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金剛般若経02/大乗仏教【仏教の基礎知識10】


基礎論理学:形式論理学/アリストテレスの論理学

思考の三原則

神は、契約を絶対に守ることを要求した。だから、成立したか、成立してないかが重要になる。よって、ここから、「矛盾律」が出てくる。そして、そこには、中間があってはならない。どちらかしか認めないのだ。これが「排中律」である。そして、契約は言葉で行なわれる。用語の定義が求められる。ここから、「同一律」が生まれた。
形式論理学は、ギリシャで完成された
しかし、人間の論理として実施されたのは、絶対的唯一神の存在を確信する宗教においてだった。
思考の三原則(同一律・矛盾律・排中律)は、数学や西洋哲学の基礎であり、これがなければ思考そのものが成り立たない。人は無意識のうちにこれらの三原則を使っている。

【同一律】(Principle of Identity)
「AはAである。」あるものは常にそのものと同じであるという原則。例えば、AはAであり、AがQになることはない。この原則がなければ、論理的な一貫性を保つことができない。ただし「AはBである」も、AとBが共通の要素をもつことを述べているので同じ形式である。
【矛盾律】(Principle of Contradiction)
「Aは非Aでない。」一つの命題が真であると同時に偽であることはあり得ないという原則。つまり、ある命題が真であるなら、その否定は必ず偽である。この原則により、矛盾を排除し、明確な判断を下すことができる。
【排中律】(Principle of Excluded Middle)
「AはBか非Bかのいずれかである。」ある命題が真であるか、またはその否定が真であるという原則。つまり、真偽のいずれか一方が必ず成り立つということ。この原則があれば、曖昧な状態を排除し、明確な結論を得ることができる。


【問題】
ここに「神様」、「悪魔」、「人間」が一者ずついる。
「神様」は常に真実を言い、「悪魔」は常に嘘をつく。
「人間」は状況により真実と嘘を使い分けて言う。
この三者を、A、B、Cとし、それぞれが次のように発言した。
A: 「私は神様ではない」
B: 「私は悪魔ではない」
C: 「私は人間ではない」
このとき、A、B、Cは何者になるかを特定せよ。

「神・人・悪魔を特定せよ」の問題を例にすると、三原則がどのように働くかがわかりやすい。この問題では、登場人物それぞれが異なる役割を持ち、それぞれの役割を正しく特定するためには、同一律により一人一人の特性を明確に区別し、矛盾律により相反する特徴が同一人物に混在しないようにし、排中律によりどの役割が誰に当てはまるかを確定する必要がある。
このように、三原則は論理的思考の基盤として無意識のうちに使われている。


現実は論理パズルを解くようにはいかない

日常生活や公的な関係、数学やパズルのような明確なルールが存在する分野では論理的に振る舞うことが求められる。しかし、感情や情が絡む場面では、論理だけでは解決できないことが多い。
数学のパズルや論理クイズはシンプルでよくできており、人々を楽しませるのに十分だ。だが、現実世界はそれほど単純ではない。常に嘘をつく悪魔のような存在を想定することは論理的には興味深いが、実際にはそんな悪魔は存在しない。なぜなら、悪魔的な人間や本当の悪魔は、半分は真実を語るからだ。悪意のある政治家も同様で、半分の真実を語ることで人々の信頼を得つつ、絶対に隠したい部分について嘘をつく。これは、嘘をつく人の常套手段だ。すべて嘘を言ったら誰も信じないため、偽情報には半分の真実を含める。これが悪魔的な策略というものだ。
本当に悪魔のような人間が存在するとしたら、常に嘘をつくということはあり得ない。もし正確に定義するなら、人間は自分の都合のいい嘘をつき、悪魔は悪意のある嘘をつき、神は良かれと思って方便で嘘をつくことがあるだろう。悪魔は人が苦しむのを喜び、平気で嘘をつく。人間は自分を守るために都合のいい嘘をつく。神は良かれと思って方便で嘘をつくことがある。現実の問題は、こうした単純な論理だけでは解決できないことを理解する必要がある。

