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般若心経01/大乗仏教【仏教の基礎知識15】


苦の根源(無明)

私たちは、この世界の外側の価値や地位を追い求め、それによって幸せになれると考えている。しかし、この外的な価値を追求している限り、どれだけ上に行こうが下に行こうが、一度その場所に身を置いたら、内情は同じだ。誰もが自分の置かれた状況の中で、苦しみと戦っているのだ。
そして、とにかく「上」へ上がり、それらの目標に到達さえすれば、幸せになれるのではないかという期待を捨てきれずに、私たちは自分の今までの生き方を続けている。しかし、その期待は常に裏切られるのだ。
ブッダは、私たちのこうした状態を「無明」(無意識の思い込み=無知=無自覚)と呼んだ。そして、それを「苦」の根源にあるものと見なした。


我々は、この世の外的な事柄、つまりお金や地位、名声などを追い求めることで幸福になれると思っている。しかし、このような外的な価値を追い求める限り、それが上であろうと下であろうと、一度その場所に到達すれば、内情は同じだ。誰もが自分の置かれた状況の中で苦しみと格闘している。
そして、何とかして上へ上って行き、それらの目標に到達すれば幸福になれるのではないかという期待を捨てきれずに、私たちは駆り立てられるように生き続けている。しかし、常にその期待は裏切られる。
ブッダは、このような私たちの状態を「無明」(無意識の思い込み=無知=無自覚)と呼んだ。そして、それが「苦」の根源にあるものと考えた。

般若の智慧

我々は完全に条件づけられた存在であり、自分でコントロールできない力が常に働いている。それらの力に振り回されながら生きている
この状態を仏教では「空」と表現している。これは、自分だけの力で動いている独立した存在ではなく、他の力の影響を受けないものではないという意味だ。
仏教を深く掘り下げていくと、この「空」という一言に集約される。しかし、この「空」という言葉の意味を頭で理解したり覚えたりしても、それだけでは生き方に変化は起きない。深く理解すると、生き方がどうしても変わってくる。それが「空」なのだ。


般若心経でも「空」という言葉は「苦」という言葉と一緒に出てくる。観自在菩薩が、般若の知恵を深く実践し、この世のすべてのものが「空」であると悟ったとき、そのおかげであらゆる苦しみから解放された。
般若の知恵とは、もっとも簡単に言えば「自分自身に気付く」働きのことを指す。この知恵がなぜ重要かというと、この知恵だけが「自分とは何者か」という問いに対する答えをもたらしてくれるからである。


自分が不当に扱われたと感じるとき、瞬時に怒りが湧き上がる。この感情は無意識に始まり、怒りを感じている最中は自分が怒りそのものになっているように思える。「気付く」や「知る」という行為は、その対象と一体化しているときには難しい。知るためには、怒りから一歩距離を置く必要がある。
自分の感情は「自分の中」で生まれ「自分のもの」と感じがちだが、実際には感情は外の世界や外部の出来事、つまり「自分ではないもの」との関係で生まれる。「自分の感情」は「自分ではないもの」に触れなければ生まれないのだ。


ここでのポイントは、我々を条件付けるもの、つまり引き金となるものが、必ずしも現在の外界に存在するものや出来事である必要はないという点だ。実際、我々は外界のものを見たとき、それを単なる情報として受け取っている。視覚的なイメージに反応しているだけで、物理的な力に反応しているわけではないのだ。
たとえば、色から得られる視覚的イメージという情報は、情報である限り、それが外界にある実物から来たものであろうと、記憶のイメージとして内界から来たものであろうと、我々を条件付ける力、つまり身体に変化をもたらす引き金としての力に違いはない。
つまり、我々が反応しているのは[本当に実在するもの]ではなく、[色と形]を初めとする[情報]に過ぎない。しかし、我々にはどうしてもそうとは思えず、自分が[本当に実在しているもの]に対して反応していると思い込んでしまう。実際には、自分の身体に現実の反応が起こるという事実そのものが、その対象の[現実性]を形作っているにすぎないのだ。

