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説一切有部・五位七十五法【仏教の基礎知識08】


しきの概念が肉体から物質へ

月を見ずに、指を見る
いつの世、どこの世界にも、ひとが指で月をさし示すとき、月を見ないで、指を見る愚かものがいる。ブッダが無我の真理を示すため「五蘊」の教義を説いたとき、弟子のなかには無我を見ないで、五蘊に関心を払った愚かものがいた
かれらは「六根」についても考えた。「根」に対応する「境」(感覚対象)を論じ、色(色・形)、声(音声)、香(香り)、味(味)、触(硬軟)、法(思考内容)の「六境」をたてた。われわれには識覚がある。これは感覚器官(根)や感覚対象(境)とは別のものだ。だから、存在を総括するのに、「六識」(六つの識覚)、すなわち眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識をたて、「六根」と「六境」と「六識」を含せて、「十八界」の体系をつくった。(p50)

色――「肉体」から「物質」へ
「五蘊」や「六根」はもともと人間の構成要素として説かれた。それは人間に我がないことを示すための教義であった。しかし、そのことを忘れたひとたちは、五蘊を人間の構成要素としてだけでなく、外界を含めた存在の構成要素として論じはじめた。
こうして色の概念に変化が生じた。それはいまや肉体を意味せず、物質を意味することになった。五蘊は人間の構成要素を意味するのではなく、世界の構成要素を意味するものとなった。
そして、かれらはこの構成要素を「法」(dharma)という言葉で呼んだ。(p51-52)

「空と無我」定方晟/講談社現代新書

五位七十五法

「ナーガルジュナ」中村元/講談社

五蘊を十八界という形で説明する方法もあるが、説一切有部では、五蘊を全く違う形で、非常に細かく組み替えて説明する。それが五位七十五法である。まず大きく無為法と有為法の二つに分ける。
無為法:生滅変化を超えた常住絶対なもの
有為法:原因・条件によって生滅する事物

無為法(時空・非五蘊)

  1. 虚空無為

    • 物の存在する場としての空間を指す。虚空とは、あらゆる物体や存在の基盤となる空間のことで、変化や条件に依存せず、恒常的であるとされる。

  2. 択滅無為

    • 智慧によって煩悩を消滅させる状態を指す。智慧を通じて煩悩(心を乱す負の感情や欲望)を選択的に消し去ることによって得られる安定した状態である。

  3. 非択滅無為

    • 智慧によらずに煩悩が自然に消滅する状態を指す。特別な努力や修行なしに煩悩が消えることを意味し、自然発生的な心の清浄化が強調される。

有為法(含色受想行識)

  1. 心法(五蘊でいう識)

    • 心そのものの働きや状態を指す。心法には、感覚や思考、意識など、心のすべての活動が含まれる。

  2. 心所有法

    • 心とともに働く心の活動や状態を指す。心所有法はさらに詳細に分類される。

      • 遍大地法(受、想、思など)

      • 大善地法(信、勤など)

      • 大煩悩地法(忿、覆など)

      • 大不善地法(貪、瞋など)

      • 小煩悩地法(放逸、懈怠など)

      • 不定地法

  3. 色法(11個)

