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浄土経【仏教の基礎知識05】

竹下雅敏説


わたくしが聞いたところによると、あるとき師は、三万二千人もいる多数の修行僧たちの仲間とともに、ラージャグリハ(市)の《鷲の峰》に滞在しておられた。(これらの修行僧たちは)すべて、敬わるべき人たちであって、その名を、(一)アージニャータ・カウンディニヤ(了本際【阿若憍陳如】)、(二)アシヴァジット(正覺【馬勝】)、(三)バーシパ(正語)、…(三六)若き人アーナンダ(阿難)であった。
修行の道においてなおなすべきところが残っていたアーナンダを除いて、みな長老であり、偉大な大弟子たちであった。まさに、マイトレーヤ(弥勒)を先導者とする多くの求道者たち、すぐれた人たちであった。(p18-19)

浄土三部経〈上〉無量寿経:中村元/岩波文庫

3万2000人もの大勢の修行僧たちと共に、ラージャグリハの鷲の峰に滞在していたと書いてある。この記述は地球レベルの場所を指しているわけではない。すでにゴータマ・ブッダが亡くなってから200~300年が経っている。したがって、師がここに滞在していたというのは明らかに霊界のことを指している。霊界のある場所に3万2000人もの修行僧たちと一緒に滞在していたということだ。
仏説とは霊界でゴータマ・ブッダが直接弟子に語った内容を指す。それを霊界通信を通じて降ろしてきたもの。浄土三部経に関しては、ブッダが直接語ったものだが、般若経典群はアラハンレベルの者たちの思想を現したものであり、仏説ではない。

師はアーナンダに向かってこのように言われた――「アーナンダよ。昔、過去の時、今を去ること無数劫の、さらに無数、広大・無量・不可思議の時分に、ディーパンカラ(然燈)と名づけられる如来・敬わるべき人・正しく目ざめた人が世に出られた。アーナンダよ。ディーパンカラの前のさらに前に、(二)プラターバヴァット(光輝に満ちた)という名の如来がおられた。それよりもさらに前に、(三)プラバーカラ(光あらしめるもの)という名の如来がおられた。……(p22)

(八〇)シンハ・マティ(獅子の思慮ある者)という名の(如来)がおられたのだ。アーナンダよ。シンハ・マティよりもさらに前に、ロ-ケーシヴァラ・ラ-ジャ(世間において自在である王、世自在王)という名の如来・敬わるべき人が世に出られた。(p26)
ローケーシヴァラ・ラージャ如来が教えを説かれたときに、きわめて記憶力のある、理解力のある、敬智のある、きわめて努力精進する、高大な理解力のある、ダルマーカラ(法蔵)という名の修行者がいたのだ。
かの修行僧ダルマーカラは、そのときにその世尊にこう言った――「それでは世尊よ、お聴き下さい。これらはわたくしの特別な願いなのです。
1 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に、地獄や、畜生(動物界)や、餓鬼の境遇におちいる者や、アスラ(阿修羅)の群れがあるようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。……(p32-33)

浄土三部経〈上〉無量寿経:中村元/岩波文庫

ディーパンカラはじめ、ここに登場する如来たちは架空の人物である。
ただし、ダルマーカラ(法蔵)は実在した。別名バガヴァット・ギーターの 主人公クリシュナ。説教を聴いている弟子たちは、全く知らない。まさか、クリシュナのことを言っているなんて思ってもいない。しかし、ゴータマ・ブッダははっきり分かっていて、クリシュナのことをここではダルマーカラ(法蔵)という名前にして説法しているわけである。

法蔵菩薩の第十七願(諸仏称名の願

17 世尊よ、もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量の諸仏国土における無量・無数の世尊・目ざめた人たち(=諸仏)が、わたくしの名を称えたり、ほめ讃えたりせず、称賛もせず、ほめことばを宣揚したり弘めたりもしないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。……(p37)