論理だけの世界

アスペルガー症候群の特徴
人の気持ちを理解したり、他人の立場に立って考えることが苦手です。まったく悪気はないんですが、相手の傷つくことを言ってしまいます。
例えば太った友人に対して素直に「太ってるね」と言ってしまったり。その言葉が人を傷つけてしまうということには、少し鈍感なのです。
他にも自分の興味のある話題を一方的に話し出し、相手が困っていたり迷惑がっていても気がつきません。自分の興味があることは相手にとっても興味のあることだと思ってしまうため、こういった行動に出てしまうのです。
***
アスペルガーの子供は、言葉で言われたことは額面どおり真に受けることが多い。
例えば教師が、アスペルガーの子供に(宿題を忘れたことを問いただす意味で)「犬があなたの宿題を食べたの?」と尋ねたら、その子はその表現が理解できなければ押し黙り、教師に自分は犬を飼っておらず、普通犬は紙を食べないことを説明する必要があるのかどうか考えようとする。つまり教師が、表情や声のトーンから暗に意味している事を理解できない。
先生は、その子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていくかもしれない。その子はその場で何かがおかしいとフラストレーションを感じながら、そこへ黙って立ち尽くすことだろう。

論理の次元

人間の意識は、顕在意識、潜在意識、無意識の3つに分けられる。その中で、顕在意識の論理は基礎的な論理にあたる。具体的には、同一律、矛盾律、排中律の思考の三原則が顕在意識のレベルでの論理。
潜在意識の論理ははヘーゲルの弁証法に対応する。
無意識の論理は「即非の論理」で、これが非常に重要なものとなる。

ヘーゲルの弁証法

人間の情、つまり非論理的な部分を見事に論理化した人物がいる。哲学者のヘーゲルである。弁証法とは、人間の思考だけでなく、自然や社会、文化すべてのものをつらぬいていると考えた運動・発展の論理のことで、それは、「あるものごと、あるいはある主張(正)は、必ず自分の中に自分と対立するもの・矛盾するもの(反)をふくんでおり、それらが総合・統一されること(止揚〈アウフヘーベン〉)によってより高次の第三のもの(合)が生み出される」というものである。

主に次の三つの段階で説明される。

  1. 正(テーゼ):ある命題や立場が提起される。この段階では一つの見方や意見が主張される。

  2. 反(アンチテーゼ):その正に対して矛盾する意見や立場が現れる。この段階では対立する見解が提示され、議論が発生する。

  3. 合(ジンテーゼ):正と反の対立や矛盾を克服し、新たな統一的な見解が生まれる。この段階で両者の要素が統合され、より高次の真理や理解が形成される。

このプロセスを繰り返すことで、より深い理解やより高度な真理に近づくとされる。弁証法は哲学や政治学、経済学など多くの分野で応用され、特にヘーゲルやマルクスによって重要視された。

ヘーゲルの弁証法はどんなものかというと、曖昧な中間状態のものは論理のベースには乗らない。むしろ、人間の感情や情といった部分が関与する。世界にはさまざまなものの考え方が対立して存在している。これらの対立の中で、社会や世界が動いている。単純に「論理の三原則」で世界が動いているわけではなく、人間の心の中にあるさまざまな思惑や矛盾が影響して、歴史や世界が動いていく。例えば、人々の不満が高まると革命が起こることがあるが、これは論理では説明できない。むしろ、こうした現象は弁証法で説明できる。なぜなら、そこには人間の感情が絡んでいるからだ。

人倫

カントは自由について多くの思想を展開したが、彼の捉え方は内面的なものであった。一方、ヘーゲルはそのような道徳的自由は一面的だと考え、真の自由は具体的な人間関係や制度を通じて客観化されるべきだと主張した。彼は自由が法や制度として客観化されることが重要だと考えたのだ。ヘーゲルは、客観的な法と主観的な道徳性の両方が共存するところに統一があると見ていた。これを彼は「人倫」と呼んだ。

ヘーゲルの議論の中には、家族、市民社会、国家という三つの単位が登場する。家族は基本的な単位であり、市民社会では個々の欲望が衝突し合う。国家は法によってこれらの衝突を統治する。ヘーゲルは、家族、市民社会、国家を正反合の関係で統一する思想を持っていた。彼はこのような理想的な社会を「人倫」によって実現しようとした。ヘーゲルの弁証法的なアプローチは、フランス革命などの革命思想に大きな影響を与えた。

即非の論理

鈴木大拙は、般若系思想の論理として『金剛経』の「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、是名般若波羅蜜多」という表現に注目し、これを「仏説ーA即非A是名A」(Aは非Aである、だからAである)という公式にまとめた。「A」と「非A」、そして「肯定」(即)と「否定」(非)とがそのまま自己同一であるという「即非的自己同一」という独自の同一律を提唱した。
鈴木にとって「即非」は単なる論理ではなく、人間存在の根源的な事実の自覚であり、真実の自己の実現即体認でもあった。