    • 物質的なものを指す。色法には、感覚器官(眼根、耳根など)や感覚対象(色境、声境など)が含まれる。

  4. 心不相応行法

    • 心に伴わないものを指す。心不相応行法には、生命の持続や名身、句身、文身など、心と直接関連しない活動や状態が含まれる。

これらの有為法は、変化や条件に依存して生滅する事物を示しており、仏教哲学における重要な分類である。

法の研究
こうして「法の研究」(アビダルマ)がはじまった。これをもっとも組織的におこなったのが小乗二十部のなかの「説一切有部」(略して「有部」)という学派である。
ヴァスミトラは法を五つのグループ、すなわち「色法」「心法」「心所法」「心不相応行法」「無為法」の五法に分類する画期的な方法を考えだした。これが有名な「五位の分類」である。
あらゆる存在が、この分類にしたがって、整理しなおされた。かつての色蘊は色法となり、肉体のほかに外界の物質(色・声・香・味・触)をふくむものになった。かつての受蘊と想蘊は「心所法」のうちに位置を占めることになった。かつての行蘊は「心所法」の四十四項と「心不相応行法」の十四項に分かれた。(p52)
行蘊がこのように「心のうちにある行法」(心所法)と「心の外にある行法」(心不相応行法)に分かれたのも、「行」がもはや人間の構成要素でなくなったことを示す。法として七十五項目がたてられ、それが五位のもとに組織されたので、この法の体系は「五位七十五法」と呼ばれる。(p53)
「十八界」の「意界」「眼識界」「耳識界」「鼻識界」「舌識界」「身識界」「意識界」は「五位」では整理されて「心王」(=「心法」)ひとつとなり、「十八界」の体系のなかの重複のきず)が除かれた。心所法におおくの項目があげられ、人間の心の機微が明らかにされた。(p57)
一切が存在する
「法」は多義語である。「仏法」というときの「法」は「教え」あるいは「真理」を意味する。「十二処」の一つである「法」は「思考内容」を意味する。しかし、有部においていまや「法」に新しい意味が生じた。この「法」を現代語に訳すのはじつは難しい。「構成要素」「範疇」「もの」「存在」などの訳語のあいだで迷う。
かれらには「三世実有・法体恒有」という主張がある。法(法体)は過去・現在・未来を通じて実在するというのである。有部にはこの主張に類する主張として「一切は存在する」がある(これが「説一切有部」の名の由来である)。(p53-54)
法は恒常不変である
仏教の基本的な教義に「諸行無常」がある。「法体恒有」の思想はこの教義とは矛盾しないだろうか。この矛盾を回避するものにかれらの「刹那滅」の思想がある。それによれば、法は三世にわたって恒存するが、現在という舞台においては瞬間的に消滅する。そして多数の類似の法が継続して生滅することにより、ものが継続的に存在してみえる。(p55)
こうして有部教徒は構成要素としての法を実体視するにいたった。もともと要素の考えは無我を説明するためのものであった。かれらはこのことを忘れたようであるが、仏教の根本的な教義が無我であることだけは忘れなかった。(p56)

「空と無我」定方晟/講談社現代新書

説一切有部の問題点

彼らはこの究極の原始や要素といったものが普遍のものとして存在すると考えた。これらの要素や原理は変わらないとされ、普遍的なものとして存在すると考えた。なぜなら、もし要素や原理までが刹那滅で変化し続けるならば、世界には何の脈絡も一貫性もなくなってしまうからだ。だからこそ、これらの法や構成要素は過去、現在、未来の三つの時間領域において全てに実在すると彼らは主張している。
したがって、アートマンは存在しないが、法は実在し、過去、現在、未来にわたって整然と続いていくと考えないと、カルマの法則や生まれ変わりの説明ができなくなる。しかし、もしこのようなことを言い出したら、法は常住であることになり、仏教が古くから諸行無常と説いてきたことと矛盾してしまう。

説一切有部登場前後の仏教理論

原始仏典にあらわれた範疇
初期経典にしばしばあらわれる範疇には、五蘊(五蓋)・十二領域(十二処)・十八種(十八界)などがある。
説一切有部はこのような範疇によって分類された存在要素をさらに小さな単位に細分類する。そのような過程を通じて有部が到達した最終的な範疇が五位七十五法と呼ばれるものである。説一切有部がこのように存在の分析、区別の哲学を追求したもともとの動機は、それによって、自我の存在を否定することにあったことはたしかである。
しかし有部の哲学のメリットは無我の論証ということに尽きるわけではない。むしろ、その範疇的思惟がそこへ必然的に導いていった実在論にこそ、この学派の哲学の最大の特色があるのである。(p24-26)