浄土三部経〈上〉無量寿経:中村元/岩波文庫

第十七願
原文

設我得仏せつがとくぶつ 十方世界じっぽうしゅじょう 無量諸仏むりょうしょぶつ 不悉咨嗟ふしつししゃ 称我名者しょうがみょうしゃ 不取正覚ふしゅしょうがく
読下し
たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
現代語
わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
意 訳
たとい私が仏陀となり得たとしても、十方の世界にまします無数の仏陀たちが、私がこれから完成する南無阿弥陀仏という名号のもつ無量の徳をほめたたえて、十方の一切の衆生に聞かせることができないようならば、仏になりません。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83%E9%A1%98

法蔵菩薩の第十九願(至心発願の願

19 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数の仏国土にいる生ける者どもが、わたくしの名を聞き、その仏国土に生まれたいという心をおこし、いろいろな善根がそのために熱するようにふり向けたとして、そのかれらが、――、無間業の罪を犯した者どもと、正法(正しい教え)を誹謗するとい(煩悩の)障礙に蔽われている者どもを除いて――たとえ、心をおこすことが十返に過ぎなかったとしても、[それによって]その仏国土に生まれないようなことがあるようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。(p38)

浄土三部経〈上〉無量寿経:中村元/岩波文庫

設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。(囲繞:とりかこむこと)
現代語版
わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

http://www.suijoji.sakura.ne.jp/teach/hongan19.html

アーナンダよ、かの修行僧・求道者・立派な人であるダルマーカラは、このような誓願をみごとに完成成就した。また、アーナンダよ、かくもみごとに誓願を完成成就した求道者は稀なのだ。また、このような誓願が世間に現われるのは稀であるが、しかしながら、ただ稀だというだけであって、全くないというのではない。(p53)
このように言われたとき、若きアーナンダ尊者は師に向かってこう言った――「それでは、師よ、かの求道者・すぐれた人ダルマーカラは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚り得て、過ぎ去り、永遠の平安に入ってしまわれたのでありましょうか。それとも、未だ現に覚っていられないのでありましょうか、それとも、現においてになって、現に覚られ、現に住され、その身を養われ、日を送られ、法を説いていられるのでありましょうか。」と。(p56-57)
師は言われた――「アーナンダよ、かの如来は過ぎ去ったのでもないし、未だ来られないのでもない。そうではなくて、〈無上の正しい覚り〉を現に覚ったこの如来・敬わるべき人は、これより西の方向に、百千億・百万番目の仏国土である〈幸あるところ〉という世界に現に住し、身を養い、日を送り、法を説いていられる。〈無量光〉と名づけられる如来・尊敬なるべき人・正しく目覚めた人は、無量に多くの求道者たちにとりまかれ、無限の、〈教えを聞くのみの修行者〉たちに尊敬せられ、限りなくみごとな仏国土を完成しておられるのだ。

浄土三部経〈上〉無量寿経:中村元/岩波文庫

アミターバ(無量光)如来=アミターユス(無量寿)=阿弥陀仏=クリシュナ

クリシュナは解脱者ではない。したがって、誓願を完成成就したということはありえない。クリシュナは天界でクーデターを起こして権力を勝ち取ったにすぎない。

浄土経は大乗仏教の根幹にある経典である。ここから大乗仏教が生まれてきた。立派な人であるダルマーカラが誓願を見事に完成・成就したと言われている。まず大乗仏は菩薩の誓願を立てる。そしてそれを完成・成就させるために、懸命の努力をする。この努力は六波羅蜜と呼ばれる。六波羅蜜を何が何でもやり遂げるという誓願を立て、やり遂げる。そしてやり遂げた暁には、自分は如来になり、衆生を救済するというのが大乗仏教の根幹である。
だからこそ、我もお釈迦様が解かれたダルマーカラのような道を歩むのだ。そして小乗仏教ではアラハンまでしか行けなかったが、同じようにゴータマ・ブッダの前世のように努力をして、ダルマーカラのように努力して、自分もブッダになるというのが大乗仏教の運動だった。しかし、その全てが嘘である。嘘で塗り固められた経典であり、その上に成り立っているのが大乗仏教だ。菩薩の誓願、六波羅蜜が全てその基盤になっている。ゴータマ・ブッダの説法が基盤となり、それに感動した者たちが「我もその道を歩まん!」と努力して教学を作り上げていった。しかし、その出発点が全て崩れてしまっている。