「AはAでない、ゆえにAと名づく」という表現は、Aというものが実体を持たない幻であることを示している。つまり、般若思想では、世界は「空」であり、すべてが幻であると徹底的に説いている。だからこそ、『金剛般若経』の真意は、こうした意味を持つ。
「AはAでない」「すなわちAはAでない」という表現の「Aでない」というのは、「Aとしての実体がない」「真のAではない」という意味であり、すなわち「空」を示している。だからこそ、「A」と仮に名付けられたその「仮のA」は、実は幻であるということになる。世界は幻であるという主張が、『金剛般若経』の核心である。
しかし、鈴木大拙的な禅の理解や解釈を金剛般若経にそのまま当てはめてしまうと、まったく異なるものになってしまう。

彼の主張によれば、「Aはそのまま非Aと同一である」と述べている。つまり、「ゆえにA」というのは本当のAを意味している。
ここでAを自己とすると、「自己は自己ではない、ゆえに自己である」となる。「私である私は私じゃない、ゆえに私である」ということだ。大拙によれば、この最後の「私」は真実の私、すなわち実現された自己である。彼は「私が私でないものと一つであることが真の自己を得ること」と言っている。つまり、私は神と一つであるという感覚に近い。
これは金剛般若経の解釈とは異なるが、ただ「AはAでない、ゆえにAである」という表現を公式として眺めると、金剛般若経の理解においては最後のAを幻影と捉え、「名づく」を幻影として捉えるか、あるいは「真実のA」であると捉えるかで解釈が分かれる。
言葉というのは本来、どちらの解釈も可能である。そのため、歴史的背景や文脈に基づいて解釈し、金剛般若経ではどちらの解釈が正しいかを決める必要がある。しかし、大拙は金剛般若経の論理を定式化して全体を解釈したため、異なる解釈が生じた。解釈として異なっていても、論理としては成り立つ。こうした論理はあり得るということだ。

洞山が弟子の曹山に問うた、「君の名は?」。
曹山、「本寂といいます」。
洞山、「その上にもっと言うてみよ」。
曹山、「言いません」。
洞山、「なぜ言わぬ」。
曹山、「本寂と言いません」。
「本寂」だと思っていた自我「迹来(さきほど)の本寂」(個)のその上に「本寂と言わぬもの」(超個)のあることを知らねばならぬ。その「向上(そのうえ)の本寂」が体験されてはじめて、真実の自己(無相の自己・無位の真人)が自覚される。「本寂の脱落」(自己の否定)を媒介にしてはじめて「真箇(ほんとう)の本寂」(自己肯定)が可能になる。
“A”(迹来の本寂)は“非A”(向上の不名本寂)である。だから“A”(真箇の本寂)である。
絶対的否定即絶対肯定、死んで生きるのが禅の道である。

キルケゴール:実存の三段階

真の実存にたどり着く三段階の実存の道。
この理論は、個人が真の実存、すなわち自己実現と本当の意味での生きる目的に到達するまでのプロセスを示す。

美的実存
特徴: 感覚/選択: あれもこれも
美的実存の人間は、快楽や感覚的な楽しみを追求する。この段階では、美や感覚的な快楽が中心で、欲望を満たすことが生きる目的となる。
享楽主義に陥り、自己満足を追い求めるが、持続的な満足感は得られず、やがて虚無感や絶望に襲われる。
矛盾: 一時的な快楽に依存することで、深い満足感や自己実現を感じることができない。このため、むなしさや無意味感に苛まれる。
倫理的実存
特徴: 理性/選択: あれかこれか
倫理的実存の人間は、理性的な選択や道徳的な行動に基づく。ここでは、個人の責任や社会的な義務が重視され、自己の行動が社会全体に与える影響を考慮する。道徳法則に従って正しい行動を取ろうと努力するが、完全にそれを実現することができない無力さや矛盾を感じる。
矛盾: 完全な倫理的存在になることは不可能であり、この不完全さに対する認識が深まると、絶望感に陥る。
宗教的実存
特徴: 信仰
宗教的実存の人間は、信仰を通じて自己の存在を見出す。この段階では、神との個人的な関係が中心となり、真の自己実現を追求する。
単独者として神の前に立つことで、他者の評価や社会的な規範から解放され、真の自己を実現する。この「単独者」という概念は、個人が神の前で完全に自己を開示し、真実の自己を見つけることを意味する。
信仰の飛躍: 理性を超えて信仰によって生きることを選ぶ。この「飛躍」は、絶望から救われ、完全な自己実現に至るための重要なステップ。
過渡段階: 絶望
絶望は、美的実存や倫理的実存を超えて宗教的実存に到達するための重要な過程。絶望は個人が自分の限界や不完全さを認識することであり、これを乗り越えることで、より高い次元の自己実現に到達する。

