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般若心経02/大乗仏教【仏教の基礎知識16】


霊性を否定したる宗教はありえない

バランスシート(賃借対照表)は資産と負債及び資本との対照表である。
資産=負債+資本
例えば資産100億円、負債60億円、資本40億円の場合、自己資本比率40%(40億/100億円)と計算する。
私はこの等式を次のように置き替えてみている。
才能(または富、または権力)=不徳+徳
才能100=不徳60+徳40
才能の高さは、源泉の不徳、徳に依存する。源泉の不徳または徳が大きければ大きい程、才能は高まる。だから、才能、富、権力に恵まれた人は、その恵の度合いが大きければ大きいほど、それを生んだ源泉が不徳、徳のいずれなのか、正味財産の割合について、よくよく考えるべきであろう。「才能100=不徳60+徳40」の人は正味財産0である。そんな人より「才能1=徳1」の人の方が正味財産1だから豊かなのだ。(p14)
なぜか学者や僧侶を含む仏教関係者には霊や霊性を否定する人が多い。霊を否定することは魂の否定でもある。一般的に言って霊とか霊性を否定して宗教は成り立つだろうか?霊性なき宗教は倫理・道徳とどんな違いがあるのだろうか?
そもそも仏教は仏教成立以前からインドで広く信じられていた輪廻転生をいかに克服するかという悩みの中から誕生したものである。王侯貴族に生まれても、どんな富豪に生まれても、生老病死の苦しみから免れないと信じられていたからであり、転生を繰り返す魂、魂の存在を知らしめる霊なき仏教などあり得ないと私は思うのだ。
お釈迦さまが否定されたのは未来永劫変わらず実在する実体としての霊(アートマン=我)であって、その人の転生の中での現象としての霊の存在を否定したものではないと考えるべきである。(p15)

「般若心経の空とはなにか」武田紀久雄(著)

カルマに法則はない

そもそもお釈迦さまはバラモン思想の我、アートマンの常住論に対して、無我を説かれた。真実に存在するものは、ブラフマン(宇宙の本体、梵)やアートマン(我)という形而上学的実体観念でなく、私達が現に経験しうる無常なる五蘊のみであるとされた。
一切は無常だから苦である。無常であり苦である存在の他に、いかなる常住なるものはない。苦悩の生死と異なった世界に絶対者を仮定する愚はやめなければならない。
このように、私達の苦悩は神の意志によるものでもなく、全くの偶然に起こっているものでもない。自己の無知と執着(渇愛)に基づく行い(業)を原因としている。そしてそれらの因果関係は永久に固定し変化を許さないものでもなく、私達自身の智慧と修行によって止滅せしめられると説かれた。(p58-60)

「般若心経の空とはなにか」武田紀久雄(著)

神の定義が明確でないと明確に伝えることができない。例えば、天界を統べる存在や、この世界で言うところの大統領や権力持つような高位の神々、絶対者がいる。これらの存在があるからこそ、カルマ(業)の概念が成立するのであって彼らなしではカルマの法則は成り立たない。
カルマ自体は単なる記録であり、それ自体では因果は働かない。裁く者がいるからこそ、カルマが作用する。ちょうど裁判所がなければ法が無意味になるのと同じだ。カルマは、過去世での行為が記録されており、その記録に基づいて次の転生でどのような境遇や体験をするかが決まる。そして、その転生を送り込む存在がいる。それがここで言う神々や絶対者だ。
裁判や法の執行を専門とする神々がいる。彼らなしでは、カルマや因果の法則は成立しない。神々が不正を働けば、過去の悪行が帳消しになり、次の転生も起こらないかもしれない。そうなれば、カルマは無意味なものとなる。神々が賄賂を受け取れば、カルマは返されない。
だから、霊的な存在を仮定しないとカルマの法則は成り立たない。カルマの法則が自動的に宇宙で働くと考えるのは誤り。(竹下雅敏説)

