見出し画像

金剛般若経01/大乗仏教【仏教の基礎知識09】


「空」の哲学は、大乗仏教の中でも特に深遠で難解なテーマである。
この哲学は言葉で説明するのが難しい。言葉自体が「実体」として捉えられることが多く、その意味を固定化しがちだからだ。大乗仏教では、言葉はあくまで指標であり、真実を直接表現するものではないとされる。言葉の背後にある真理を理解することが重要。
「空」の哲学を理解するには、理論的な学習だけでなく、瞑想や実践を通じて体験的に理解することが求められる。言葉の限界を超えたところに、本当の理解がある。

「空」とは、「無」でも「有」でもない。


空ということは、いったいどのようなことなのでしょう。空ということは、無ということとは異なります。空という言葉のもともとの意味は、ふくらんだ状態をいいます。それは、中空の事態を意味します。くぼみやほら穴も、空という言葉で表わされます。空はまったく無であるというより、まさに空(から)であることを意味するのであり、それは内実のないことを意味しています。つまり、無がそこにおかれてあるものも同時に意識されるような言葉なのです。(p67)

「大乗仏教入門」竹村牧男/佼成出版社

一切⇒五蘊⇒空

「カッチャーナヤ姓の長老は尊師にこのように問うた。――
『尊い方よ。<正しい見解><正しい見解>といわれますが、<正しい見解>とはそもそも何ですか?』
『カッチャーナヤよ。この世の人々は多くは有 atthita と無 natthita の二つにとらわれている。正しい知慧によって、この世の生起 lokasamudaya をあるがままに観じている人にとっては、この世のことに関して<無>であると執することは存在しない。また正しい知慧によって、この世の止滅 lokanirodha をあるがままに観じている人にとっては、この世のことに関して<有>であると執することは存在しない。

論理の世界は「有る」か「無いか」の二択に限られるが、言語の世界はそれにとどまらず、多様なニュアンスに満ちている。

無:存在の絶無
 ない!
 ないといえる
 ないとはいえない
 あるといえない
 あるといえなくもない
 あるといえる
 ある!
有:絶対存在

「有」と「無」というのは仏教的な世界観における形而上学的な概念だ。この言葉は、現象世界とは異なる次元を示している。現象世界、つまり五蘊と呼ばれるこの世の事柄に関して言えば、「有」でも「無」でもない。「有」や「無」といった言葉を使うと、それは形而上学的な領域の話になるからだ。

ものはそれ自体有るものとして、有るのでしょうか。ここで自体有るものとして有るということの意味は、どんなことがあってもそれ自身の存在を永遠に保つものであるということです。有るものは、決して無となってはならないのです。有るということが真にいえるのは、そういう事態においてです。そうでなければ、仮りに有っただけのことになります。仮りに有るにすぎないものは、自体有るものではありません。(p69)

「大乗仏教入門」竹村牧男/佼成出版社

仏教における言葉と沈黙

仏教における言葉と沈黙
シャーキャ・ムニ(釈迦牟尼)はナイランジャナー河(尼連禅河)のほとり、アシュヴァッタ(菩提樹)の樹下において悟りを悟り、なお瞑想にはいって解脱の幸福を味わっているあいだにこう考えた。自分が困苦して悟った法は甚深、微妙であって愚慮を超えている。しかるに世間の人々は感覚の世界に執著し、貪欲や憎しみに打ち負かされていて、とても自分の悟った縁起の理と絶対の静寂を見ることはできないであろう、と。(p98)

ブッダが菩提樹の下で悟った内容は四諦であり、縁起であると伝えられている。四諦、すなわち「四つの真理」とは、すべてのものは苦である。苦にはかならず原因(集)がある。苦の滅した絶対の安らぎがある。その滅に到達する道がある、という、いわゆる苦・集・滅・道のことである。(p99-100)