キルケゴールの理論は、個人が真の意味で自己を実現するためには、快楽や道徳に基づく生き方を超えて、信仰による生き方に到達する必要があると説く。彼の思想は、現代においても自己実現や人生の意味を考える上で重要な指針となっている。

八千頌般若経

菩薩の修学
「世尊よ、このように学んでいる菩薩大士は、いかなるもの(法)を学んでいるのでしょうか」
そう問われたとき、世尊はシャーリプトラ長老につぎのようにお答えになった。
「シャーリプトラよ、そのように学んでいる菩薩大士は、実はいかなるものをも学ばないのである。それはなぜであるか。ものというものは、無学な凡夫、一般人(異生)がそれらに執着しているようなかたちでは、実は存在していないからである」
シャーリプトラ長老は申しあげた。
「それでは、世尊よ、それらはどのように存在するのですか」(p24-25)
「シャーリプトラよ、存在しないというかたちで存在し、自体として存在していない(つまり知られない)。だから、(その真理を知らないことを)無知(無明)というのである。無学な凡夫、一般人たちはそれらに執着し、存在しないすべてのものを(実在すると)妄想する。彼らはそれらを妄想したうえで(ものは恒常的であるとか断滅するものであるとか)二つの極端(な見解)にとらわれて、それらのものを(真実には)知らず、見ない。そういうわけで、彼らは存在しないすべてのものを妄想し、妄想したうえで二つの極端(な見解)に執着する。執着したうえでそれにもとづいた認識によって過去のものを妄想し、未来のものを妄想し、現在のものを妄想する。彼らは妄想しては、精神的存在と物質的存在(名色)に執着している。彼らは存在しもしないすべてのものを妄想する。」

「お前はどう思うか、スブーティよ、幻と物質的存在は別々のものなのか、幻と感覚は別々のものなのか、表象、意欲は(幻と)別なのか、そして幻と思惟は別々なものなのか」
スブーティは申しあげた。
「世尊よ、そうではございません。世尊よ、実に幻と物質的存在は別々ではありません。世尊よ、物質的存在は幻であり、幻は物質的存在と同じです。世尊よ、幻と感覚は別々のものではなく、表象も、意欲も別なのではありません。感覚、表象、意欲こそが、世尊よ、幻であり、幻こそが感覚、表象、意欲なのです。世尊よ、幻と思惟とは別々のものではありません。世尊よ、思惟こそが幻であり、幻こそが思惟なのです。」(p26)
ものの真相
世尊よ、物質的存在は束縛されてもおらず、解放されてもいません。感覚、表象、意欲もそのとおりですし、同じく、世尊よ、思惟も束縛されても解放されてもおりません。(p34)
幻の人の物質的存在というものは束縛されてもおらず、解放されてもいないのです。幻の人の感覚、幻の人の表象、幻の人の意欲というものも同じであり、そして、プールナ長老よ、幻の人の思惟というものも束縛されても解放されてもいないのです。(p36)
不生
菩薩というものは名前だけのものにすぎません。知恵の完成というものも名前だけのものにすぎません。そして、その名前さえも生起し(存在し)ているものではありません。そのようにすべてのものに本体(自性)がないときに、把握もされず、生起もしていない物質的存在とは何でしょうか。感覚、表象、意欲とは何でしょうか。そして、把握もされず、生起もしていない思惟とは何でしょうか。このようにすべてのものに本体がないということが不生ということなのです。
世尊よ、菩薩大士が(以上のように)これらのものを知恵の完成において考察するそのときには、彼は物質的存在を認めず、物質的存在を許容しない。物質的存在が生ずるとも見ないし、物質的存在が滅ずるとも見ないからです。感覚、表象、意欲についても同様であり、そして思惟を認めず、思惟を許容しない。思惟が生ずるとも見ないし、思惟が滅ずるとも見ないからです。(p40-41)