正当な因果応報の原理もない

例えば、過去の日本の天皇は、歴史を振り返ると、極悪非道な行為をしていたことがある。人を殺したり、陰謀を企てたり、天皇の座を巡る争いで無実の者を陥れたりして、自らが天皇となった者もいる。一般的な常識では、こういった行為をした者はカルマにより地獄に行くと思うだろう。
例えば、雄略天皇は兄弟を殺し、武烈天皇は非常に残虐な行為をしたと記録されている。これらの行為から、彼らが地獄に行くのは当然だと思うのが普通だ。しかし、日本の天皇で地獄に行った者はいない。なぜなら、天皇は法を超越した存在であり、この世でどれだけの人を殺そうが、どれだけ残虐なことをしようが罪に問われないのだ。
この法を決めたのはホツマの神であり、天皇や位の高い者がどれだけ悪いことをしても罪に問われないようにしている。この法は現世の法ではなく、霊的な法である。因果応報の世界においても、天皇や高位の者は特別な存在として扱われ、罪を問われることはない。記録は残っているが、誰も罪に問うことができないのだ。(竹下雅敏説)

主体が固定的な同一性を維持するならば、輪廻も、解脱も、人間の成長も成立し得ないとして、縁によって変化する我(ないし識)においてのみ、輪廻と解脱が可能となると認められたのである。お釈迦さまの説かれる縁起の法(道理)とはそういうものであった。
縁起の法は一切の実在を否定し、存在は相互依存の関係で生成消滅をくり返すに過ぎないことを明らかにする理法である。
一切に永久不変の実体がないから全てが無常であり、無常であるから人の一切の営みが苦の原因となる。人はこの原理に無知だから次の転生の原因と条件を集めて苦の輪廻をくり返す。苦の輪廻を滅するには自らの力でその原因と条件を滅する以外に道がないが、それが智慧の完成を得る瞑想法である。(p36)
お釈迦さまが入滅されて百年後、主として教団の規則(律)の解釈の違いで対立が起こり、上座部と大衆部が分裂した。これを根本分裂という。上座部系の代表的な部派は「説一切有部」「スリランカ上座部」「経量部」などである。スリランカ上座部はスリランカからビルマ、タイ、カンボジア、ラオスへ伝播し南伝仏教といわれる。脱一切有部はお釈迦さまの真意を誤って理解して「涅槃は実在する」ものとし、個人的生存と環境を究極の要素に分解(五位七十五法)、これが三世にわたって実在する(三世実有・法体恒有)とした。また、十二支縁起を胎生学的に解釈し、三世両重の因果説という実在説を構築した。さらに、修行者の階位についても四向四果の最上位の阿羅漢もお釈迦さまのような無上の完全なる解説はとうてい得ないとの教説をうち立てたのである。(p59)
脱一切有部は、お釈迦さまは煩悩を絶滅して涅槃に至る道を説いたのだから、「有為=有漏」のほか「無為=無漏」の世界を認めたのだ、と考えた。
五蘊=有為=有漏=無常=苦
涅槃=無為=無漏=恒常=苦の解脱
このような論理で、脱一切有部はアビダルマ(論蔵)において無常であり苦である有為の世界のほかに、涅槃という恒常で苦を解脱した世界も認識の対象につけ加えたのである。そして脱一切有部が実在論の中で「無我」を説くのは、後述の実在する七十五種の要素は森羅万象を構成する要素にすぎず、存在そのものではないから、実在論と無我は矛盾しないとした。こうして、部派仏教の中で無為の世界のほかに有為の世界が意識され始め、無常と恒常の二種類の世界に共通する本質、存在そのものへの目が開かれた。(p47)
実体は七十五に分けられ、七十五の存在要素がそれぞれ一つの実体と呼ばれた。これらはそれ自身の本質があり、他のものと共通しないそれ自身の固有の特徴と作用をもっているとした。三世実有・法体恒有とは、法(存在)の本体(七十五種の要素)は過去、現在、未来の三世にわたって実在するという意味で、説一切有部の主要な教義になった説である。これらの法の本体は恒常的な本質(自性)を保ちながら、いまだ生起あるいは作用を終えてない状態が未来、現に生起あるいは作用しつつある状態が現在、生起あるいは作用が終えた状態を過去とし、自己同一を保ったまま実在するとした。(p49)
龍樹は説一切有部の実在説を批判して対決した。仏教をお釈迦さまの真意に回帰させるべく、直感と比喩で語られた般若経の空の思想に論理を与え、説一切有部の実在論を徹底して否定するために、「実体」を次の三つの要素をかかげて定義した。
自立的である・恒常不変である・単一である
実体は他に依存することはあり得ず、他に依存して生じたり滅したりしないから自立的である。実体は変化することがなく永続する。ただ永続するだけでなく、永続すると同時に絶対に変化することがない。一つのものに本質が二つあることはない。本質が複合体だということはあり得ないから単一である。事実の世界に存在しているものは自立的でなく縁起したもの(相互依存関係で生起する)であり、恒常不変でなく変化するものであり、単一ではなく複合的なものである。従って事実の世界では実体のあるものは一切存在しない。空とは「実体がない」ということで、何もかも存在しない(虚無論)ということではなく、「すべてのものには実体がない」ということである。(p59-60)