梶山雄一著作集第四巻「中観と空1」春秋社

無我説へのとまどい――正量部の教義
先にも見ましたように、ゴータマ・ブッダは、身心のいずれも常住の自己(アートマン、自我、魂)ではないとする五蘊非我説を展開しました。
そしてまた、常識的な意味での自己なるものは認め、たとえば、自己と教えとだけを頼りとせよという遺言を残しています。ただし、そうした自己が、死後にも永遠に残る魂であるかどうかという、経験的事実にもとづきえない形而上学的な問いにはいっさい答えませんでした。かれは、形而上学的問題にたいしては、不可知論の立場をとったのです。
形而上学に足を踏み入れると、はてしのない無意味な水かけ論争に明け暮れることになることを、ゴータマ・ブッダは熟知しており、弟子たちにも強く警告を発しつづけました。まことに賢明なことでした。ところが、後世の仏教徒は、かれのこの微妙なスタンスを理解することができず、ついに、自己は存在しないという、端的に形而上学的な無我説を立ててしまいました。
ここに、大きな問題が発生しました。
ふつうのインド的発想では、認識の主体であり、自覚、自意識の対象であり、行為の主体であり、行為の結果(果報)の享受者であり、輪廻する主体として、アートマンなるものが想定されます。
ところが、そうしたものとしてのアートマンを認めないとなると、因果応報が、したがってすなわち責任倫理が成り立たなくなってしまいますし、また、 「わたくし」(僕、おれ、あたし)という発語じたい、不可解なものになってしまいます。したがって、まさに当然の理屈で、仏教の無我説は、他派(外道)からの格好の攻撃対象とされました。
仏教は、こうした攻撃、論難に大いに悩まされることになりました。
そして、苦しんだすえ、犢子部とくしぶが、そしてのちには圧倒的な勢力をもっていた正量部が、ついに、「非即非離蘊の我」なる、いわくいいがたいものを想定するに及びました。
このいわくいいがたいものは、べつに、「補特伽羅」(プッドガラ、個体、「人」の意)ともいわれます。
これは、身心(五蘊)とまったく同じではないけれども、さりとてまったく異なるものではないなにかでありまして、これこそが輪廻する主体であるというのです。
しかし、それならば、アートマン(自己、我)ということばを用いていないだけで、結局はアートマンと同じものを認めていることになるではないか、無我説を放棄したことになるのではないかと、他派から批判されたのはいうまでもありません。
とはいいましても、仏教も輪廻というものを認める以上、輪廻する主体をともかく考えざるをえないわけでして、そのいちばん簡単な解決策が、身心でもなければ身心とちがうわけではないなにかを想定することだったのです。
これをアートマンといわないところがミソなのでしょうが、無我説もなかなか維持するのがむずかしいというところです。

非連続の連続―――説一切有部の教義
無我説で輪廻とその原理である因果応報を説明するためにかなり苦しまぎれに子部や正量部が非即非離蘊の我なるものを想定したことにたいして、猛然と批判を展開したのが説一切有部です。
かれらは、非即非離蘊の我などというものは、我にほかならず、無我説においてけっして想定してはならないものだと主張しました。
それでは、無我説で因果応報をどう説明すべきだというのでしょうか。
かれらは、刹那滅の心の相続という、少しばかり手のこんだ理論を編みだしました。
刹那というのは、サンスクリット語のクシャナという語の音を写した漢訳語で、時間の最小単位、つまり、いわば時間の原子のことを意味します。
心が刹那滅だというのは、心は、生じてからわずか一刹那で消滅するということです。
もちろん、それで終わりというわけではなく、その直後に、前の心とほんの少しちがうけれどもほとんど同じような心が生じ、また一刹那ののちに消滅して、ということを繰り返すのだとされます。
しかし、それでは、ある人が殺人を犯しても、その人はほんの少しでも時間がたてば別人物だということになり、殺人の責任を負わずにすむという、不合理な話になりはしないかという疑問が生じます。
げんに、他派からはそうした疑問が投げつけられました。
それにたいして説一切有部は、ある一刹那に作った業は、つぎの一刹那に存在する心に引き継がれるのだと主張します。
心は刹那滅で非連続だけれども、業はつぎつぎと生ずる心によって担われていくというのです。
こうした心の連続のことを相続といいます。
つまり、人は、不変の個人としてではなく、刻々と変化する相続として存在するというわけで、業はその相続によって担われているので、因果応報はきちんと成り立つというわけです。非連続の連続、なかなかよく考えたといえるでしょう。