今まで述べてきたことはすべて、[色即是空]と[空即是色]の説明である。


人は心配しているとき、その原因が外界にあると感じる。だから、不快感を覚えると、自動的に外の状況や他人の行為が原因だと判断する。言い換えれば、身体がそう決めつけてしまう。そして、その原因を作ったとみなされる他人に怒りを覚える。したがって、自分の心が乱されずに幸せに生きるためには、この世から嫌なやつが消えるしかないと思うのだ。逆に、喜びの原因も外界にあると無意識に思い込んでいる。
事実として、私たちの感情を揺り動かしているのは、外界の物や出来事そのものではない。むしろ、それら外界の情報に対して反応する私たち自身の[自我](心と体の複合体)が原因。このことに気づかせてくれるのが[般若の知恵]。
さらに、[外界にある]という表現自体、繰り返し述べているように、[私たちにとってある]だけであり、客観的に、つまり誰にとっても同じ反応を引き起こすものとして[ある]わけではない。外界で起こることは、私たちの感情や行動の引き金にはなるが、それ以上の意味を持つわけではない。


怒り、悲しみ、喜びといった感情はすべて[自我]から生まれる。[自我]が変われば、外界への反応も変わる。つまり、我々の反応が変わることで、[外界]そのものが変わるのだ。なぜなら、[自我]と[外界]は互いに影響し合っているからだ。
この関係性には[救い]の可能性がある。もし外界を自分の思い通りにすることでしか[自我]が幸福になれないとしたら、我々は永遠に幸福を感じることができない。しかし、外界を変えずとも、自分の感情を変えることは可能である。

幸福の条件

我々の心に怒りが生まれるのはなぜか? それは他者の行動や言葉が我々を傷付けたと思うからだ。これは意識的に思うのではなく、無意識に感じるものだ。
我々は自分では自分を大切にしているつもりだからこそ、他者が自分を受け入れてくれないときに傷付くと感じる。しかし、これは自分で自分のやっていることがわかっていない典型的な「無明」の状態。そういう考えでいる限り、心の平安は訪れない。よく思われよう、愛されよう、賞賛を得ようとすることから、外界への執着が生まれる。そして、それが得られないときには怒りが生まれる。
執着と怒りは裏と表の関係にある感情だ。執着しているものを手に入れられないときや、失ったときに怒りが生まれるのだ。

愛と執着

執着の特徴は、自分でそれを止めることができないことにある。誰かを愛すること自体は執着ではないが、相手にも自分を好きになってもらいたいという自己中心的な要求が執着なのだ。さらに、そのような要求をしていることに気付かないことが多く、無意識のうちにその要求をやめることができない。
こういった場合、実際には相手のことをあまり考えておらず、相手と一緒にいることで自分が感じる喜びに執着して、それを失いたくないだけだということが多い。
自由な行為と執着は正反対のものである。本当に自由な行為であれば、いつでもそれを止めることができる。しかし、執着しているときほど、自分で自分をコントロールできないことはない。

正念

[正念]とは、日常生活で自分がしていることすべてに意識を向ける練習のこと。これにより、自分の行動が自動的で機械的、つまり条件反射的になっていることに気づく
比丘(仏教の修行者)は、歩くときも帰るときも意識してそれを行い、前を見るときも後ろを振り返るときも意識してそれを行い、両腕を縮めるときも伸ばすときも意識してそれを行う。食べるとき、飲むとき、噛むとき、味わうときも意識してそれを行い、トイレをするときも意識してそれを行う。歩くとき、立つとき、座るとき、眠るとき、目覚めるとき、話すとき、黙っているときも意識してそれを行う。
つまり、生きていることのすべてに意識を向ける訓練をするわけだ。これくらい徹底的にやって初めて、自分がどれだけ無意識に過ごしていたかがわかる。普段の行動は、ほとんどが外からの情報に対する自動的な反応であることが、この訓練を通じて明らかになる。
この訓練をそのままやるのは修行者でないと難しいが、自分の生き方を変えたいと思っている人には、これに近いことをやるのが絶対に必要だ。自分の行動や感情がどれほど自動的であるかに、その場で気付くこと以外に、「自分」を知る方法はないからだ。