「般若心経の空とはなにか」武田紀久雄(著)

ブッダが言った「一切」というのは、宇宙森羅万象すべてのことではなく、「五蘊」のことを指している。五蘊は相互依存の関係であり、生成と消滅を繰り返す無常のものである。ブッダは、五蘊を観察すれば無常とわかる。この無常である五蘊は、永久不変のアートマンではありえない。と言ったのだ。また般若の智慧の瞑想をやっても解脱には至らない。

自立的・恒常不変・単一:龍樹の実体の定義

自然は自立的である。確かに自然はそれ自体で存在するが、常に変化しているため、恒常不変ではないし、単一でもない。また、分けることもできない。これが自然の本質と言える。サーンキヤ哲学でも、自性から宇宙が展開してくるとされている。宇宙は現れ、複雑に展開していく。つまり、自性と宇宙は切り離すことができない。我々が見ている自然や宇宙は自立的であり、無常であり、常に変化し、複合的である。単一でありながら複合的でもある。これを実体の定義に用いるべきではないのか。
この観点から見ると、ナーガールジュナの定義が間違っていると感じる。彼の彼の間違った定義に基づいて「あらゆるものに実体がない」と言うなら、それは当たり前のことだ、当たり前すぎて意味がない。そうした論法は無意味。自性をこのように定義すると、全てのものに実体がないことになる。
しかし、別の定義をした場合、例えば物理学者のように電子やクォークといった実体を定義すると、全てのものに実体がないというのは納得しがたい。電子やクォークでできていると考えるのは間違いではないが、それを実体とみなすかどうかで議論は永遠に平行線をたどることになる。
ナーガールジュナの論法:「縁起」=「無自性」=「空」という定義が根本的に誤っている。「縁起」とは、物事が他のものに依存して存在することを意味し、それ自体が自立して存在しないことを示している。この意味では、「縁起」は「非自性」と言えるが、「無自性」とまでは言えない。
たとえば、コップがクオークや電子で構成されているとする。もしクオークや電子に実体があるとすれば、そのコップにも実体があることになる。この場合、コップは「無自性」とは言えない。しかし、コップが壊れることを考慮すれば、自性を持たない「非自性」と言える。
ナーガールジュナは、もし物事に自性があれば変化しないはずだと主張する。しかし、これは自性の定義を過度に拡大している。説一切有部でも、物事は要素の集合体であり変化するとしているため、この論理は破綻している。つまり、「縁起」は「非自性」を示すにとどまり、「無自性」や「空」まで結びつけるのは論理的に無理がある。(竹下雅敏説)

般若心経全訳

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
観自在菩薩
サンスクリット語の「アバローキテーシュバラ」の音写で、「観察することに自在な」の語義から「一切諦法(この場合の法は真理を意味する)を観察することが無礙自在であるように、一切の衆生を観察して自在によく救う」を意味するとされる。
五蘊:最初のうちは色は人間の肉体を、受想行識は人間の心のはたらきを四つの段階に分けたものであった。これが部派仏教哲学(論)が深まってくると、色は肉体だけでなく物質一般を意味するようになり、これに受想行識を含わせて、森羅万象を含む全てという意味になった。(p77-80)
空:空とは、一切は相互依存の関係の中で生成消滅を繰り返すという考え方で、現象としての存在を認めるという点で虚無論と異なる。
【訳】観自在菩薩は、智慧の完成に到る瞑想を深く行じていた時、人間の肉体を含む一切の物質的な存在も、人間の心的はたらきも全て相互依存の関係で生成消滅を繰り返すだけで、常住不変の実体はないのだ、という真理の様相をありありと見て、一切の苦しみと厄から解放されて救われた。
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