非即非離蘊の我という、アートマンもどきを想定するよりも、こちらの想定のほうが無我説としては無難です。
これを駅伝に喩えますと、ランナーは次々と入れ替わります (刹那滅)が、団体名が書かれた襷はずっと変わらずにいる(相続)というふうになります。
ただ、脱一切有部の説には、べつの面で問題があります。
というのも、身心をはじめとする世界が幻影でないかぎり、それを成り立たせている原子的な要素や原理が、不変のものとして存在するとかれらは考えたのです。
というのも、要素や原理までもが刹那滅で変化してやまないものだとすると、世界にはなんの脈絡や一貫性もないことになるからです。
こうした原子的な要素や原理のことを法(ダルマ)といい、それゆえに七十五種類の法を数えます。
こうした法は、過去、未来、現在の三つの時間領域すべてにおいて実在するというのですから、法は常住であることになり、仏教が古くから、もろもろの作られた)事象は無常であるといってきたことと折り合いがうまくつきません。これは困った話です。
ただ、この辺りは、バクトリア王国にたくさんいたギリシア哲学者たちの、とくに原子論を下敷きにしたものにほかなりません。

説一切有部がいう有 (sat、有るもの)は二種類に分けられます。
一つは実有(本当に有るもの)で、七十五種類の事象(ダルマ、法)がそれだとされます。これらの事象は、原子論でいうところの原子に相当しますので、 「原子事象」と呼ぶことにしましょう。
この原子事象は過去世、未来世、現在世の三世にわたって常住に有りつづけるものだとされます。
もう一つは施設有(仮有、ことばの上だけの有るもの)で、いろいろな原子事象の離合集散によって見かけだけ有るとされるもので、千変万化する現象世界のことをいいます。
もちろんこれは無常ではかないものに過ぎません。
原子事象は常住不変で、それらの離合集散によりものが生滅変化するかに見えるというわけで、まさにデモクリトス (前四六〇~三七〇頃)が展開した原子論の写しだということがはっきりと見て取れます。

デモクリトスなどの原子論者たちは、不生不滅不変化の「有」なる本体こそ真であり生滅変化する現象は感覚による欺きだとするパルメニデス (前五一五~四五〇頃) やその弟子ゼノンの論にたいして、本体と現象とを同時に説明する試みをしたのです。
最初期の説一切有部は、実有についての真実 (諦) 勝義論、施設有についての真実を世俗諦と名づけ、インドで古来ありつづけてきた実在論と唯名論の伝統を、実在論に優位を与える「一論説」によって統合することに成功したのです。

無常と実在経量部の教義のが経量部という部派です。
非連続の連続という相続説と、仏教古来の無常説とをうまく両立させるのに努力し、新しい説を唱えたかれらは、漢訳でいえば、相続転変差別という想定を立てます。
非連続の連続が特殊な変化発現によって成立するということです。
簡単にいうと、つぎのようなことです。
心は刹那滅だとするのは、説一切有部と同じです。
さて、ある刹那の心がはたらきを起こしますと、それはただちに潜在的ななにものかに変化します。この潜在的ななにものかのことを種子といいます。
そして、心のはたらきが種子として植えつけられることを熏習といいます。
説一切有部では、つぎに生ずる心のありようの根拠がはっきりしませんが、経量部はそこをはっきりさせます。
すなわち、つぎに生ずる心のありようは、前の心に植えつけられた種子によってきまるというのです。種子が変化発現 (転)して、つぎの心を成立させるというのです。

