこみたい。すなわち、「縁起は法が不生(不滅〜不去)である」(→「法が不生(不滅〜不去)である縁起」と解することを提案したい。
このようにして、「法が生ずる(滅する云々)ことがない」縁起であれば、たとえば戯論とは、もともと法に関してなされるのであるから、当然戯論は寂滅せざるを得ないことになり、右の帰敬頌は首尾一貫することができる。

「諸法不生」(=縁起)とは、生そのものの否定ではない。「生ずる」という概念当体の否定ではなくて、「生ずる」という概念が必ず「Aから生ずる」という命題に発展し、そのAに独立自存の実体的なるものを賦与し、あるいは、実体Aが存在しなければ、「生ずる」という概念が成立しないとする思考に対して、激しい否定を浴びせるものなのである。(以下「滅する云々」についても同じ)

増補新版「ナーガルジュナ・親鸞ノート」三枝充悳/法蔵館

ナーガルジュナの思想

コロンビア大学のW.T.ド・ベリー教授は『インド、中国・日本の仏教伝統』の中で、空の思想を説明して、次のように説明されている。

"現象世界には本当に存在しているものはない。
すべては究極的には非実在 (unreal) である。
したがって、世界に関するすべての合理的理論は、非実在の思想家が非実在の思考によって展開した非実在のことにかんする理論である。
このような論理によって、空が究極的リアリティであると説く中観派の思想でさえも非実在であると言えるが、そういう中観派の思想への反論自体もまた非実在であることになる。"

このような「空」の説明は「空」について何も明らかにするものではない。
なぜなら、それによって「空」を説明しようとされている「非実在」(unreal) という概念自体が、いったい何を意味しているかさっぱり分からないからである。
***
空の思想の解説書を読んでいるうちに気がついたもう一つの方法論の問題点は、文脈の問題であった。
実にあまりにも多くの書が「空」という概念を、それが現れている背景や文脈から抜き取り、解説者自身が慣れ親しんでいるシステムのなかに埋め込んで説明を試みるものであった。
***
哲学者が自己の思想を語るのに、空の概念を利用しているにすぎない場合が多く、それはそれ自体で意義のあることではあっても、空とは何かを学ぼうとする者にとってあまり役立つよものではなかった
***
また、この文脈からの離脱ということに関して、別のシステムを持ち込むのではなく、それ自身によって「説明」を企てようとするものさえあった。
例えば、真野龍海教授の論文には「空ずることによって空を説明する」(『龍樹教学の研究』「龍樹における般若経の理解」)というような、何か深遠そうな言葉が述べられているが、それは単なる同語反復にすぎない。
「空」がわからないから説明を必要としているのに、それを「空」で説明することは許されないであろう。
同じような批判は、「空は実に空で、それがそのまま非空である。この自覚に目覚めることを、仏教は教える」(秋月龍眠『鈴木大拙の言葉と思想』)などという鈴木大拙の説明にも向けられるであろう。
鈴木大拙の場合は、同語反復の過ちと、いわゆる「即非の論理」という彼自身のシステムへの移植、という二重の過ちが見られる。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

たしかに「空」についての解説書は巷に数多く存在し、それらを読むほどに「空」の概念がますます不明瞭になる。しかし、抽象的な説明にとどまらず、「空」を明確に理解するためには、直接ナーガルジュナの言説や般若心経の思想家たちの言葉をその文脈の中で捉える必要がある。当時の歴史的背景を考慮し、文脈に即して理解することで初めて「空」の本質が明らかになるのである。

自性論

ナーガールジュナによれば、空とは、「ものが究極的には存在していないこと」を指す言葉でもなく、また、「ものの存在の仕方が幻想のように主観の創作にすぎないこと」を指す言葉でもなく、また「存在の仕方が何となくぼんやりしていること」を指す言葉でもありません。
そうではなくて、空とはものに自性が欠如していることを指す、極めて意味の明確な言葉です。
自性とは「スヴァバーヴァ」(svabhava)というサンスクリット語の漢訳です。直訳すれば「自己自身の存在」というふうにでもなるでしょうか。
現代日本語訳では「実体」と訳されることが多いようです。
英訳では "self-existence" とか "own-being" あるいは "substance" などと訳されています。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm
  • 初期仏教:この世に関しては「有」でもなく「無」でもない。(存在の仕方が何となくぼんやりしている)

  • 般若心経:不生不滅(ものが究極的には存在していない)

  • 八千般若心経:実に幻と物質的存在は別々ではありません。世尊よ、物質的存在は幻であり幻は物質的存在と同じです。(ものの存在の仕方が幻想のように主観の創作にすぎない)

ナーガルジュナはこれらを踏まえた上で、ものに自性がなく、すなわち自性が欠如している状態を「空」として明確に定義した。ここで重要なのは、自性そのものの本質。この自性という存在が何であるかを理解しなければならない。自性の定義が欠けていれば、空の概念も意味をなさない。

ナーガールジュナは、空が、何もないことを意味しているのではないことを表現して、
”反論者は言う。
--- ではいったいただ無のみなのか、それともなんらかのものがあるのか。
これに対して答えて言う。「ある」と。
(Sunyata Saptati 空七十論40-42のナーガールジュナによる解説文)
と、断言しています。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm
~である。(等しい・イコール)
~がある。(そこに存在する)