アーナンダよ。かの〈幸あるところ〉という世界は、種々のかぐわしい香があまねく薫っており、種々の花や果実が豊かであり、宝石の木々に飾られ、如来によってあらわし出された、妙なる音声をもつ種々の鳥の群れが住んでいる。(p63)
アーナンダよ。このような木々がある。根は七種の宝石でできており、幹は七種の宝石でできており、小枝は七種の宝石でできており、大枝は七種の宝石でできており、葉は七種の宝石でできており、花は七種の宝石でできており、果実は七種の宝石でできている。
アーナンダよ、かの仏国土は、このような七種の宝石でできている木々に覆われ、また、七種の宝石でできている茂蕪の幹と、宝石(でできている)ターラ樹の並木によってあまねくとりまかれている。
実に、また、アーナンダよ、かの仏国土には、全くカーラ山(黒山)はなく、至るところ宝石の山なのでだ。また、かの仏国土はあまねく、掌のように平坦であり、美しく、その地には種々の宝が充満しているのだ。」(p66-67)
また、アーナンダよ、いかなる生ける者どもであろうとも、かの如来のことを、すがた形ある者としていくたびも心に思い、多くの、無量の善根を植え、覚りに心を向けて、かの世界に生まれたいと願ってあろうならば、かれらが死ぬ時期が迫って来たときに、かの敬わるべき人・正しく目ざめた人・無量光如来は、多くの修行僧たちの衆にとりまかれ、尊敬されて、(その前に)立たれるであろう。次いで、かれらはかの世尊を見て、静かな澄んだ心になって死んで、かの〈幸あるところ〉という世界に生まれるのである。(p78)
師は求道者マイトレーヤ(弥勒菩薩)や神々や人間たちに言われた――「無量寿如来の仏国土の法を聞く修行者や求道者の功徳や智慧は言葉で説明することができない。また、その仏国土が微妙であり、幸福であり、清らかであることは、先に述べた通りなのだ。何故、努力して善を為そうとしないのか。(出離の)道を念ずれば、(仏国土は)自然に著われ、(そこには人間の)上下なく、どこまでも伸びひろがって限界がない。各々よろしく努力精進して自らこの(仏国土に生まれることを)求めてみるがよい。そうすればこの俗世を超絶しおわって〈幸あるところ〉という世界に生まれることができよう。そのさいには、思いのままに五つの悪しき所を断ち切ることとなり、悪しき所は自然に閉ざされ、無限に道を昇ることができるであろう。(p97-98)

浄土三部経〈上〉無量寿経:中村元/岩波文庫

バガヴァット・ギーターと大乗仏教思想は同じ。

浄土経は、バガヴァット・ギーターを仏教的に翻訳したものだといえる。

臨終の時、私のみを念じて肉体を脱していくものは私の状態に達する。この点に疑いはない。それゆえ、あらゆる時に私を念ぜよそして戦え。私に意と知性とをゆだねれば疑いなく私の元に来るであろう。

[バガヴァット・ギーター]