つぎの心を成立させることを現成といいます。
あらためて順を追っていいますと、種子が転変してつぎの心を現成し、その心のはたらきがまた新たに種子を熏習し、その種子が、という説明になります。前の種子は、つぎの心へと転変して現成しますから、つぎの心が生じたときには消えてなくなっています。
種子が芽生えて成体としての植物となり、それが種子を残して枯れる。
残った種子がまた芽生えて、というふうに考えればよいでしょう。

熏習、種子、転変、現成、これらを、心は、永遠の昔から永遠の未来に向かって繰り返す、これがかれらの主張です。
これですと、世界を構成する原子的単位である法も、過去や未来に実在するのではなく、ただ現在のこの一刹那に実在するのみということになりますから、説一切有部のように、法は常住だとするやっかいな結末におちいることがなく、仏教古来の無常説とも矛盾をきたすことがありません。

漢訳の表現によれば、説一切有部では「三世実有、法体恒有」であるのにたいし、経量部では「現在有体、過未無体」となります。
こうして、経量部は、無我説のなかで、因果応報説と無常説とを両立させたのです。

「わかる仏教史」宮元啓一/春秋社

範疇にもとづいて存在を区別し、存在の要素を規定してゆくという操作は、存在の究極的要素、原子的な要素に行きつくまで続けられるはずであって、途中で中止されてしまってはならない。
しかしその場合に、究極的要素とはどのような基準によって定められるのであろうか。有部は、ただ一つの本体とただ一つの機能をもっているものが究極的要素である、と考えた。一つのものに二つの本体、二つの機能があるならば、それは二つの存在要素に分析されなければならない。そして、二つ以上の本体、二つ以上の機能から構成されているものの全体は、ほとんど存在するものではない。たとえば軍隊とか林とか車というような全体は実在しない。実在するのはそれらの全体を構成している兵隊・馬・戦車などであって軍隊という全体ではない。

有部は究極の要素まで細分化していく作業を途中でやめずに進めていった。その過程で、彼らは究極的構成要素を七五に分けたが、その基準が問題となった。有部は、ただ一つの本体と一つの機能を持つものが究極的構成要素だと考えた。しかし、これが致命的な誤りだった。
常識的には一見正しいように思えるが、実はこの考え方が致命的な誤りで、ナーガールジュナは、もし究極的構成要素をそのように考えると矛盾が生じると論破され、有部の理論を崩壊させた。

例えば、映画のシステムを考えてみると、スクリーン、レンズ、フィルムなどが究極的構成要素として必要だ。スクリーンは糸で作られているが、映画というシステムのためにはスクリーン自体を一つの構成要素として捉えなければならない。同様に、レンズやフィルムもそれぞれ究極的構成要素とみなす必要がある。しかし、これらはそれぞれ別の材料から作られている。
つまり、究極的構成要素を「一つの実体と一つの機能」と定義すると矛盾が生じ、システム全体が破綻するのは当然のことだ。しかし、有部はこの誤った定義を与えてしまったため、中観派のナーガールジュナに論破され、その理論は崩壊してしまった。せっかくの良いアイデアだったが、歴史から消えていくことになった。

永遠なる本体

永遠なる本体
さて有部のもう一つの思想的特色をなしている永遠な本体という観念を簡潔に説明しておこう。説一切有部という学派名も、じつはこの学派が、すべてのものは過去・現在・未来を通じて永遠にある、と主張したことに由来する。もとよりすべてのものの、というところで、不合理なもの、仮構されたもの、が含まれないことはいうまでもない。不合理なもの、仮構されたものは、有部の範疇表に収められないものである。
いま、へやに猫がはいってきたとする。いったいこの猫は、昨日私が見た時と、いままた室にはいってきた時との中間において、はたして同一の猫として存在しているのであろうか。このバカらしい質問は、認識論的にはほとんど解決することの不可能な問題であるし、仏教の歴史の上では、説一切有部と経量部とを分けてしまった基本的問題の一つである。
ものは瞬間的にしか存在しない
仏教には刹那滅論という理論がある。すべての存在は――心も物も、生起した瞬間に消滅する。一瞬前の存在が原因となって次の瞬間の存在という結果を生ずる。この原因の流れは続くけれども、原因と結果とは同一の存在ではない。いわば、すべてのものは、各瞬間に別なものとして生まれかわって続いてゆく流れであって、そこに同一性を保って永続する本体はない、という理論である。
説一切有部も、もとより、すべてのものは瞬間的にしか存在しないということを強調する。しかし有部は同時にものには恒常な本体があるとも主張する。この二つの理論を共存させたために有部は非常な努力を払ったのである。けれども、有部を批判した経量部や中観派の立場からみれば、この同じ問題が有部の哲学の致命的な欠点でもあった。