「どのように(ある)かと問うならば(答える)」と、彼は論を続けるのですが、結局、空とはものが自性として成立していないこと、つまり、存在しているものには自性がないことである、と説明します。
”自性として、「存在」があるのでもなく、「無存在」があるのでもない。原因と条件から生起した「存在」や「無存在」は空である。”(空七十論67)
さて、このように見てみますと、空の意味を知るためには「自性」とは何か、ということがどうしても明らかにされねばならないことがわかります。
「すべてが空である」とは「すべてに自性が欠如している」ということだからです。
***
それでは、自性(svabhava)とは一体何なのでしょうか。
語源的にはすでに述べたように、「それ自身の存在」あるいは「自己存在」を意味します。しかし、言葉の本当の意味は、それが文脈のなかで如何に使われていたかを知ることが必要です。
ナーガールジュナの論敵は仏教内外にいますが、その中心的な存在は同じ仏教徒であるアビダルマ論師たちです。その中でも特に、ナーガールジュナの主要な論敵は、当時もっとも勢力を誇っていた仏教一派、サヴァスティヴァーダ派(説一切有部)の論師たちだったと言われています。
何故なら、「一切は空である」という思想が出現するには、それに関係する歴史的背景が必ずあったはずであり、サヴァスティヴァーダ派こそまさに「一切は有る」と説いた仏教宗派だったからです。
***
自性が、もろもろの縁と因とによって生ずると言うことは正しくない。自性が縁と因とによって生じたものであるとするなら、つくられたものである、ということになるであろう。(中論15:1)
さらにまた、どうして、自性がつくられたもの、ということがあるであろうか。なぜならば、自性とは、つくられたのではないものであり、また他に依存しないものなのであるから。(中論15:2)
つまり、ナーガールジュナによれば、自性は自立自存をその特徴としていることがわかります。
さて、もし自性がそのような性質のものであるとすれば、その存在は無条件に成立していることになりますから、当然、自性は常住かつ不変不滅ということになります。そこで、
自性があれば消滅することがない。(空七十論16)
ナーガールジュナの自性批判の論理は、自性を認めれば、自性は恒常不滅をその性質として持っているのだから、無常無我の仏教の基本思想に矛盾するようになる、というものです。
もし、有を主張する人々が存在に執着しており、同じ道にいるとしても、そこにいささかの不思議もない。ブッダの道によってすべては無常である、と言う人々が、論礙をもって存在(もの)に愛着していることは奇異である。(六十頌如理論40、41)
ナーガールジュナは、ヒンズー教徒たちが恒常不滅の魂に執着するのは当然だけれど、ブッダの教えを信じると自称する仏教徒自身が、ものには恒常不滅の自性なるものがあると信じていることは実に「奇異である」といって仏教内批判をおこなっているのです。
つまり、ナーガールジュナは、自性というものを、ブッダが否定したアートマン(個我)と同類のものと見なして、それを否定していることがわかります。
///|存在|内在すると思って信じられているもの|真実
ブッダ|人間|アートマン(個我=恒常不滅の魂)|無我
ナーガールジュナ|もの|スヴァバーヴァ(自性)|無自性、空

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

自性は常住かつ不変不滅 ⇒ 自性は無常かつ不生不滅

ブッダ:五蘊はアートマンでない
龍樹の勘違い:アートマンがない


ダルマ(法)と自性

さて、このアビダルマ論師たちは、存在を分析しただけでなく、その構成要素たるダルマ(法)の一つ一つに自性が有ると主張しました。
この自性説は、仏教思想史における新しい展開であり、初期の存在分析にはなかったものです。
問う。
なぜ「諸々のダルマはそれぞれ自性を含む」と(アビダルマ経典に)書いてあるのか。
答える。
自性はそれ自身、(ダルマの)外にあるのではなく、(ダルマから)離れて存在しているのでもなく、(ダルマと)別のものでもなく、つねに不空であるがゆえに、「(ダルマは)自性を含む」と説いてあるのである。
***
自性はそれ自身、過去に存在しないということも、現在に存在しないということも、未来に存在しないということもあり得ず、常に存在するのであるから、「(ダルマは) 自性を含む」と説いているのである。自性はそれ自身、増加もしないし、減少もしないから、「(ダルマは) 自性を含む」と説いているのである。(ダルマは) それぞれの自体 (自性) を執持し、決して散壊させることがないので、「(ダルマは) 自性を含む」と説いているのである。(『大毘婆沙論』巻59)
このように、存在を形成している構成要素であるダルマにはすべて自性が内在していて、ダルマと自性が切り離せない関係にあることを、アビダルマ論師たちは強く主張しています。
***
自性は増減もしない、という表現からも、自性が不変不滅性をもつものであることが暗示されています。この点については、次のような、アビダルマ論師の論議も残されています。
問う。
諸々のダルマの自性に転変(変化)というものはあるのか。
答える。
諸々のダルマの自性に転変(変化)はない。
問う。
ならば、なぜ「住異」(ものの存続と変化。ものが無常であること)があると言うのか。
答える。
「因縁(原因や条件)があるから転変なし」とも言われ、「因縁があるから転変あり」とも言われる。
***
「因縁があるから転変なし」というのは、すべてのダルマ(一切法)は、それぞれ自体・自我・自物・自性・自相に住していて、転変がないことを意味する。また、「因縁があるから転変あり」というのは、いわゆる、つくられたものは、勢いを得るときに生じ、勢いを失うときに滅します。それで、「転変あり」というのである。
このようにして、アビダルマ論師たちによれば、存在を構成している諸々のダルマには必ず自性があり、ダルマと自性は切り離せないこと、そして、自性は、原因もなく無条件的にダルマに存在し、未来・現在・過去を通して存在する恒常的かつ不変的な何かです。
ここには、まさに、ナーガールジュナが批判する自性の恒常性、不変性、不滅性、自立自存性などの性質が明らかに認められます。