浄土教とヴィシヌ教バガヴァット・ギーター

「浄土三部経」解説
極楽浄土の原型がインド神話のうちのどこにあるかということが、いままで学者の間でいろいろと論ぜられた。
極楽浄土の観念が「リグ・ヴェーダ」にあらわれるヴィシヌ神の天国の観念を受けているということを、先年、荻原雲来博士が主張された。ダルマーカラ・ビクの第二十六願(サンスクリット本)では、ナーラーヤナ神のような強い力を得たいと発願しているが、ナーラーヤナとはヴィシヌ神の別名であるから、浄土教とヴィシヌ教との間に連絡のあることは疑うべくもない。(p235-236)
無量寿仏のすがた
「無量光」の観念は、光を尊ぶインド古代の思想にもとづいている。例えば、古ウパニシャッドにおいても、「この天よりも高く、すべてのものの背面、一切のものの背面にあり、無上最高の世界において輝く光明は、実にこの人(プルシャ)の内部に存するこの光明である」という。アートマンは光明の相あるものとして尊重されていた。無量光仏の光の広大無辺であることを讃えた詩が『無量寿経』のうちに見られるが、それは、諸ウパニシャッドやインドの国民詩『バガヴァッド・ギーター』における伝統的な表現を受けたものである。p243
このように、無量寿仏は超人的な性質をもっているが、なお人格的に表象され、「最上の人」とよばれている。これは、ヒンドゥー教では、ヴィシヌ神に対して附せられる呼称である。また、「人間の英雄」とも呼びかけられている。これは、インドの叙事詩などでは、しばしば、国王に対して呼びかける呼称である。
弥陀三尊みださんぞん、すなわち、無量寿仏が観音ぼさつと大勢至ぼさつを臨侍としていることが、浄土経典に言及されている。これは、ヒンドゥー教の一体三神観念と関係がないかどうかが問題となる。観世音はヴィシヌ神に、大勢至はシヴァ神に相当するものであるといえるであろう。(p243-245)

浄土三部経〈上〉無量寿経:中村元/岩波文庫

恵心僧都源信とバガヴァット・ギーター

最高神への信愛(バクティ)
人々は信仰する対象と一つになれるとされます。
人が信愛をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をもって捧げられたものを私は受ける。(バガヴァット・ギーター:9・26)
クリシュナを愛し、祈念して、葉や花や果実や水を供えるなら、クリシュナは必ずそれを受けてくれるというのです。これは有名な文章ですが、この文を見るとき、私は源信(恵心僧都)の作と伝えられる『真如観』(六)の一節を思い起こします。『真如観』は天台宗の本覚思想を説く代表的な書です。
若し人此の思ひを成して一燈、一房の花を捧げ、一捻の香を焚いて供養をのぶるに、供養する人はたとひ凡夫にして肉眼なれば是れをみず、供養せられ玉ふ仏菩薩は明らかに愛用し玉ふ。
背景となる考え方も『ギーター』と非常によく似ています。しかし、それよりも表現上の類似点に驚かされます。日本の天台宗の本覚思想如来蔵思想の延長線上にあり、如来蔵思想は『ギーター』を代表とするヒンドゥー教思想の影響を受けているから、当然似てくるのだと説明することはできますが、それにしても不思議なほどよく似ております。(p143)

極悪人でも救われる
たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であると見なされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の平静に達する。アルジュナよ、確信せよ。私の信者は滅びることがない。(9・30,31)

いわんや福徳あるバラモンたちや、王仙である信者たちはなおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。(9・33)社会的に上位と見なされるバラモン(聖職者たち)や王仙(王族出身の聖者)は、それだけ有利な条件をそなえているので、より解脱する機会に恵まれているとされます。(p144-145)

ここに極悪人でも救われるとはっきり説かれています。大乗仏典でも、仏菩薩の力により悪人でも救われるという考え方が説かれていることと軌を一にしております。日本においても、例えば源信は、悪人成仏に注目し、次のように説いています。

しかも阿弥陀仏には不思議の威力ましまし、もし一心に名を称すれば、念々の中に、八十億劫の生死の重罪を滅したまふ。(『往生要集』岩波文庫(下)、38頁)

親鸞のユニークさは、悪人でも救われるといったのではなく、善人でも救われるといったところなのです。
「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と。
悪人と善人の価値を逆転させた点に彼のユニークさがあるのです。
親鸞と比べますと、このあたりに古代インド的な限界があるともいえます。もっとも、むしろ親鸞を生んだ日本仏教のほうが真にユニークだったといったほうがよいかもしれません。
日本仏教といえば、いわゆる南方系の仏教と比べますと、どうも堕落していると考えられがちです。さらに釈尊の教えから非常に遠いのではないかと批判する人もおります。しかし現代においては、私はむしろ日本仏教のほうが伝統的な仏教より優れた点があるのではないかと考えるのです。(p146-147)

NHK文化セミナー 1995年4月~9月 古代インドの宗教 ギーターの救済/上村勝彦

参考文献


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