「大乗仏典〈2〉八千頌般若経I 」梶山雄一/中公文庫

大乗仏教では、物質的存在は一時的に現れるものであり、特にこれが重要とされる。物質的存在は仮に生じ、仮に滅するものであり、本質的には生じも滅しもしない。これを「実相」と呼び、実相では物質は実際に存在しないという考え方だ。つまり、あらゆる物質は幻のような存在であり、実際にはないのにあるかのように見えるだけだ。したがって、物質が本当に生じたり滅したりすることはないとされる。この理解が大乗仏教の基本的な教えである。

世尊よ、このように、(菩薩は)知恵の完成において、すべてのものをあらゆる様態において考察しつつ、そのときに物質的存在を認めず、物質的存在を許容しない。物質的存在が生ずるとも見ないし、物質的存在が滅ずるとも見ないのです。
それはなぜかといいますと、物質的存在が生じないということは物質的存在ではなく、物質的存在が滅しないということも物質的存在ではありません。しかも、それゆえに、不生と物質的存在とは不二であって、分けられるべきものではありません。また、そういうわけで不滅と物質的存在とは不二であって、分けられるべきものではありません。しかも、物質的存在が(概念の世界で)語られるときには、それはこの不二なるものが名づけられているのです。(p42-43)
神々よ、すべてのものもまた幻のようであり、夢のようなものなのです。
そのとき、神々はスブーティ長老につぎのように言った。
「スブーティ聖者よ、完全にさとった人も幻のごとく、夢のごときものである、とあなたはいうのですか。完全にさとった人の本性も幻のごとく、夢のごときものである、とあなたはいうのですか」
スブーティは言った。
「神々よ、涅槃も幻のごとく、夢のごときものである、と私はいいます。ましてそのほかのものはいうまでもありません」(p61-62)

「スブーティ聖者よ、涅槃さえも幻のごとく、夢のごときものである、とあなたはいうのですか」
「ですから、神々よ、もし涅槃さえも超えてよりすぐれたものが何かあったならば、それさえ私は幻のごとく、夢のごときものです、といいましょう。こうして、神々よ、幻と涅槃とは不二であり、分けることができないのです。こうして、夢と涅槃とは不二であり、分けることはできないのです」
「スブーティ長老よ、知恵の完成がこのようなかたちで説かれているときに、それを信受する人々がだれかおりましょうか」
そのとき、アーナンダ長老は彼ら上座たちにつぎのように言った。
「長老たちよ、知恵の完成がこのようなかたちで説かれるのを信受するのは、もはや退転することのない菩薩大士たち、正しい見解をそなえた人々、あるいは煩悩を滅ぼし尽くした阿羅漢たちである、と知らねばなりません」
(p62-63)

「大乗仏典〈2〉八千頌般若経I 」梶山雄一/中公文庫

幻の存在に対して、どんなことを言っても正しい、たとえば鉄腕アトムは解脱したというのも正しい。これを仏教では仏を教化する方便の知恵という。

地獄への道
「スブーティよ、この知恵の完成を拒み、捨て、そしてすることによって、過去・未来・現在の諸仏世尊の全知者性を拒み、捨てることになり、そしることになる。
「この道を学んではいけない」と語り、「これは仏陀のことばではない」というようなことばを話すであろう。
こうして彼らは自分の心を害し、(正しい教えからみずからを)引き離し、たうえに、他の人々の心をも害し、引き離して、知恵の完成を誹謗するであろう。(p216-218)
彼らは有情たちの利益と幸福をそこなう行為によって、大地獄として成熟するにいたる行為を集積する。彼らは一つの大地獄から他の大地獄へと移ってゆくであろう。彼らが、そのように長時のあいだ、一つの大地獄から他の大地獄へと移ってゆくうちに、劫火による世界の終末が起こるであろう。劫火による世界の終末が起こるときに、他の世界体系にある大地獄のなかに、彼らは投げ入れられるであろう。彼らはそれらの大地獄に生まれるであろう。
(p218-219)
このように彼らは、多くの苦痛を受けるべき行為を経験するのである。それはなぜか。それというのも、悪いことばを語ったからである。」
そのとき、シャーリプトラ長老が世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、五大罪を犯し、重ねることも、この(上述の菩薩の)心の悪行、ことばの悪行に似ることも、及ぶことも、くらべることもできないのでしょうか」
世尊はお答えになった。
「そのとおりである、シャーリプトラよ。まことにそのとおりである。シャーリプトラよ、五大罪を犯し、重ねることも、この心の悪行、ことばの悪行、かかる行為をなし、積み、重ね、集めることには似ることも、及ぶことも、くらべることもできないのである。」