アビダルマ論師は「無常」を否定したか
ナーガールジュナは、以上のような自性の性質ゆえに、自性の思想が仏教の基本的思想である無常・無我の思想と相容れない矛盾した思想である、と批判したのです。
しかし、アビダルマ仏教の思想家たち自身はもちろん、真の仏教徒としての自負を持ち、「無常無我」の思想を否定しているとは思っていません。
だから、例えば、次のようなアビダルマ論師の言葉が、ナーガールジュナに対する批判として記録されています。
「すべては無常である」といわれており、「すべては無常である」と示すことによって、非空であることも示しているのである。(空七十論 58解説)
***
もし経典の「すべては無常である」という言葉が真実であるとすれば、「無常である」ところの主体が存在するはずである。それゆえ、この「すべて」は存在するのでなければならない。これが彼らの論理です。このようにして、アビダルマ論師の立場から見れば、すでに述べた数々の自性の性質にもかかわらず、決してそれは、仏教の基本思想である無常の思想を否定したものではなかったのです。いったい、なぜこんなにアビダルマ論師たちは、自性というものを重視したのでしょうか。
問う。
もろもろのダルマが自性を含むと観察する時、いかなる勝利があり、どのような益を得ることが出来るのか。
答える。
「我想」(自己に恒常不変の個我があると信じる迷妄)や「一合想」(存在は五蘊の構成要素に分別できず、全体が一つとしてあると信じる迷妄)を除去し、「法想」(自己をダルマによって理解する考え方)や「別想」(存在は五蘊の構成要素に分別できるという考え方)を修得する益に満たされる。
もし、我想や一合想を除去し、すなわち、色法(物質世界)も無色法(非物質世界)も、久しかからず磨滅すると観じ、すべてのダルマは塵や砂のごとく散滅すると総観すれば、これによって、悟りの原因となるものを得ることが出来る……。
(「大毘婆娑論」巻59)
アビダルマの思想家たちから見れば、自性の存在こそ無常の現象を支えているものであると考えて、ものの自性を知れば世界が無常であることが悟れる、と主張したのです。

縁起論
空とは、ナーガールジュナによれば、存在がないことを意味するのではなく、存在には「自性(スヴァバーヴァ)」というものなどない、という意味であることを、説明しました。すなわち、人間には永遠に自立自存する「個我」(魂、アートマン)などないように、ものには永遠に自立自存する「自性」などない、という主張が空の主張でした。
しかし、かれは、単に自性を否定しただけでなく、「縁起という、仏教のもう一つの重要な概念を持ち出して、これを自性と対立させます。
縁起とは「依って起こる」と直訳されますが、おそらく「あらゆるものはさまざまな要因や条件に依存して存在している」、というほどの意味でしょう。
ナーガールジュナは、ものは依存関係によって存在しているのであって、自性主義者が言うように、ものに内在する不変の本質のようなものによって存在しているのではない、という主張をしたのです。
あれやこれに依存して生起したものは、自性をもって生起したのではない。(六十頌如理論 19)

縁起が自性の対立概念であることが語られていますが、空とは自性の否定でしたから、結局、空とは実は縁起のことである、ということになります。
つまり、「空=無自性=縁起」という等式が成立します。
およそ、ものが縁起しているということを、われわれは空であると説くのである。(中論 24:18)
およそ、どのようなものでも、縁起しないで生じたものはない。したがって、いかなるものであろうと、空でないものは存在しない。(中論 24:19)
また、ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれは言うのである。他による存在には本体[自性]はない。(迦濕論 22)

こうして、ナーガールジュナは、空とは縁起である、という、おそらく彼の中心思想とでも言うべき主張を確立します。
すべてが空であることを、大々的に取り上げはじめたのは、さまざまな般若経典の無名の著者たちですが、彼らは空とは何であるかを「縁起」によって説明することはしませんでした。
しかし、ナーガールジュナは、「自性」に対立する概念として「縁起」という仏教の伝統的概念を持ち出して、上記の例にあげたように、これによって空という概念を説明したのです。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

