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【小林秀雄】信ずるということは、責任を取ること【憂世で生きる智慧】

責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしい。
集団は責任を取らないから、自分が正しいといってどこにでも押しかける。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になったときに表に現れる。 反省がないのは、信ずる心、信ずる能力を失ったということ

[小林秀雄]

僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。
信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、いつでも万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。
知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。
現代は非常に無責任な時代だといわれます。今日のインテリというのは実に無責任です。例えば、韓国の或る青年を救えという。責任を取るのですか。取りゃしない。責任など取れないようなことばかり人は言っているのです。
信ずるということは、責任を取ることです。僕は間違って信ずるかも知れませんよ。万人の如く考えないのだから。僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。
だから、イデオロギーは常に匿名です。責任を取りません
責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になったときに表に現れる。
反省がないということは、信ずる心、信ずる能力を失ったということなのです。

[小林秀雄]

ここで、考えるという言葉についての宣長の考察をお話したいと思います。考えるの古い形は「かむかふ」です。
「か」は特別意味のないことばです。「む」は「み」すなわち自分の身です。「かふ」は「交わる」ということです。
だから、考えるということは、自分が身を以て相手と交わるということです。宣長の言によると、考えるとはつきあうという意味です。ある対象を向こうに離して、こちらで観察するという意味ではありません。考えるということは、対象と私とが、ある親密な関係へ入り込むということなのです。
だから、人間について考えるということは、その人と交わるということなのです。そうすると、信ずるということと、考えるということは、大変近くなって来はしませんか。

[小林秀雄]

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