猫が室の中を歩いているということは、猫が私の眼と心との関係において機能していて、私によって認識されているということである。これを猫が私にとって認識態(同分)にあるという。
この理論で重要なことは二つある。一つは、私が猫を見ていないからといって、その猫が存在しないわけではない、ということである。私にとって非認識態にある猫も他の人にとっては認識態にある。また、私にとって非認識態であった猫がやがて同じ私にとって認識態になることもある。もう一つたいせつなことは、有部が、意識の対象はつねに認識態にある、 といっていることである。考えられるものはいつでもどこでも認識の対象となるし、物体のように隠蔽されることもない。ひとりの人が考えていなくても、ほかの誰かがそれを考えている。
二種類の時間
説一切有部は、自分でそうとはっきりとはいわないけれども、二種類の時間を考えていることはたしかである。それは知覚の時間と思惟の時間である。あるいは現象の時間と本体の時間といってもよい。猫というものも剎那滅的な存在であるから、一瞬一瞬に異なったものになりながら、また見えたり見えなかったりしながら続いてゆく。その猫は生まれてくる前や、死んだ後には知覚されない。それが知覚の、そして剎那滅的な現象の時間である。しかし、生まれてくる前のその猫や死んだ後のその猫をわれわれは考えることができる。その猫は、未来にも考えられ、現在にも考えられ、過去にも考えられる。その意味で、猫は三世において存在する。思惟の対象としての猫が猫の本体であり、猫の本体は三世(過去・現在・未来)にわたって永遠に存在する。

ここまでくると、有部のいう本体とは、思惟の対象としてのもの、いいかえれば、ことばの対象としてのもの、のことであることがわかる。
いままで猫、猫といってきたが、有部は猫の本体が実在するとはいわない。猫は物質的な諸要素や心理的な諸要素の複合体であって実在ではない。実在するのはこれらの単一な本体としての諸要素である。
しかし、有部の本体というものは、われわれが理解したように、思惟の対象、ことばの対象として現象の世界と違った世界にあるといわねばならない。それは現象の知覚の時間にあるものではなくて、思惟の時間にあるものである。
聖者の観想
しかし、こういう説一切有部の思惟の世界に意味がないわけではない。むしろ、アビダルマの思想の宗教的な本質がそこにあるといえるのである。それはたとえば、熱帯魚のガラス容器の外側に立って、その全体を見わたしている人のようである。中の魚や岩や藻はある時には隠れ、ある時には現われる。しかしそれは容器の中にいるそれぞれのものにとってそうなのであって、外側から見ている人には魚も岩も藻もつねに存在している。
この世界の人や自然も同じである。世界の外から見わたす超越的な理性にとっては、すべての無常なものの生死と滅転とは単に様態の相違にすぎない。すべてのものは、初めから終わりまで、存在しつづけているのである。このような超越的な観想の立場は、僧院において脱俗的な生活を送り、あくまでも理性的に世界を見る聖者たちの哲学にふさわしいものである。