無自性 ⇒ 非自性

詭弁論法

仏教経典における縁起の思想は、さらにまた、これを一般化した表現がしばしば使用されています。それが、有名な
これがある故に、これがある。
これが生ずる故に、これが生ずる。
これがない故に、これがない。
これが滅する故に、これが滅する。(サンユッタ・ニカーヤ 12:37 増谷文雄訳)というものです。
***
このように、「縁起」という概念は、「無我」とか「無常」とともに、仏教の基本的な概念の一つとして確立されていたものであって、仏教徒であるならば、どの宗派であっても認めていたものです。
したがって、ナーガールジュナは、縁起という概念を持って、「自性」を主張するサヴァスティヴァーダ派(説一切有部)批判を展開しましたが、サヴァスティヴァーダ派たち自身は自分たちが縁起を否定しているとは思っていません。
ナーガールジュナは、自性と縁起が矛盾対立していて、自性を認めれば縁起が成立しなくなることを示そうとしますが、サヴァスティヴァーダ派たちは、むしろ、すべてが空であり、ものに自性がなければ、縁起も成立しないと考えます。
***
(反対者いわく)もしもこの一切のものが空であるならば、(なにものも)生起することなく、また消滅することもない。なにものを断ずるがゆえに、またなにものを滅するがゆえに、ニルヴァーナが得られると考えるのか。(中論 24:1)
(答えていわく)もしもこの一切のものが不空であるならば、(なにものも)生起することなく、また消滅することもない。なにものを断ずるがゆえに、またなにものを滅するがゆえに、ニルヴァーナが得られると考えるのか。(中論 24:2)自性論者は、もし一切が空であり自性がないとすると、いったい何が生起し、また消滅するのか。
それでは、悲苦を引き起こす原因や条件を断滅することによって悲苦からの解放(ニルヴァーナ)が得られるというブッダの縁起の教えを否定することになるのではないのか。
そのように空説を批判します。
それに対して、ナーガールジュナは、もし一切が不空でありすべてに自性があるとすると、自性は自立して存在する不変不滅の性質をもっているので、いかなるものも生起することなく、また滅することもなくなるであろう。
まさに、それこそが、ブッダのニルヴァーナの縁起の教えを否定するものではないか、と切り返しているわけです。
つまり、ここでは、自性という概念の含意する恒常性の問題に注目して批判が展開されているわけです。
それは、次のような例にも見られます。
原因の滅することによる静寂が「滅尽」といわれている。しかし、実体として(prakrtya)滅尽しないものがどうして滅尽すると言えるであろうか。(六十頌如理論 20)
もし生起も消滅もなければ、いったい何が消滅して涅槃するのであろうか。(と聞くならば、答える)自性として、生起することも消滅することもないことが解脱なのである。(空七十論 24)
さらにまた、自性という概念の含意する自立性の問題に注目して、ナーガールジュナは次のような批判も展開します。
原因と結果が同一であるということは、決してあり得ない。原因と結果が別異であるということも、決してあり得ない。もしも原因と結果とが一つであるならば、生ずるものと生ぜられるものとが一体となってしまうであろう。また原因と結果とが別異であるならば、原因は原因ならざるものと等しくなってしまうであろう。(中論 20:19、20)
つまり、もし、ものはすべてそれに内在している自性によって自立しているという立場に立つと、原因と結果は同一物を指すか、それとも、まったく別々の物を指すか、そのどちらかとなります。
ところが、もし原因と結果がまったく同じものを指しているとすると、原因とか結果とか言えなくなります。
また、別々のものとして独立に存在しているならば、どちらがどちらの原因であるというようなことも言えなくなります。
したがって、自性論に立てば、因果関係は成立しなくなる、というわけです。
つまり、(仏教徒ならば当然認めなければならない)因果関係を認める立場に立つならば、ものが独立して存在しているという自性論は捨てねばならない、とナーガールジュナは論敵を追いつめるわけです。
こうして、ナーガールジュナは、ものがさまざまな原因や条件によって生起し消滅する縁起の現象は、自性がないからこそ可能であることを主張し、ものが自性として生起も滅尽しないことを「不生不滅の縁起」と呼びます。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

相依性の縁起

仏教にはその思想や実践を代表する様々な概念がありますが、「中道」もそのひとつと言えます。
もともと、中道とは、快楽主義と禁欲主義という極端な生き方を否定した初期の仏教の修行の姿勢を意味していたと考えられますが、縁起を相依関係の視点から見るナーガールジュナは、その縁起思想を伝統的仏教の中道の概念とも結びつけます。
空性と縁起と中道とは意味の等しいものである、と言われた、たぐいない人(ブッダ)をわたしは礼拝いたします。(廻諍論「礼拝の言葉」)
「縁起と中道とは意味の等しいもの」という主張は、彼の縁起の概念が相依関係を意味することがわかれば、理解しやすいと思われます。
(ものが)存在し、かつ無であるということは同時に成立しない。
(しかし)無ということがなければ有ということもない。
つねに、有と無の両方がある。
(そして)有なくして無もない。(空七十論19)
ここでも「無ということがなければ有ということもない…、有なくして無もない」というナーガールジュナの縁起思想の代表的な表現が使われていますが、このような「有」と「無」の相依関係から、彼は「有」とか「無」に執着する立場を「倒錯」とか「妄想」と批判し、これを否定します。
愚かな人はものに自性を想定して、有るとか無いとかと倒錯する誤りのために煩悩に支配されるから、自らの心によって欺かれる。(六十頌如理論 24)
縁起によって存在するものは、水に映った月のように、有でも無でもない、と言う人々は、邪説に心が奪われることがない。(六十頌如理論 45)
有と無を妄想せず、ものを認識する人には、誤った認識によって苦悩する煩悩の過失がない。(六十頌如理論 47)