条件付の解除

何か嫌なことがあって、身体が自動的に怒りの反応をしてしまっても、その怒りを冷静に見つめることができれば、怒りが精神にまで影響を与えることはなくなる。これにより、怒りや執着といった無意識の行為から徐々に距離を置くことができるようになる。
このような人について、[彼がもし楽を感じるなら、束縛を離れた人としてそれを感じる。もし苦を感じるなら、束縛を離れた人としてそれを感じる]と書かれている。「束縛を離れた」とは、身体と精神が特定の条件に縛られなくなった、という意味になる。
ちょっとしたことでさえ怒りを抑えるのは難しいものだ。それが会社の人間関係や家庭内のトラブルとなれば、私たちは気づかぬうちに煩悩に支配された行動を繰り返してしまう。

八正道の中でも「正念」と並んで重要なのが「正定」、すなわち瞑想だ。瞑想の目的は、普段の生活で外界に条件付けられ自動的に反応してしまう私たちの行動を、その条件付けから解放することにある。条件付けは過去に形成されたものだから、それを解体することで「今、ここ」に生きる訓練をするのだと言える。

自分を愛する

一度、自分の条件付けに気付き、その解体に取り組み始めると、人はまるで別の種族になったかのように、多様な能力を発揮できるようになる。重要なのは、現在の自分をありのままに受け入れることができるかどうかだ。今の自分を受け入れることで、外界に依存することがなくなり、自然に条件付けも解消されていく。
これまでの人生で、私たちは外界の価値に頼りすぎてきた。様々な競争に負けた経験が傷となり、多くのやりたいことを実現できなかった無力感が残る。そうした傷が深いほど、心の癒しを求めてまた外界の競争に身を投じるという悪循環に陥ってしまう。その結果、[出世した自分]や[愛された自分]ならば受け入れられると考えてしまうのだ。

我々は自分自身にも多くの要求をし、執着し、怒りを抱えている。「こうであったらよかったのに」という理想によって自分を裁き、その理想からほど遠い自分を許せないのだ。これはつまり、自分に対して[執着]しているが、[愛]してはいないということだ。
ここで多くの人が勘違いをしている。自分を可愛いと思わない人はいないが、それは自分が喜びの対象である限りの話だ。だからこそ、[競争に負けた自分]は[怒り]の対象になってしまうのだ。我々はそのようなとき、自分の中に[裏切り者]を抱えているような気持ちになる。期待に応えられなかった自分を許せず、自殺に至る人さえいる。

我々は自分に執着しているだけで、本当の意味で自分を愛していない。このことに気づかなければ、いつまでも幸福にはなれないだろう。もし自分が自分を愛さなければ、誰が愛してくれるというのか?
「態度」というものは一貫している。自分を可愛いと思いながら、他人をどうでもいいと感じることは、人間にはできない。自分に対する態度と他人に対する態度は表裏一体だ。自分を許し(自分への過度な要求を捨てる)という行為は、奇跡的な効果をもたらす。その瞬間、初めて人は自由になれる。なぜなら、その時点で他人への過剰な要求も捨てられるからだ。自分に都合のいいことを期待せずに他人と接することができれば、我々は他人から傷つけられることもなくなる。

執着とは、自分の欲求に固執することだ。なぜそうするのかというと、その欲求が満たされれば自分が幸福になると信じているからだ。しかし実際には、その欲求に固執することが、かえって幸福を遠ざけている。欲求を手放せば、幸福は自然と訪れるのだ。
私たちは、幸福になるために何かが足りないと感じ、それを求め、それが手に入れば幸福になれると考えて生きてきた。しかし実際は、その「求める」行為そのものが不幸を招いているのだ。今この瞬間、私たちは何一つ欠けていない。幸福になるために必要なものはすべて既に持っている。何も追加する必要はない。

合理性の限界

人は生まれて成長するに伴い、いわゆる自我の確立へと向かっていく。これはべつに、近代的な自我がデカルトによって唱えられたからではない。ずっと昔から、人はなぜか「個」として自立することを、社会に生きる人間の目標に据えてきた。できあがった「個」が連携して世界を構成すると信じ込んできたのである。
もちろんデカルト以後、それは主に西欧人の常識にもなり、今や「個」の自立や、そこから合理的に世界を解釈することは、すべての現代人の常識になりつつある。世界は合理的に解釈されるべきものであり、非合理は「迷信」と呼ばれ、それはいずれ「科学」の進歩によって克服されるべき恥部のように考えられている。(p10-11)
まるで人間の理知が、以前の神の如くに信じられているのである。 しかし人間の合理性が推し進めた科学は、はたして世界の謎を減らし、人を「しあわせ」へと導いているだろうか。こんなはずではなかったのに、というのが、現代の人々の実感ではないだろうか。
この経典は、すべてが理知によって解釈されるはずだという科学主義に対し、「いのち」や「しあわせ」というリアリティーはそうではないのだと、いわば真っ向から挑戦状を突きつけている。(p18)