舎利子:舎利子はシャーリプトラの音写で、お釈迦さまの智慧第一の弟子として知られる、十大弟子の一人である。舎利子は般若心経が成立するころ、説一切有部が説く実在説の論者とされ論書に登場してくるのである。そこで、ここでは実在論を説く智慧第一の舎利子に空を説くという形で、説一切有部の実在説を強く否定している。(p80-82)
【訳】舎利子よ
物質的存在は、相互依存関係での存在と異ならない。
相互依存関係での存在は、物質的存在と異ならない。
物質的存在は、すなわち相互依存関係での存在である。
相互依存関係での存在は、すなわち物質的存在である。
受想行識もまた空との関係は色と同じ相互依存関係での存在にある。
舎利子よ、説一切有部が実在すると説く七十五種の要素から構成される森羅万象は、相互依存関係の中で生成消滅するといいう性質を持つものだから、実在する要素から生ずるものではなく、逆に虚無の中へ滅するものでもない。よごれているものでもなく、きよらかなものでもない。七十五種の実在する要素を原因としで増えたわけでなく、滅じたわけでもない。
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至 無老死亦無老死尽 無苦集滅道
空は実在論と虚無論を否定して、流転してやまない無常の原因としての相互依存関係を意味している。だからこのフレーズで無、無、無〜とあるのは、有の哲学としての実在論を否定するのが趣旨で、無の哲学としての虚無論を説いているものではないのである。ここでは実在論を構成するものとしての三科、五蘊、十二処、十八界を否定している。十二支縁起は、現実の人生の苦悩の根元を追及し、その根元を断つことによって苦悩を滅するための十二の条件を、時間的に縁起と因果の関係で系列化したものである。
しかし脱一切有部は十二の支分を過去世の因、現在世の果、現在世の因、未来世の果と三世に配分して、十二の支分は三世と二重の因果関係になっているとする「三世両重の因果説」という十二支縁起の実在説を説いた。
十二支縁起の否定は脱一切有部が説く三世両重の因果説の否定である。般若波羅蜜多の行により無明を滅しない限り、十二のそれぞれの支分は永久に尽きることがない、という意味で表現されていると私は考える。
脱一切有部は存在の要素を七十五種に分け、かつこの要素は森羅万象の背後にある要素にすぎないから、無我の理法に抵触しないとした。こうした脱一切有部の論理によれば、苦は常住不変で、苦の滅はあり得ないことになる。
四聖諦の否定は、実在を脱く脱一切有部の苦の否定であって、お釈迦さまが説かれる苦の否定ではないのである。
【訳】是れ故に、空の中では、色もなく受想行識もない。眼耳鼻舌身意という六根もなく、色声香味触法という六根の対象としての六境もない。六識という六根と六根によって起こる認識作用もない。
脱一切有部が説く十二支縁起は存在しない。しかし、無明から老死までの十二の支分そのものは迷い世界では尽きることがない。
脱一切有部の実在の論理のもとでは、四聖諦は成り立たない。(p82-86)
無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
総括する形で説一切有部の実在論を否定する。否定した上で、説一切有部の実在論に最後のとどめをさすような強烈な表現で批判して、般若波羅蜜多の意義を述べている。
【訳】(このように説一切有部の実在論の体系を構成する)智は智慧としてのはたらきはなく、涅槃を得るという道筋もない。一切皆空という智慧も涅槃も受け入れる依りどころがないからである。
(だから)修行者は智慧の完成に到る瞑想の行に依るので心にこだわりがない。心にこだわりがないから、いつ果てるともない苦悩の輪廻に対する恐れをもつことから開放され、すべての要素は実在するという、真実からまるで顛倒した論理と、その論理にもとづく夢想のような教えから遠く離れて、究極の涅槃にたどりつくのである。(p86-88)
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
阿耨多羅三藐三菩提は「アノクタラ、サンミャク、サンボダイ」と読むがこれはサンスクリット語のアヌッタラ(この上ない)、サンヤック(正しい)、サンボーディ(完全な悟り)の音写である。漢訳では無上正等覚で前述の究竟涅槃と同じ意味である。
【訳】 かの三世に遍在する幾多の諸仏も、智慧の完成に到る賢想の行により、無上にして完全な悟りを得た。(p88-90)
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多呪 即説呪日 掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提薩婆訶 般若心経

この四種の形容詞句は、呪の神秘的な功徳をこれ以上ないほどに強調するために並列させたものと考えられる。
【訳】 故に般若波羅蜜多の呪の価値を知る。それは大神呪であり、それは大明呪であり、それは無上呪であり、それは無等等呪である。能く一切の苦を取り除き、真実にして虚しいものではない。故に般若波羅蜜多の呪を説く。すなわち呪を説いていわく、 ギャテー、ギャテー、ハラギャテー、ハラソーギャテー、ボージソワカ、般若心経(p90-92)

「般若心経の空とはなにか」武田紀久雄(著)

参考文献


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