「大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ 」梶山雄一著/中公文庫

このように、脅しの言葉に満ちている八千頌般若経の著者(男性)は後に神智学徒のアイス・ベイリーとして転生する(竹下雅敏説)

ダルモードガタ菩薩の教授
「夏の暑い日射しに照りつけられた男が、真昼時に蜃気楼で水が流れているのを見るとしましょう。いったい、この水はどこからきたのであり、この水はどこへ行くのでしょう。東の大海へなのですか。南へなのですか、西へなのですか、北へなのですか」
「実に、蜃気楼には水は存在しません。いわんや、どうしてその(水)の去来が知られましょうか。その夏の暑い日射しに照りつけられた男は愚かもの、知恵劣るものであって、蜃気楼を見て、水でないものにおいて水の観念をいだくのです。また、そこ(蜃気楼)には水は本体として存在しはしないのです」
「たとえば、幻術師が魔法でつくり出した象兵隊、騎兵隊、戦車隊、歩兵隊がきたり行ったりすることはありません。それと同じように、良家の子よ、如来には去来は存在しないのです。」(p354-356)
「世尊は《あらゆるものは夢のようだ》と仰せになりました。良家の子よ、如来が教示されたように、あらゆるものが夢のようなものである、とありのままに知らないものはだれでも、如来を名前の集合や物質的な身体として執着して、如来たちの去来を妄想するのです。いわまでもなく、ものの本性を知らないで、如来たちの去来を妄想するものはすべてみな、愚かな凡人だからです。彼らはみな、六種の生存の境遇から成る輪廻に赴いたし、赴くし、赴くでしょう。すべてみな知恵の完成から遠ざかり、すべてみな仏陀のもろもろの教えから遠ざかっているのです。」(p357)
不去、不来の縁起
「良家の子よ、たとえば、大海のなかにあるいろいろな宝は、東の方角からくるのでもなく、南からくるのでもなく、西からでもなく、北からでもなく、(東南などの)四維からでもなく、下からでも、上からでもなく、いかなる場所や方角からくるのでもなくて、有情たちの善い果報を生じる行為(善根)にもとづいて、いろいろな宝は大海のなかに生じるのです。それらのものは原因なくして生じるのではなく、原因、条件、理由に依存し、依拠して生じた(縁起)のものなのです。滅しつつあるときも、それらの宝は十方の世界のいずれにも移動するのではありません。そうではなくて、ある諸条件が存在するあいだ、それらの宝はあらわれ、その諸条件が存在しないならば、それらの宝はあらわれないのです。」
ちょうどそのように、良家の子よ、それらの如来の完全な身体は、十方にあるどの世界からきたのでもなく、十方の世界のいずれかへ去るのでもないのです。しかし、(だからといって、)諸仏世尊の身体は原因のないものではなく、以前に行なった修行によって完成され、原因や条件に依存し、理由あって生じ、以前に行なった行ないの成熟によって生じているのです。それ(世尊の身体)は十方のどの世界にも存在しません。けれども、ある諸条件があるあいだ、身体は出現し、その諸条件がないならば、身体の出現は知られないのです。(p358-359)
多くの因縁がすべて集まったとき生じたのですから、それ(身体の顕現)はどこからくるのでもなく、因縁の総体が整わないばあいにも、どこへ行くのでもありません。
あなたがこのように、如来たちやあらゆるものを不生、不滅である、と完全に知るならば、そのことから、あなたが無上にして完全なさとりにいたることがきまるでしょうし、たしかにあなたは知恵の完成と巧みな手だてを追求することになるでしょう。(p360)

