色の概念が肉体から物質へ
五位七十五法
五蘊を十八界という形で説明する方法もあるが、説一切有部では、五蘊を全く違う形で、非常に細かく組み替えて説明する。それが五位七十五法である。まず大きく無為法と有為法の二つに分ける。
無為法:生滅変化を超えた常住絶対なもの
有為法:原因・条件によって生滅する事物
無為法(時空・非五蘊)
虚空無為
択滅無為
非択滅無為
有為法(含色受想行識)
心法(五蘊でいう識)
心所有法
色法(11個)
心不相応行法
これらの有為法は、変化や条件に依存して生滅する事物を示しており、仏教哲学における重要な分類である。
説一切有部の問題点
彼らはこの究極の原始や要素といったものが普遍のものとして存在すると考えた。これらの要素や原理は変わらないとされ、普遍的なものとして存在すると考えた。なぜなら、もし要素や原理までが刹那滅で変化し続けるならば、世界には何の脈絡も一貫性もなくなってしまうからだ。だからこそ、これらの法や構成要素は過去、現在、未来の三つの時間領域において全てに実在すると彼らは主張している。
したがって、アートマンは存在しないが、法は実在し、過去、現在、未来にわたって整然と続いていくと考えないと、カルマの法則や生まれ変わりの説明ができなくなる。しかし、もしこのようなことを言い出したら、法は常住であることになり、仏教が古くから諸行無常と説いてきたことと矛盾してしまう。
説一切有部登場前後の仏教理論
有部は究極の要素まで細分化していく作業を途中でやめずに進めていった。その過程で、彼らは究極的構成要素を七五に分けたが、その基準が問題となった。有部は、ただ一つの本体と一つの機能を持つものが究極的構成要素だと考えた。しかし、これが致命的な誤りだった。
常識的には一見正しいように思えるが、実はこの考え方が致命的な誤りで、ナーガールジュナは、もし究極的構成要素をそのように考えると矛盾が生じると論破され、有部の理論を崩壊させた。
例えば、映画のシステムを考えてみると、スクリーン、レンズ、フィルムなどが究極的構成要素として必要だ。スクリーンは糸で作られているが、映画というシステムのためにはスクリーン自体を一つの構成要素として捉えなければならない。同様に、レンズやフィルムもそれぞれ究極的構成要素とみなす必要がある。しかし、これらはそれぞれ別の材料から作られている。
つまり、究極的構成要素を「一つの実体と一つの機能」と定義すると矛盾が生じ、システム全体が破綻するのは当然のことだ。しかし、有部はこの誤った定義を与えてしまったため、中観派のナーガールジュナに論破され、その理論は崩壊してしまった。せっかくの良いアイデアだったが、歴史から消えていくことになった。
永遠なる本体
有部は「認識は非存在を対象にすることはできない」と考えていた。つまり、認識があるならば、その対象は必ず実在すると主張していた。
彼らの根拠は、本質的なものは一つの機能しか持たないという考え方にある。究極の要素は一つの機能しか持たないというのが彼らの分類法だった。彼らにとって「心」というのは、ただ光を当てる機能しか持たない。
したがって、形象を持ったものが思惟される、すなわち考えられるということは、その形象を持った対象が心とは別に存在していなければならない。なぜなら、対象が実在しないのに心がそれを表象するということになると、心は光を当てる機能だけでなく、形を作り出す機能も持つことになるからだ。これは有部の原理に反する。
心はただ光を当てるだけの存在であり、光が当てられて何かが認識されるということは、その認識されるものが実際に存在することを意味すると彼らは考えた。結論として、有部の考え方は「何かを認識できるならば、その対象は必ず実在する」というものであった。
想像上の存在と実際に存在するものの違いについて考察する。例えば、鉄腕アトムはアニメのキャラクターとして広く認識されているが、現実には存在しない。日常の言語感覚において、鉄腕アトムは実在しない。これは、絵としての存在は認められるが、物理的な存在としては認識されないためである。
しかし、有部の理論によれば、鉄腕アトムは実在するとされる。どこに実在するかと言えば、それは瞑想の世界である。有部は、瞑想中に鉄腕アトムを思い浮かべることで、その存在が認識されると考える。しかし、それが実際に瞑想の世界で存在するのか、あるいは心が作り出したものに過ぎないのかという疑問が生じる。
鉄腕アトムを意識しながら瞑想に入ると、瞑想の中で鉄腕アトムが現れ、会話をするかもしれない。しかし、それは心が作り出したものであると考えるべきである。それにもかかわらず、有部は霊的な世界に実在する神々も同様に認識する。
一般的には、想像上の存在は実在しないとされる。この点で、有部の理論は実在と想像の区別がつかないと批判される。この理論は、存在の継続性や同一人物であることの証明として用いられるが、論理的および哲学的には稚拙である。結論として、有部の理論は理論的な一貫性に欠け、実在についての議論としては成立しない。
説一切有部:まとめ
大乗仏教は「空」をどのように理解するかが重要だが、説一切有部はその正反対である「実体」を認める哲学を展開した。したがって、有部の思想を理解することで、逆に「空」の意味がよりよく分かるようになる。
説一切有部の『品類足論』を著したヴァスミトラの意識レベルが、仏の十大弟子の誰よりも高いとされる。この点から見れば、彼が提唱した五位七十五法は、いくつかの問題点があるにせよ、無意味とは言えない。
ヴァスミトラの意識レベルの高さは、仏教哲学の理解と深遠な瞑想実践の結果だと考えられる。仏の十大弟子と比較しても、彼の知見と洞察力は特筆すべきものがある。これは、彼が説いた五位七十五法にも反映されている。五位とは、色法、心法、心所有法、心不相応行法、無為法のことであり、これに基づいて七十五の法が整理されている。
問題点はあるが、ヴァスミトラの理論は仏教思想の一端を深く掘り下げている。例えば、色法や心法といった分類は、心と物質の相互関係を明確にし、瞑想や修行における実践的な指針を与える。これは、当時の仏教徒にとっても大いに役立ったに違いない。
仏教の複雑な教義を整理し、実践に役立つ形で提供したヴァスミトラの功績は、仏教哲学の発展においても重要な位置を占める。彼の意識レベルの高さと、五位七十五法の意義を理解することで、我々もまた、仏教思想の深奥に触れることができる。
阿毘達磨
参考文献
仏教の基礎知識シリーズ一覧
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