「現代語訳 般若心経」玄侑宗久/ちくま新書

色不異空 空不異色

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
じつは私は、その般若波羅蜜多のための実践をしてるときに、五蘊は皆「空」なんだって、わかっちゃったんですよ。
舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
シャーリプトラさん、あらゆる物質に自性はなく、単独で固定的に実在するものではない、ということです。(p26)
ここで「色」というのは、六境と六根が出逢い、感覚器と脳とで把握した現象のことです。考えてみれば私たちは、光がその物体に反射し、それによって網膜に届いた情報を化学情報から電気情報に変換することで脳内に画像を立ち上げています。
当然、犬やハチや鳩は感覚器がまったく違うわけですから、たとえば花瓶はまったく別な姿を見せるはずです。犬は人間より赤外線を感じるようですし、またハチとか鳩は紫外線を感受するそうですから、画像はちょっと見当もつきません。しかも人間の場合、花瓶の用途やその他の常識的知識、またそれ自体から立ち上がる具体的な思い出なども持っているために、その視覚情報は意味のある表象になります。使用法も知らず、匂いもしない花瓶を、犬や鳩などは感受したとしても知覚するかどうか疑問です。もしかすると表象化されないのではないでしょうか。(p45-47)
ハチだって興味があるのは花瓶に挿された花だけでしょうから、花瓶など意識にさえのぼらないかもしれません。しかしそれと同時に、私は「空は色に異ならず」と申し上げたいのですが、これは納得していただけるでしょうか。要するに、あらゆる現象には自性がないために、すべては感受する感覚器やその場の時空間に限定され、常に特定の「色」として現れるしかないということです。だから「色」を実体視することは問題ですが、同時に虚無的に見ることもない、ということなのです。「色」は常に実相そのものではありませんが、とにかく実相はいつも「縁起」して特定の「色」として顕現するわけです。
舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不淨 不増不減
諸法すなわちあらゆる現象は、本当は生まれもしなければ滅することもない。汚れるということもありませんし、浄らかになることもありません。また増えたとか減ったというのも、錯覚というしかありません。これらは全て、脳と感覚機能の連合による、勝手な判断なのです。(p61-62)
ほかに美醜とか善悪、尊卑などもむろん概念。実相とは関係ない大脳皮質のでっちあげです。ときに勝手に作り上げた「美」とか「善」という概念で、苦しさも生み出しています。しかし「美」や「善」そのものがでっちあげなのですから、それこそ本当は実体のない「空」です。(p70-71)

「現代語訳 般若心経」玄侑宗久/ちくま新書

五蘊・十二処・十八界・十二縁起の否定

般若心経は、説一切有部や小乗仏教で実体として見られていた五蘊、十二処、十八界、さらに十二縁起も否定する。
五蘊:色・受・想・行・識
六根:眼・耳・鼻・舌・身・意
六境:色・声・香・味・触・法
六識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処=六根+六境
十八界=六根+六境+六識