「大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ 」梶山雄一著/中公文庫

大乗の悟り

マイトレーヤ・ナータ(弥勒)に帰せられる「二万五千頌般若経」の注釈的綱要書『現観荘厳論』によると、仏教における「さとり」は三種に分けられる。小乗仏教の聖者である声聞、独覚のさとりは「一切智」と呼ばれる。これは現象世界を分析し、そこにある諸実体のすべてに正しく通暁する知恵である。それは実在するものとそうでないものとを区別する知恵で、その本質は、有情の身心や環境世界を構成している実在する諸要素を理解することによって、それら以外に自我とか霊魂とかいわれる実体は存在しない、とさとることである。それは、自我の実在しないこと(人無我)をさとるけれども、一定の数の諸要素の実在性(法有)はこれを積極的に是認する立場である。(p410-411)
第二のさとりは仏陀となることを目標として修行している菩薩のさとりであって、みずからの修習の対象と方法、および有情を教化するための道の種別のすべてに通暁する知恵(道種智)である。これは「巧みな手だて(善巧方便)の知」であるといってもよい。巧みな手だては、後述するように、自他の救済のためのすべての方法であるが、まず何よりも人間に自我という実体が存在しないこととともに、世界の諸現象にも実体の存在しないこと(法無我)に通じる手だてのことである。
第三のさとりは「仏陀の不二の知」であって、一瞬の直観によって人間と世界の絶対的な様相(勝義)と相対的な様相(世俗)、言いかえれば、ものが本質的に空であることとそれが幻や夢のごとくに現象している様相のすべてに通じること(一切種智)である。これが「知恵の完成」と呼ばれるものであり、「無上にして完全なさとり」(無上正等菩提)にほかならない。
物質的存在にせよ、心理的存在にせよ、合理的な存在には固有で不変の本体(自性)がある、という実在論的形而上学は、「般若経」に先だつ仏教のアビダルマ哲学者たちの発展させた思想であった。それは、ものに存在する固有の特徴をとらえ、それを不変の本体として認識する哲学であった。「般若経」はそのような、ものの特徴に執着する態度を批判し、すべてのものには固有の本体などけっして存在しないこと、その意味で、すべてのものは空であることを強調する。ものは原因と条件という他の諸存在に依存して生じ、存続し、滅する。その意味で、ものは自立的、恒常的な本体をもたず、本体としては存在せず、空である。(p413-414)
所詮、本体という形而上学的存在は、ことばの意味が実体化されたものであり、現実のものは真実にはことばの意味とかかわることとなく、本体を離脱しているからである。施与や道徳という倫理的価値がさとりという宗教的価値に転換しうる原理も、この空の思想のなかにあるのである。
ここまでくれば、さとりの世界と迷いの世界とが菩薩大士にとって区別されず、不二のものであるという考え方はたちにとって可能になる。それらの二つもそれぞれ固有の本体をもつわけではないからである。菩薩大士にとって、無上にして完全なさとりを求めることと、この生死の世界にとどまってあらゆる有情の救済のためにはたらくこととには区別がない。(p414-415)
だから、彼は自分ひとりの心の安らぎのために、迷える有情の世界での活動をやめて、涅槃の静寂にはいってしまうことはない。さとりを求めながらもあらゆる有情を見捨てないこと、他の人々をさとらせることと自己のさとりとが実は不二であると知ること、それが菩薩大士の「巧みな手だて」である。そのような菩薩大士は、父母、子供、妻たちとともに密林のなかに迷いこんだ英雄が、最後まで同伴者を見捨てることなく、励まし慰めながら、あらゆる手だてを尽くして都まで連れ帰ることに喩えられる。そのようにものの空性を知り、ものを区別せず、あらゆる有情を救うためにこの生死の世界にとどまること、つまり、「涅槃にとどまらないこと」(不住涅槃)が菩薩大士のさとりとなるのである。