有部は「認識は非存在を対象にすることはできない」と考えていた。つまり、認識があるならば、その対象は必ず実在すると主張していた。
彼らの根拠は、本質的なものは一つの機能しか持たないという考え方にある。究極の要素は一つの機能しか持たないというのが彼らの分類法だった。彼らにとって「心」というのは、ただ光を当てる機能しか持たない。
したがって、形象を持ったものが思惟される、すなわち考えられるということは、その形象を持った対象が心とは別に存在していなければならない。なぜなら、対象が実在しないのに心がそれを表象するということになると、心は光を当てる機能だけでなく、形を作り出す機能も持つことになるからだ。これは有部の原理に反する。
心はただ光を当てるだけの存在であり、光が当てられて何かが認識されるということは、その認識されるものが実際に存在することを意味すると彼らは考えた。結論として、有部の考え方は「何かを認識できるならば、その対象は必ず実在する」というものであった。


想像上の存在と実際に存在するものの違いについて考察する。例えば、鉄腕アトムはアニメのキャラクターとして広く認識されているが、現実には存在しない。日常の言語感覚において、鉄腕アトムは実在しない。これは、絵としての存在は認められるが、物理的な存在としては認識されないためである。
しかし、有部の理論によれば、鉄腕アトムは実在するとされる。どこに実在するかと言えば、それは瞑想の世界である。有部は、瞑想中に鉄腕アトムを思い浮かべることで、その存在が認識されると考える。しかし、それが実際に瞑想の世界で存在するのか、あるいは心が作り出したものに過ぎないのかという疑問が生じる。
鉄腕アトムを意識しながら瞑想に入ると、瞑想の中で鉄腕アトムが現れ、会話をするかもしれない。しかし、それは心が作り出したものであると考えるべきである。それにもかかわらず、有部は霊的な世界に実在する神々も同様に認識する。
一般的には、想像上の存在は実在しないとされる。この点で、有部の理論は実在と想像の区別がつかないと批判される。この理論は、存在の継続性や同一人物であることの証明として用いられるが、論理的および哲学的には稚拙である。結論として、有部の理論は理論的な一貫性に欠け、実在についての議論としては成立しない。

説一切有部:まとめ

大乗仏教は「空」をどのように理解するかが重要だが、説一切有部はその正反対である「実体」を認める哲学を展開した。したがって、有部の思想を理解することで、逆に「空」の意味がよりよく分かるようになる。

ヴァスミトラ

説一切有部の『品類足論』を著したヴァスミトラの意識レベルが、仏の十大弟子の誰よりも高いとされる。この点から見れば、彼が提唱した五位七十五法は、いくつかの問題点があるにせよ、無意味とは言えない。
ヴァスミトラの意識レベルの高さは、仏教哲学の理解と深遠な瞑想実践の結果だと考えられる。仏の十大弟子と比較しても、彼の知見と洞察力は特筆すべきものがある。これは、彼が説いた五位七十五法にも反映されている。五位とは、色法、心法、心所有法、心不相応行法、無為法のことであり、これに基づいて七十五の法が整理されている。
問題点はあるが、ヴァスミトラの理論は仏教思想の一端を深く掘り下げている。例えば、色法や心法といった分類は、心と物質の相互関係を明確にし、瞑想や修行における実践的な指針を与える。これは、当時の仏教徒にとっても大いに役立ったに違いない。
仏教の複雑な教義を整理し、実践に役立つ形で提供したヴァスミトラの功績は、仏教哲学の発展においても重要な位置を占める。彼の意識レベルの高さと、五位七十五法の意義を理解することで、我々もまた、仏教思想の深奥に触れることができる。