もしも、本性上、あるものが有であるならば、そのものの無はあり得ないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しないからである。本性が無であるとき何ものの変化することがあろうか。
また本性が有なるとき何ものの変化することがあり得るであろうか。「有り」というのは常住に執着する偏見であり、「無し」というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は「有りということ」と「無しということ」に執着してはならない。(中論 15:8~10)
このように、「有」と「無」のいずれかに執着する立場を偏見として否定するのがナーガールジュナの存在論ですが、このような立場が可能になるのは、もちろん、「有」と「無」は相互依存していて、それらには自立的な存在根拠はない、という縁起思想があるからです。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

サーンキヤ哲学では「自己」と「プラクリティ」がある。自己は「有」と考え、プラクリティは「無」と考えるのがよい。これらは形而上学的な概念であり、「有」と「無」の言葉で説明するのが適切である。

物が存在し、無であることは同時に成立しない。サーンキヤ哲学者は自性を仮定し、それを体験的に知っている人もいる。存在を認めるが、同時に無と定義しているため、存在と無は同時に成立しないということになる。しかし、無がなければ有もない。常に有と無の両方が存在する。無なくして有も無もないわけではなく、有は自立自存しており、不生不滅であるため、片方がなければ片方がないということは成立しない。これは相互依存ではなく、自立している。したがって、この議論は全て否定できる。

愚かな人は物に自性を想定し、有るとか無いとかを議論のために煩悩に支配されると言っているが、サーンキヤ哲学では「有」と「無」を設定し、意識をプラクリティあるいはプルシャに持ち上げることで解脱を目指している。煩悩から脱することを目的としているため、この論理には根拠がない。「有」と「無」で議論することにより煩悩に支配されるという主張には根拠がなく、自らの立場を擁護する言葉でしかない。

「縁起」によって存在するものは水に映った月のように「有」でも「無」でもないという人は、挫折に心が奪われないと言うが、サーンキヤ哲学でも説一切有部でも「縁起」によって存在するものは「有」でも「無」でもないとされる。水に映った月のように「有」でも「無」でもないわけではなく、単に必要のない部分である。このような文章は無意味である。

誤った認識によって苦悩する煩悩の過失がないというが、これを認めない立場の人には根拠がない。これは無意味な言葉の並びに過ぎない。

もしもその本性上あるものが有であるとするならば、そのものの無はありえない。そのものが無になること、なくなることはない。本性が無である時、何者が存在し変化することがあろうか。しかし、あるものが有であるならば、それを自己と認めているのではなく、五蘊の中の何かが有であるならばという意味が理解しづらい。本性上有であるという意味が分からない。ある個人が自己プルシャとプラクリティ、すなわち有と無を本性として持っているのではないか。物も魂を持ち、石や花などすべての生命も自己プルシャとプラクリティを本性として持っている。

本性上、どんなものも「有」でありかつ「無」である。本性が2つあるとされ、「有」と「無」という二つの性質を持つ。ゆえに、本性に関する議論は成り立ち得ない。本性が無である時、何者も変化することがないという考え方は誤りである。「無」の本質は無常であり、変化するものである。自性が本性であるからこそ変化する。プルシャという本性があるため、それを保持しようとする力が働くのである。

本性が無である時、何者も変化することがないという考え方は成り立たない。むしろ、本性が無を持つため、現在の状態を維持しようとする力が働くのである。「無」だけが本性ということはなく、「有」というのは執着であり偏見であり、「無」というのは断滅を意味する偏見である。この五蘊のものが五感に認知される状態を「有」と呼び、認知されなくなった状態を「無」と呼んでいるだけである。「有」と「無」は別の概念であり、これは形而上学的概念と現象学的概念を混同した議論である。

議論とは立場に応じてどうにでも解釈できるものであり、逆の立場から反論することが可能である。このような立場を認めることを嫌う人も存在し、そのような人々は、この考え方を愚かと見なすことがある。愚かな人々は、苦しみから逃れられないとされるが、実際には、修行して悟りを得ることが重要である。

縁起と因果

これがあれば、かれがある。
これが生ずれば、かれが生ずる。
これがなければ、かれがない。
これが滅すれば、かれが滅する。
という有名な定型句や、12支縁起などに典型的に示されていますが、それらは一見、因果関係とも見られるので、縁起関係と因果関係とはときにして混同されることがあります。
しかし、縁起関係には、因果関係に見られないいくつかの特徴があり、因果関係と同一と考えることはできません。
縁起の思想と因果の思想は混同されやすいのですが、縁起の思想だけにしか見られない特徴があります。
それは、縁起はつねに「順観と逆観」のペアで表現されているところです。
「これがあれば、かれがある」あるいは「これが生ずれば、かれが生ずる」の相当する部分が順観と呼ばれている部分で、「これがなければ、かれがない」あるいは「これが滅すれば、かれが滅する」に相当する部分が逆観と呼ばれています。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