「大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ 」梶山雄一著/中公文庫

菩薩(ボーディサットヴァ)ということばは、二種に使い分ける必要がある。一つは「さとりという自利の完成を志向する人」のことで、このばあいには、菩薩とは、仏教の修行者一般を意味する。この「菩薩」に「大士」(マハーサットヴァ)という語が付け加えられて、「菩薩大士」といわれるときには、大乗の修行者、大乗の菩薩のこととなる。「自分および他人のさとりのために励む偉大なる大乗仏教の修行者」という意味になり、自利のみを追求する声聞、独覚と区別される。しかし、一般にわれわれが「菩薩」というときには、それは「菩薩大士」の略称であって、大乗の修行者のことを意味するのである。(p405)
大乗仏教の修行者という意味に固定した段階では、菩薩、つまり、菩薩大士ということばは、小乗仏教の修行者である声聞、独覚に対するものとなった。声聞は仏弟子を意味するが、それはゴータマ・ブッダの死後、しだいに僧院のなかで集団生活をし、お互いに助け合いながら学問と瞑想に励む出家の比丘たちの呼び名となった。独覚は僧院のなかにいることもあるが、多くの場合山野を遍行しながら、ものの依存性(縁起)を瞑想し、ひとりでさとり、他人にそのさとりの内容を伝えることなく死んでゆく。声聞も独覚も禁欲生活をまもり、家庭や世間の義務から解放されていて、その意味では自利のみを追求する非社会的存在といえる。これに対し、菩薩は多くの場合家庭をもち、地域社会の敬愛の的である人物で、街頭において教えを説く教育者でもある。出家であるときも、菩薩はつねに一般大衆とともに歩み、大衆を代表するものである。その意味で、菩薩には利他という性格が強調される。
原始仏教の修行者、小乗の声聞、独覚たちにとっての修道徳目の中心をなすものは八正道であった。八正道の各項を貫くものは極端な快楽と極端な禁欲との二つを避ける冷静さ、合理性、中庸の精神であったといえる。これに対して、大乗の菩薩の修道徳目としては六種のパーラミター(六波羅蜜)が説かれる。(p406-407)
パーラミターは「完成」であるとともに、その完成に到達するための導きとなる教え、経典、および修行の道をも意味するから、六種のパーラミターとは「六種の完成への道」でもある。具体的には施与(布施)、道徳(持戒)、忍耐(忍辱)、努力(精進)、瞑想(禅定)、知恵(智慧)の六つである。(p408)
大乗の菩薩の修行徳目としての六種の完成への道は、さきに触れた八正道の、中庸と冷静さを旨とした修道とかけ離れて、虫一匹を救うために自分の身命をもささげるというような極端な自己犠牲と、道のためにはいかなる難行をも厭わない不撓不屈の努力を、その精神としている。

「般若経」詳しくは「般若波羅蜜多経」とは、「知恵の完成の経典」という意味である。したがって、「般若経」のなかには六種の完成に精進する菩薩のすがたが描かれるけれども、同時に、六種のうちの第六、「知恵の完成」が最も重要なものとして強調される。(p409)

「アーナンダよ、私はただ知恵の完成だけについて、それを称賛し、その名前を宣べるが、それ以外の完成(波羅蜜)についてはそうしない。それはなぜかというと、アーナンダよ、知恵の完成は(他の)五つの完成に先だつものだからである。アーナンダよ、お前はどう思うか。もし施与(の功徳)が全知者性(の獲得のため)にふりむけ(迴向)られるような仕方でなされないならば、それは施与の完成という名前を得るであろうか」と。同じことが、道徳、忍耐、努力、瞑想についてもくりかえされ、多くの善根を全知者性のほうへふりむけるという仕方で発展させるものが知恵の完成であるといわれる。(p411)

善因が楽果を、悪因が苦果をもたらすという業報の観念は、仏教だけでなく、インド世界の倫理を支配した原理であった。しかし、業報は倫理の領域を支配するだけであって、それ自体が人を輪廻の世界から解脱し、宗教的真理を獲得させるものとはならない。後者のためには倫理を超えた知恵、さとりが必要であるからである。けれども、「般若経」は迴向の思想によって、倫理を宗教と結びつけた。施与や道徳などの善根、つまり幸福の原因となる行為は、それ自体ではたんにその行為者に来来において幸福をもたらすだけである。しかし、知恵の完成は善根という倫理的行為を、無上にして完全なさとり、すなわち全知者性にいたるための原因に転換させ、ふりむけることができる。

そのような、善根をさとりの原因に転換させる迴向ということは、空の思想によって成り立つものであった。(p412-413)

ものは原因と条件という他の諸存在に依存して生じ、存続し、滅する。その意味で、ものは自立的、恒常的な本体をもたず、本体としては存在せず、空である。施与や道徳という倫理的価値がさとりという宗教的価値に転換しうる原理も、この空の思想のなかにあるのである。
ここまでくれば、さとりの世界と迷いの世界とが菩薩大士にとって区別されず、不二のものであるという考え方はたちにとって可能になる。それらの二つもそれぞれ固有の本体をもつわけではないからである。(p414)

こうして、菩薩大士はあらゆる有情を救おうと決意するが、同時に彼は、すべてのものが空であることを忘れない。
「スブーティよ、この世間で菩薩大士はこう考える。『私は無量の有情を涅槃に導かねばならない。けれども涅槃に導かれるべき人々も、導くものも実は存在しないのだ』と。」
こうして、あらゆるものは夢のごとく、この世界は幻のようである、という自覚が菩薩大士には生ずる。それは、社会的活動に努力するという積極的なあり方が、同時に、絶対の静寂と区別されず不二である、という空の知恵にほかならないのである。(p415-416)

「大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ 」梶山雄一著/中公文庫

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青樹謙慈(アオキケンヂ)
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