是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
そのように理解すれば、「是故空中無色、無受想行識、是の故に空の中には色も無く、受・想・行・識も無い」となります。ただ誤解しないようお願いしたいのは、色も無く、受想行識も無い、と云ってますが、これは「空」という実相から見れば、五蘊はすべて自性として存在しているのではない、つまり「無自性」だということです。
まず五蘊が「空」だというのは充分わかっていただいたと思いますが、次に申し上げたいのは、眼耳鼻舌身意という六根にも自性はない、またそれらが受け止める六境つまり色声香味触法にも実体はない、ということです。(p79-81)
無無明 赤無無明尽 乃至無老死 赤無老死尽
まずこの十二因縁の問題点を検討してみましょう。因果律というのはあくまでも自然を解釈しようという方法であって、自然現象が起こる原理ではありません。イギリス経験論の流れに属する18世紀の思想家デヴィッド・ヒュームは、因果律がけっして現象を生起させる原理なのではなく、私たちがそれを解釈するうえでの強固な思考習慣にすぎないと明言しました。そして形而上学的偏見の一つとしてそれを排除し、あらためて自然や人生を観察することを主張しました。(p113-114)
だからこそ私は、「無明」から始まって「老死」へと至る十二の項目など、「無い」と申し上げたいのです。
なにより重要なのは、「般若波羅蜜多」が実践されているときには、因果を条件づける時間そのものが存在しないということです。
ちょっと難しいかもしれませんが、時間も空間も、じつは意識が概念へと移行する過程で生みだしているものなのです。
つまり本来は時間差のあったような事柄でさえ、統一的な実感のもとにひとつながりの全体として感じられるということです。もちろん、その観点に立てば、これらが「尽きる」ということもありません。(p120-122)

「現代語訳 般若心経」玄侑宗久/ちくま新書

名づけの問題

次に「名づけ」の問題です。たとえば「花」という言葉は、そう呼ばれた途端に「花」以外のものとの関係性が絶たれます。まるで茎や葉がなくとも「花」は存在すると感じられるような、奇妙な自立性を言葉によって帯びるのです。また言葉には、そのもの自体の無常性を覆う機能もあるようです。「花」は散るものなのに、言葉で示された「花」はなんとなく不変に感じられるからです。
それによって実物にはなかった自立性と恒久性が具わったモノたちは、やがてお互いが対立する存在にもなっていくのです。これではどんどん「全体性」が分断され、「空」から離れていってしまいますね。(p122-123)
私が申し上げたいのは、科学で扱われる「知」とは別な「知」の様式が、対岸にはあるということです。それを知っていただきたくて、こうしてしつこく話しているのです。(p132-133)

「現代語訳 般若心経」玄侑宗久/ちくま新書

例えば物理学や数学のように、言葉がきちんと定義されているから誤解が起こりにくい。これらの分野では、計算や理論が厳密に定義されており、誰が考えても誤解が生じないように工夫されている。数学や物理学の世界では、特に計算の仕方に誤解が生じないように様式が整っており、非常に厳密な定義がなされている。
言葉が定まっていると、計算式があることでそれがまるで実体として感じられるようになる。これが科学者や理系の人々にとっての落とし穴で、論理が優先されるあまり、頭の中で作り上げられた宇宙論や量子学の方程式などが、実際に見たり触ったりするものよりもリアルに感じられることがある。これらの数式や理論はすべて人間が作り出したものであり、心の中でしか存在しないのに、それが実在するもの以上にリアルに感じられることが怖い。
物理学者や科学者、工学者などの理系の人々は、虚構の世界、つまり心の世界に逃避しているとも言える。彼らにとっては、そのバーチャルな世界が現実以上にリアルに感じられることがあるということだ。

四諦もない~孤独を味わう

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
四諦もない
苦痛というのは、精神的な場合も多いでしょう。「さびしい」なら「さびしい」ままにそれを味わっていればいい。「わびしい」と感じたらそれを何とかしようなどと思わず、自然の変化を信じて「わびしい」ままにしておけばいい。
要するに、「般若の眼」で見れば、「病即是空」であり、また「苦即是空」なのです。
そのような「苦」を、あらかじめ有るものとしてわざわざ「四諦」を認識するのは、「般若の眼」で見れば無駄なことだと申し上げたいわけです。「四諦」などというのも、自立的に存在するものではなく、「縁起」のなかの「虚仮」なる姿なのです。(p143-144)
以上が私の申し上げたい「般若波羅蜜多」の概観のようなものですが、こうした認識をもつことを、「智慧を得た」と思い込むことが、私たちの陥りやすい最後の落とし穴になります。(p155)
どうしても私たちは、なにかを学ぶ、知識を得る、という次元で全てを処理するクセがついています。
「智も無く、亦得ることも無い」のです。
般若とは、裸の「いのち」が本来もっている生命力への気づきでもあります。「空」というのは、「私」というものを抜きにした事象の本質的な在り方なのです。
「いのち」はこれ以上得る必要がないほどに、すでに「足りて」います。「得る所無きが故に」なのです。(p156-157)
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