「縁起」の関係はペアになっており、「因果関係」はペアに なっていない。
例えば、火と煙の関係を考えてみる。一般的には、火が原因で煙が結果と捉えるのが普通だ。火があれば煙が立ち上るし、火がないところで煙が立つことはない。したがって、「火があれば煙が立つ」という命題は常に成り立つ。また、「煙があるならば火がある」という命題も成り立つ。つまり、煙の原因は火であり、火がなければ煙は立たない。この関係を「因果関係」と呼ぶ。火が原因で煙が結果として現れるということだ。

一方、「縁起」という概念を考える場合も同じように、火と煙の関係が当てはまる。縁起の本質は、「これがあれば彼がある、これがなければ彼がない」という関係だ。つまり、「火があれば煙がある、火がなければ煙がない」という二つの命題が成り立つ。

ここで注意すべきなのは、縁起の関係には時間的前後関係が必ず存在するということだ。火が先に存在し、その結果として煙が後に発生する。原因が先で結果が後になるという時間的な前後関係が縁起の重要な要素となる。

このように、因果関係と縁起の関係は、火と煙の例で説明することができる。火が原因で煙が結果となり、時間的な前後関係を持つことが縁起の本質だ。

因果関係と相依関係
ナーガールジュナの主要な論敵が説一切有部(小乗部派仏教の一つ)であったらしいことはよく知られていますが、縁起に関しては、説一切有部のみならず、小乗部派仏教は一般に、それを時間的生起関係と理解しており、それに対して、中観派は、相依関係としての縁起を明確にしています。
浄に依存しないでは不浄は存在しない。
……不浄に依存しないでは浄は存在しない。(中論23)
「一」がなければ「多」はなく、「多」がなければ「一」はない。したがって、ものは縁って起こる(縁起)のであって、自立しているのではない。
(空七十論7)
中観派が縁起を相依性の意味に観じている以上、「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生じる」云々という句もその意味に解釈されなければならない。
……小乗においては、縁によって起こること、時間的生起関係を意味すると解されていたこの句が、中観派【大乗】においては「あたかも短に対して長がごとし」とか、あるいは「長と短のごとし」というように全く法と法との論理的相関関係を意味するものとされるに至った。
長と短が相依ってそれぞれ成立しているように、諸法は相互に依存することによって成立しているという。(中村元、同上、148頁)
ナーガールジュナや般若経の著者達は、依存関係としての縁起を説くことによって、いかなるものも自性がない(無自性・無我)という、空の思想を展開することができ、よって、大乗仏教を支える大きな柱を建てることに貢献をしました。
縁起を語るときのナーガールジュナの特殊な言い回しに注意しなければなりません。それまでの、
これあるに縁りてかれあり。
これなきに縁りてかれなし。
という言い方を、次のような言い方に換えています。
かれなきに縁りてこれなし。
これなきに縁りてかれなし。

つまり、順観の部分「これあるに縁りてかれあり」を「かれなきに縁りてこれなし」と言い換えることによって、「かれなきに縁りてこれなし。これなきに縁りてかれなし」という相互依存としての縁起を語ることになったのです。
その典型的な例を挙げれば、
無明に縁って行があり……無明の滅によって行の滅がある。
という伝統的な縁起の表現を、ナーガールジュナは、
行がなければ無明も生じないし、 それ(無明)がなければ行も生じない。(空七十論 11)というふうに、表現しています。
中村元(『ナーガールジュナ』1980年)も、初期の仏教では部分的にしか言われていなかった相依性を、ナーガールジュナは「徹底的に拡張解釈した」のだ、と言われています。
ところが、これらの研究はいずれも、
これあるに縁りてかれあり。
これなきに縁りてかれなし。
(PならばQ。PでなければQでない。)
かれなきに縁りてこれなし。
これなきに縁りてかれなし。
(QでなければPでない。PでなければQでない。)
の二つの縁起説を比べて、前者を「これ」から「かれ」への「一方向的」な関係(すなわち時間的生起関係)であると解釈し、後者を「これ」と「かれ」の「双方向的」な関係(すなわち相依的関係)である解釈しています。

つまり、これらの学者たちは、表現の皮相的な部分だけにとらわれ、その論理的構造の分析を怠ったがゆえに、「PならばQ」と「QでなければPでない」が論理的に同値であり、同じ意味を持つ異なった表現であることを見逃しているのです。
縁起は、それが「一方向的」に表現されていようがいまいが、順観と逆観のペアで語られているがゆえに、すべて必然的に相依的関係となるのです。
それでは、なぜ、ナーガールジュナは縁起が相依的関係であることを示そうとしたのでしょうか。
この答えはあきらかです。
縁起が相依的関係であることを示すことによって、ナーガールジュナがなそうとしたことは、もちろん、自性論批判(空)です。
「一」がなければ「多」はなく、「多」がなければ「一」はない。
したがって、ものは依って起こる(縁起)のであって、自立しているのではない。(空七十論 7)
行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。
この両者は相互に原因となっているから、それらは自性によって成立しているのではない。(空七十論 11)ナーガールジュナは、「めでたい縁起のことわりを説きたもうブッダを、もろもろの説法者のうちでもっともすぐれた人として敬礼する(『中論』礼拝の言葉)」、とブッダを「縁起の説法者」として賛美しますが、つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死をのりこえることができるであろう。(スッタニパータ 1119)というようなブッダの言葉を考えていたのかもしれません。
ナーガールジュナにしてみれば、縁起を「徹底的に拡張解釈した」のではなく、あやまった部派仏教の縁起解釈(時間的生起関係)を批判して、ブッダの説いた縁起(無我・無自性・空)に帰れ、と主張したに過ぎないのでしょう。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