しかしこのように簡条書きされた四つの真理の内的な関係は、むしろ、ブッダの教法をさらに簡潔にあらわした次のような詩頌や短句においてより明らかになる。
シャーリプトラは、仏弟子アシュヴァジトがブッダの教えの大綱を示すものとして唱えた「およそものごとは原因によって生じる。ゆえにそれらのものの原因を脱がれる。またそれらの滅をも。偉大な沙門はこのように説かれる」という詩頌を聞いて仏弟子となることを決意した。ここでは苦であるすべてのものごとの原因と消滅とが四諦の場合よりもより有機的な関係をもって、いいかえれば、それぞれの真理の依存関係—縁起を明らかにして説かれている。あるいは「およそ生じてくるものはすべて滅してゆくものである」という短句においては、ものの生起・存在が実は消滅・無存在と本質を等しくしていることが明らかにされている。

ものはすべて原因によって生じ、他のものに依存して存在する。その縁起的な存在性は、自立的な実体の存在性とはまったく異なっている。縁起したものは、それ自体の実体性をもたないから、存在するとも存在しないとも言えない。そこでは実は存在が無存在であり、無存在が存在である。だから、自立的な実体を仮定して、その有限・無限、生と滅、去と来を論ずる形而上学はブッダにとって無用の議論であった。ブッダはかかる形而上学的問題に対して沈黙を守った。(p103)

ひとは他に依る存在であるがゆえに実体としての自立的存在ではなく、また他に依る存在であるがゆえに無存在でもない。それは有とも言えず、無とも言えない。ブッダが成道直後に言葉による布教を断念し、またのちに形而上学的な議論に対して沈黙を守ったのは、彼のさとった境涯がわれわれの認識と言語と行為を超越するものであったからである。(p105)

空の思想~仏教における言葉は沈黙:梶山雄一/人文書院

私たちが歳を取ったり死んだりしても、その本質的な存在は変わらない。水が水蒸気に変わるように、形態が変わるだけで本質は同じだ。水は触れたり飲んだりできるが、水蒸気になると見えなくなり、触れられなくなる。それでも、水としての本質は変わらない。
「空」を悟った人にとって、死とは存在の形態が変わるだけで、「私」という本質は変わらない。水が水蒸気になったのを見て「なくなった」と思うのは誤解で、実際には形を変えただけだ。ケーキが胃袋に入るのと同じく、存在は別の形で続いている。
悟りを得た人にとって、すべてのものは常に存在している。目の前から見えなくなるだけで、存在自体は消えない。存在するものは一時的に現れ、消えていき、また現れる。この論理を理解している人は、死を恐れない。生じたものは滅し、滅したものはまた生じるという理を理解しているからだ。

金剛般若経

金剛経 第十三節
「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」
訳「仏の説き給う般若波羅密というのは、即ち般若波羅密ではない。それで般若波羅密と名づけるものである」

鈴木大拙「即非の論理」:AはAでない、ゆえにAと名づく

「即非の論理」は、大乗仏教の核心を理解する鍵である。この概念を理解するためには、通常の言葉や論理の枠組みを超えて、仏教独自の論理を受け入れる必要がある。仏教の論理は、西洋の論理とは全く異なり、日常の言葉の使い方とも大きく異なる。仏教では、常識に反した独特な言葉の使い方をすることが多く、常識の範囲を超えた非常識な表現を用いる。この独特な言葉の使い方が、仏教の本質を理解するための重要な要素である。

例1:
「山は山でない、故に山と名付ける」
⇒「この山は真の山でない、故に仮に山と名付ける」
「谷間は谷間でない、故に谷間と名付ける」
⇒「この谷間は真の谷間でない、故に仮に谷間と名付ける」
解説:
山も谷間も、因縁によって一時的に形成されているものに過ぎない。したがって、この因縁が消えると山も谷間も消えてしまう仮の実体だからである。山は大地が隆起して造成されるものであり、山があればすなわち谷間も同時に造られる。