これまで多くの菩薩たちがこの「般若波羅蜜多」を実践したお陰で、心にわだかまりがなくなりました。
「私」の思いで「いのち」や「からだ」を支配しようというのが、一番困った勘違いなんです。難しい言葉でいうと「顛倒夢想」ですね。
一切の顛倒夢想を遠く離れることで、私たちは目指す最高の心の平安である「涅槃」に辿り着くことができます。
過去や現在はむろんのこと、未来に出現するであろうあらゆる仏陀も、この「般若波羅蜜多」に依って最高の「悟り」を得ることになるんです。(p158-160)
p164
故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経

「般若波羅蜜多」というのは、じつは特別な呪文なのです。これは神聖で偉大で、本当に力のある呪文です。
ですからこの呪文を唱えると、「能く一切の苦を除く」。まさに一切の「苦」を除くことができるのです。これはつまり、この呪文が真実のものであり、虚言ではないということでしょう。
ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサムガテー・ボーディ・スヴァーハー(p170-175)

「現代語訳 般若心経」玄侑宗久/ちくま新書

全文解釈

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

実相を自在に観る眼のひらけた菩薩は、深い「般若波羅蜜多」を行じていらっしゃったときに、「私たちの体や精神作用は全て自性を持たず、これはいわば縁起における無常なる現象なのだ」と見極められて、一切の苦悩災厄から免れたのである。
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
舎利子よ。あらゆる物質的現象には自性がないのであり、しかも自性がないという実相は、常に物質的現象という姿をとる。およそ物質的現象というのは、すべて自性をもたないのであり、逆に自性がなく縁起するからこそ物質的現象が成り立つ。(p180-185)
受想行識亦復如是
同じように、感覚も、表象作用も、意志も、意識・無意識を含めたどんな認識も、それじたいに自性はなく、縁起のうちに無常に生滅している。
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
舎利子よ、この世においては、全ての存在するものには自性がないと云えるだろう。
だから(我々の観察と違い)、生じたり滅したりもしないし、汚れたりきれいになったりもしない。また減ることも増すこともない。(私たちがそう感じるのは、ただ縁起によって出遭う無常の現象を、概念によってそのように解釈しているだけなのだ。)
是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
だからこの自性がないことを徹見した立場で見るならば、感覚にも表象にも意志にも認識にも自性はなく、また眼も耳も鼻も舌も身体も心も単独で恒久的に存在するのではないし、その六根に捉えられる形も声も香りも味も、また触れられるものも思われる対象も、それ自身が自性をもっているのではないと知るだろう。
無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
だから、この立場からは「無明」が本来的に存在するなどとは認められない。つまり十二因縁の最初から最後まで、当然「老死」までが悉く自性をもたない、ということになる。
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
むろん(四諦で確定される)「苦」も、その発生も、それを滅する可能性も方法も、ない。(それは名づけと概念によって確からしく見えるが、いわば幻想なのだ。)
ここに述べようとする「般若波羅蜜多」は、結局「智」と名づけられるものでもなく、「得る」べき何かでもない。「般若波羅蜜多」とは、(本来の「いのち」という実相の発現であるから、)別にあらためて「得る」ものではないのである。
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
真の求道者である菩薩は、だからこの「般若波羅蜜多」を実践して心に何のわだかまりもなくなった。わだかまりがないから恐れもなく、一切の邪見偏見から自由になり、永遠なる心の静寂を得られたのである。
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚

過去・現在・未来のすべての仏と呼ばれる人々は、この「般若波羅蜜多」を実践することで、この上ない普遍的な人格に目覚めるのである。
だから今、知るべきである。
「般若波羅蜜多」とは、大いに神秘的な呪文なのであり、それは光輝ある呪文であり、他に比類のない最高の呪文なのだ。と。
つまり、この呪文は世の一切の苦悩を取り除くことにおいて、まさしく真実であるし、一点の虚妄もないのである。(p184-185)
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経

ではその「般若波羅蜜多」の呪文を示そう。
ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサムガテー・ボーディ・スヴァーハー
ここに智慧の完成のための重要な教えを終わる。

「現代語訳 般若心経」玄侑宗久/ちくま新書

参考文献


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