対偶

参考記事

中村博士が言うように、前の方は時間的前後関係であり、後ろの方は相互依存関係である。書き換えが可能かという点だが、できない。なぜできないかというと、論理には非常に重要な点があり、時間を含む場合、単純な書き換えができないからだ。

区別の哲学

『般若経』の思想家たちが、空・不二・平等というようなことで表わそうとしていた世界は神秘的直観の世界である。対立や区別というものは、人間の思惟と言語によって生じてきている。言語を否定し思惟を超越した純粋な直観の世界にはおよそ区別というもの、対立というものが存在しない。それは無区別・平等の世界である。ナーガールジュナはこのような『般若経』の神秘的直観の世界を受け継いだ哲学者であった。
しかし、ナーガールジュナが世に出たころ、「般若経」的なものだけが思想界の主流であったわけではない。他方には、まさに『般若経』と対立する、区別の思想が強力な、より一般的な思潮として存在していた。(p23)

説一切有部や分別説部の基幹であった上座部は、分別論者とも呼ばれる。分別論者とはものを区別し分析して論ずる者の意味である。初期経典にしばしばあらわれる範疇には、五群(五蘊)・十二領域(十二処)・十八種(十八界)などがある。(p24)

説一切有部はこのような範疇表によって分類された存在要素をさらに小さな単位に細分類する。存在の細小単位をいよいよ厳密に規定し、それら相互の関係を明らかにしてゆくのである。そのような過程を通じて有部が到達した最終的な範疇が五位七十五法と呼ばれるものである。(p25)
説一切有部がこのように存在の分析、区別の哲学を追求したもともとの動機は、それによって、自我の存在を否定することにあったことはたしかである。永遠な変化しない人格主体としての自我は、どんなに存在を分析しても見いだされない。存在の究極的な要素としての七十五法の中に自我は含まれない。だから自我は存在しない。こうして仏教の中心的教義としての無我説を論証しようとしたのである。それは早くから経典において、五群が一切である、ということによって、その五群に含まれない自我の存在を否定したのと同じ仕方であった。(p26)

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

中論や般若経では、言葉に頼らない広大な世界が存在することを強調している。非論理的な言葉を多用するのは、その言葉の彼方にある真実へと人々を導こうとするためだ。これをまず理解すべきである。

彼らは、存在の究極的な要素として五位七十五法の中に自我は含まれないと主張しているが、実際には択滅無為がサーンキヤ哲学のプルシャに相当している。つまり、これが実は自我なのだ。彼らの中で少なくともヴァスミトラはこのレベルに到達しているにもかかわらず、それがサーンキヤ哲学における自己実現、すなわちプルシャであることに気づいていなかったと思う。
「択滅無為」という意識状態に到達して、このサマディを体験し、その後に戻ってくると、その意識に名前をつける必要が出てくる。インドの哲学者たちはこれを「アートマン」や「プルシャ」、つまり「自己」として名付けた。常に見る存在としての自己だ。
ところが、ヴァスミトラは同じ意識状態に到達したが、「無我」という言葉に固執するあまり、「択滅無為」、つまり「知恵による煩悩の消滅」として表現した。
同じ意識状態であれば、同じ呼び方をするのが良いと思う。「我は無い」と言い張るのではなく、もっと分かりやすい表現がいいと思う。「択滅無為」を「知恵による煩悩の消滅」と言っても、それで「自己は無い」と理解できない人が多い。それよりも、究極の自己が存在すると説明する方が分かりやすい。同じことを言うなら、分かりやすい方が良い。
言わんとすることを理解しようとすれば、すぐに分かることなのに、言葉にこだわって、その言葉のレベルで論争しているのが仏教だと強く感じる。

[竹下雅敏]

実在論の生成

しかし有部の哲学のメリットは無我の論証ということに尽きるわけではない。むしろ、その範疇的思惟がそこへ必然的に導いていった実在論にこそ、この学派の哲学の最大の特色があるのである。範疇にもとづいて存在を区別し、存在の要素を規定してゆくという操作は、存在の究極的要素、原子的な要素に行きつくまで続けられるはずであって、途中で中止されてしまってはならない。
しかしその場合に、究極的要素とはどのような基準によって定められるのであろうか。有部は、ただ一つの本体とただ一つの機能をもっているものが究極的要素である、と考えた。二つ以上の本体、二つ以上の機能から構成されているものの全体は、ほんとうに存在するものではない。