例2:
「夫婦は夫婦でない、故に夫婦と名付ける」
⇒「この夫婦は真の夫婦でない、故に仮に夫婦と名付ける」
解説:
一見夫婦に見えるが、籍を入れていない場合もあるだろうし、法律上認識された夫婦だとしても夫婦としての営みがなかったり、あるいは夫婦の営みはあるが心が離れていたり、心身ともに夫婦の営みがない家庭内別居状態であれば同じ屋根の下に暮らす男女に過ぎない。
しかし、二人の間に愛があって仲睦まじいから真の夫婦かといえば、仏教ではそもそも「愛」を認めていないのだから。むしろ愛と愛着は滅ぼさなければならないものなのだから、いずれにせよ真の夫婦など存在しないことになる。
そもそも、夫婦という関係は、ある因縁によってたまたま夫婦になったのだから、因縁がなくなれば二人は別れてしまう。つまり夫婦でなくなるのだから。

以上の例のように、もともと実体はないのである。

……この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、この方が、そのことによって、計り知れず、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ、〈説いて聞かせる〉と言われるのだ。
現象界というものは、星や、眼の露、燈し火や、まぼろしや、露や、水泡や、夢や、電光や、雲のよう、そのようなものと、見るがよい。」
師はこのように説かれた。(p135)

金剛般若経で語られる「師」はブッダではない

「師よ、求道者の道に向かう立派な若者や立派な娘は、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」
このように問われたとき、師はスブーティ長老に向かって次のように答えられた──(p45)
「スブーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。
『考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、《悩みのない永遠の平安》という境地に導き入れなければならない。』(p47)

「般若心経・金剛般若経」岩波文庫

大乗仏教とはなにか
紀元前一世紀の後半あたりから、新しい仏教を提唱する、おそらく自然発生的な大衆運動が展開されました。そして、その運動の担い手たちは、みずからの仏教を「大乗」(マハーヤーナ、偉大な仏教)と呼び、伝統仏教、とくに説一切有部の仏教に「小乗」(ヒーナヤーナ、欠陥仏教)という蔑称を与えました。
そしてかれらは、ゴータマ・ブッダに仮託した数多くの経典を精力的に作しました。歴史的に見れば、大乗経典というのは、ゴータマ・ブッダその人に源を発することのない、新たにこしらえられたものですから、伝統仏教からは、「大乗非仏説」(大乗はゴータマ・ブッダが説いた教えとは無関係である)との、当然の非難が浴びせられました。この歴史的事実は、しっかりと把握しておかなければなりません。

「わかる仏教史」宮元啓一/春秋社

悩みのない永遠の平安

言葉(思い)を超えた境地⇒「空」を悟ること
※金剛般若経成立の頃は未だ「空」という言葉がない。

仏教には言葉に対する不信感がある。特に大乗仏教では言葉を信用せず、名前を与えると実体があると錯覚することを警戒している。
一方、説一切有部の思想では言葉は非常に重要であり、聖なるものとして実体視されていた。仏教では現象界を幻とみなす。これに対し、名前をつけることで、そのものが永遠に存在するかのように錯覚する。「山は山ではないゆえに山である」、「川は川でないゆえに川である」といった表現がそれを示している。要するに、大乗仏教では言葉に実体がないと考え、それが現実を誤解させる原因になると警戒している。

ところで、また、スブーティよ、求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。なにかにとらわれて施しをしてはならない。
求道者・すぐれた人々は、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。
それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳が積み重なって、たやすくは計り知れないほどになるからだ。(p49)
それはなぜかというと、スブーティよ、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するものという思いも、個体という思いも、個人という思いもおこらないからだ。(p55)
「また、スブーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、〈ものという思い〉もおこらないし、同じく、〈ものではないものという思い〉もおこらないからだ。また、スブーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらないからだ。
それはなぜかというと、
スブーティよ、もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、〈ものという思い〉がおこらならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうから。
もしも、〈ものではないものという思い〉がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。」