阿毘達磨アビダルマ

アーガマにおける哲学的発展
仏教教団はシャーキャ・ムニの死後100〜200年のあいだに、いいかえれば西紀前3世紀後葉ころまでに、保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂した。その後この両部から枝末的な分裂がひき続いて起こり、西紀後の分裂をも合せると約20の部派が成立するにいたった。これらの部派は、インド各地やシュリーランカーにまで分散して発展し、アビダルマ(阿毘達磨)と呼ばれる哲学を展開した。それを部派仏教あるいは小乗仏教と呼ぶ。(p106-107)
ブッダの教説の伝承はアーガマ(阿含経)と呼ばれて各部派において伝持された。アーガマの真理(ダルマ)の学習や研究は、ブッダ在世当時の遊行生活を棄てて僧院に定住するようになった比丘たちのもっとも重要な仕事の一つになった。このアーガマの「ダルマに対する《学習・研究》」がアビダルマといわれる哲学に発展した。
諸部派のうち、おそらくもっとも多数のアビダルマ論書を生み、そして学問的にももっとも強力な部派として成長したものが、西北インドを根拠地としていた説一切有部、略して有部と呼ばれる学派である。前1世紀にはこの学派の哲学は部派仏教を代表するほどに強力なものとなっていたにちがいない。というのは、前1世紀〜後1世紀に成立してくる初期大乗仏教、とくに『般若経』の「空の思想」は説一切有部の「有の哲学」を前提し、それを批判したものであるからである。

五蘊は「すべてのもの」と同義語として使われる。この色・受・想・行・識の五種ですべての存在を尽すから、「五蘊は無常である」という言い方は「すべての存在は無常である」という意味になる。
アーガマのなかには五蘊、十二処、十八界という範疇のほかに、有為・無為、有漏・無漏などという範疇も使われている。有為とは原因によって作られたもの、制約された存在の意味である。無為は原因を超えた、制約されない存在である。有為は作られた、したがって、無常であり、苦であるものであるのに対して、無為は作られず、無常と苦とを超えたものであり、アーガマのなかでは絶対的な寂滅である涅槃を意味するのがふつうである。(p108-109)

しかし、アーガマ自体のなかでこのような理論化が進められると、ここに一つの問題が生じた。涅槃は作られたのでないもの、恒常で、苦と煩悩を超えていて、無漏、無為の存在である。こうして、無常であり、苦である有為の世界のほかに、涅槃という、恒常で、苦を解脱した世界がつけ加えられた。そしてもはや「すべては無常である」ということはできなくなってくる。「すべて」のなかには無常でない涅槃が含まれねばならないからである。そのために言い方を変えて「すべての作られたものは無常である」(「諸行無常」。この場合、行は有為と同義)という。一方、「すべては無我である」という言い方は「すべてのダルマは無我である」(「諸法無我」)と変えられた。(p110)

説一切有部の形而上学
有部のアビダルマは前述のような、アーガマにおける存在論的傾向を承けてさらにそれを発展させ、「有の哲学」を完成した。有部の体系は最終的にはいわゆる「五位七十五法」の範疇によって整理される。(p112)

有部の論書は法を定義して「独自の性質を保持するから法である」という。ダルマ(法)という名詞は「保持する」を意味する語根から派生するので、有部は「独自の性質、独自の存在を保持するから」実体のことをダルマという、と定義したのである。
有部はダルマ、すなわち、ものの本体は過去・現在・未来の三世を通じて実在する、という。無制約的な無為のダルマだけが恒常であるだけでなく、制約されたものである有為のダルマも実は恒常である、というのである。(p115)

「すべての作られたものは無常である」という仏教の基本的な命題も有部にとっては、本体は恒常であるが、それが作用をもって現象するのは現在一瞬間だけである、ということになる。有部は一方で、本体は三世に実有であるといい、他方では、すべての作られたものは瞬間的存在(刹那滅)にすぎない、というのである。作られたものは生じてたちまちに滅する。経験的世界に生きるものはいつも無常な現在に立っている。しかし有部の聖者が観想している世界は三世に恒常なダルマの世界である。有部の哲学とは無常なる世界のなかに不動なるものを見出す思想運動にほかならなかった。それがダルマの形而上学として完成されたとき、ブッダによって否定された概念と言葉は、むしろ形而上学的な本体として聖化されるにいたったのである。そこには仏教のうちで、言葉の価値の逆転が起こっていたのである。(p118-119)

空の思想: 仏教における言葉は沈黙/梶山雄一

参考文献


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