たとえば人というものは心と身体からできているとき、実在するものは心と身体であって、その二つの総合体としての人というものは実在ではない。心と身体をさらに細かく分類すれば、残るものは五群とか、十二領域とか、十八種とか、五位七十五法という存在要素となってしまう。
実在するものはそれに特有の本体と作用をもっている。いいかえれば、実在するものは二つ以上の本体と作用をもちえない、ということである。これが有部の範疇論的実在論の基本原理である。もし意識が理解する機能と見る機能とをもつならば、意識と眼とを別々な要素として区別する意味はなくなってしまう。唯一の本体と唯一の作用を各要素に配分することとその要素を実在とみなすこととは同じことである。もしこの原理が無視されるならば、謂一切有部の、区別の哲学としての範疇論は崩壊してしまうわけである。(p29-30)

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

説一切有部は、すべての存在が単一の本体と単一の機能を持つ究極的要素で成り立っていると定義し、世界を七十五の究極構成要素に分類した。
しかし、ここに大きな問題がある。単一の本体に単一の機能を持つものなど現実には存在しない。この矛盾に気づいたのがナーガールジュナだ。彼はこの矛盾点を徹底的に突き、説一切有部の理論を崩壊させた。
もし何かが「究極の本体」であり、それが唯一の存在で、ただ一つの機能しか持たないとしたら、それは他のものと関わることができない。例えば、ある物質が全く変わらず、他の物質とも影響を与え合わないとする。そうなると、世の中の全ての出来事が「縁起」(原因と結果の連鎖、相互依存)によって成り立っているという考えが否定されることになる。
何かが他と影響を与え合わずに単独で存在するなら、物事の成り立ちの説明ができなくなる。すべてが他と関わりあって成り立つという「縁起」の考えを否定することはできないということだ。

意識・物・心

永遠なる本体
さて有部のもう一つの思想的特色をなしている永遠なる本体(svabhāva)という観念を簡潔に説明しておこう。区別の哲学としての範疇論的実在論が有部の思想の織物の横糸となっているとすれば、その縦糸をなすものが永遠の本体の哲学である。説一切有部という学派名も、じつはこの学派が、すべてのものは過去・現在・未来を通じて永遠にある、と主張したことに由来する。(p30)
有部の三世実有説の論証をみてみよう。「倶舎論」(巻20)において有部はこの理論をいくつかの方法で証明しているが、そのうち最も基本的で、他の証明の前提にもなっている論証は次のように展開される。(p37-38)
もし過去および未来の対象が実在でないならば、ひとが過去と未来とのものについて行なう認識は対象をもたないものとなろう。しかし対象のない認識などはありえない。したがって、われわれが過去および未来のものを考えることができるということはそれらが実在していることを示す、と。
経量部や唯識派などの考え方からすれば、過去において見たもの、未来において見るであろうものを意識することは記憶ないし推理の問題である。そして記憶や推理があるからといってその対象が外界に実在するとはかぎらない。
しかし有部は、知覚と推理とを認識としては同じであり、認識である以上は実在する対象をもたねばならない、と考えているのである。
ここまでくると、有部のいう本体とは、思惟の対象としてのもの、いいかえれば、ことばの対象としてのもの、のことであることがわかる。この理論は他の二つの有部の理論を前提にしている。—つは、さきに触れたように、この学派は知覚(直観)と思惟とを同じ認識である以上本質的には等しいものとして扱うことである。他の一つは、有部が認識は非存在を対象にすることはできない、したがって認識があればその対象は実在すると考えていることである。(p38)
過去と未来にある猫も認識の対象となるから実在する、という有部に対して、経量部はもしそうならば過去と未来の猫も現在にあることと同じになってしまう、と非難する。猫は物質的な諸要素や心理的な諸要素の複合体であって実在ではない。実在するのはこれらの単一な本体としての諸要素である。現在に現象している猫は、一瞬後には諸要素に分散してしまう。次の瞬間にはいままで別々に分散していた諸要素が集合して現象し、猫になる。だから、諸要素が集合しているか、分散しているかという点で現在と過去・未来とは違う、と有部は答える。(p39)
『俱舍論』において経量部に追及された有部は答えに窮してしまう。三時にわたって恒常な本体と刹那滅的なその現象とは、同一の時間においては調和することはできないからである。しかし、有部の本体というものは、われわれが理解したように、思惟の対象、ことばの対象として現象の世界と違った世界にあるといわねばならない。それは現象の知覚の時間にあるのではなくて、思惟の時間にあるものである。われわれの認識は知覚と思惟、現象と本体の交錯したものとしてあらわれる。経量部・中観派・唯識派は知覚、というより直観だけを事実の世界として認め、思惟の世界は人間の構想――ナーガールジュナにいわせれば虚構――としてのみ認める。それは実在ではない。有部にとっては、その関係が逆になっていて、思惟の世界を本体とし、事実の世界を現象と考えているだけのことである。

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社


参考文献


仏教の基礎知識シリーズ一覧


#仏教 #仏法 #禅 #ブッダ #仏陀 #釈迦 #小乗仏教 #原始仏教 #大乗仏教 #瞑想 #マインドフルネス #宗教 #哲学 #生き方 #人生 #仏教の基礎知識シリーズ

今後ともご贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。