「般若心経・金剛般若経」岩波文庫

仏教の論理では、「もの」という思いも「ものではない」という思いも、どちらも執着を生む。これは西洋の論理とは異なる。西洋の論理では、「もの」という思いがあれば執着があり、「ものではない」という思いがあれば執着がないと考えがちだが、仏教ではどちらの思いも執着を生むと考える。

「もの」とは何かを理解するためには、「ものではない」ものを理解していることが前提となる。例えば、「猫」を理解するためには、「猫ではない」ものも理解していなければならない。このように、Aというものを考えるときには、その反対のAでないものも同時に想定されているのだ。

説一切有部などの仏教派では、「もの」を実体として見ており、その実体に対する執着が生じる。これと同じように、「ものではない」という思いも、対極にある思いを含んでおり、そこに執着が生じる。

従って、執着をなくすためには、「もの」という思いも「ものではない」という思いも超越する必要がある。これは難しいが、思いを超越することで初めて執着から解放され、永遠の平安に至るというのが仏教の教えである。

さらに、また、師はスブーティ長老に向かってこのように問われた――「スブーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りであるとして現に覚っている法がなにかあるだろうか。また、如来によって教え示された法がなにかあるのだろうか。」こう問われたときに、スブーティ長老は師に向かってこのように答えた――「師よ、わたくしが師の説かれたところの意味を理解したところによると、如来が、この上ない正しい覚りであるとして現に覚っておられる法というものはなにもありません。また、如来が教え示されたという法もありません。それはなぜかというと、如来が現に覚られたり、教え示されたりした法というものは、認識することもできないし、口で説明することもできないからです。それは、法でもなく、法でないものでもありません。それはなぜかというと、聖者たちは、絶対そのものによって顕されているからです。」(p57)

「般若心経・金剛般若経」岩波文庫

師は問われた――「スブーティよ、どう思うか。立派な若者や、あるいは立派な娘が、この〈はてしなく広い宇宙〉を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるであろうか。」

スブーティは答えた――「師よ、幸ある人よ、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの、多くの功徳を積んだことになるのです。それはなぜかというと、師よ、〈如来によって説かれた、功徳を積むということは、功徳を積まないということだ〉と如来が説かれているからです。それだから、如来は、〈功徳を積む、功徳を積む、功徳を積む〉と説かれるのです。」(p59)
「師よ、この法門の名は何と申しますか。また、これをどのように記憶したらよいでしょうか。」
このように問われたときに、師はスブーティ長老に向かって次のように答えられた――
「スブーティよ、この法門は〈智慧の完成〉と名づけられる。そのように記憶するがよい。それはなぜかというと、スブーティよ、『如来によって説かれた〈智慧の完成〉は、智慧の完成ではない』と如来によって説かれているからだ。それだからこそ、〈智慧の完成〉と言われるのだ。」(p75)

「般若心経・金剛般若経」岩波文庫

大乗仏教は、「私がやっている」という自我の思いなしに徳を積むことを目指しているが、ここには大きなジレンマがある。自我を持たずに善行を行うことは理想だが、実際には自我を完全に排除することは困難だ。このジレンマが、善・悪・カルマについての誤った思想を生む可能性がある。
大乗仏教の最大の論理的矛盾点は、自我を排除しつつ徳を積むことにある。善行を行う主体が存在しない場合、その善行の意味や価値が曖昧になるからだ。また、自我を完全に排除した状態での行動は、意図や動機が問われなくなるため、善悪の区別が曖昧になり、カルマの概念も不明確になる。
さらに、カルマの視点から見ても、自我がない行為がどのようにカルマを形成するのかが問題となる。行為者が存在しないならば、その行為の結果が誰に帰属するのかが不明確になるため、カルマの因果関係が崩れる可能性がある。

参考文献


仏教の基礎知識シリーズ一覧


#仏教 #仏法 #禅 #ブッダ #仏陀 #釈迦 #小乗仏教 #原始仏教 #大乗仏教 #瞑想 #マインドフルネス #宗教 #哲学 #生き方 #人生 #仏教の基礎知識シリーズ

今後ともご贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。