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【私にとっての文章】たとえ私が言葉を忘れてしまっても

私にとって文章はデトックスだ。

淡々とした記録などを書くこともあるが、荒ぶる感情を抑えたり、吐き出すために文章を書きなぐることも多い。よって、書き終えたあとはとてもすっきりとしている。

そのせいなのかなんなのか、書いたことの記憶がなくなることがよくあって、読んだ人にこの文章が〜と言われても「はて??」となることがある。

最近は特に多い気がする。 

言葉を吐き出すのこと自体がデトックスだから、書き終えた後「その気持ち」がなくなってしまうことがある。

なので自分の文章を書いて、しばらくすると読みかえせなくなったりする。

それはエモーショナルに書かれていればいるほど、感情移入ができない文章に対してひどく違和感を持ってしまう

自分が書いたものならなおさらそうだ。

だから覚えていられなくて、私は自分の書いた言葉ですら忘れてしまう。

 忘れてしまおうと心が何か働いているのかもしれない。
「出し切った感情」にもう、揺さぶられることがないように。

でもその文章は、その時その時で大切な言葉たちには変わりない。

そしてそれが、誰かの心に届いてれば本望だ。 

私が覚えていられなくても書いてる時は魂を込めて書いているから、

それが誰かの心に合わさって揺さぶることができるなら、
癒すことができるなら。

 その言葉は人の心の中で形として残っていく。

 noteでもそうだが過去に書いてきた散りばめた文章たちを取り出して、インスタに載せていたことがある。(今はもうないアカウントだが)

「とても癒された。」「涙が出た。」「魂が震えました。」

そう言われることがよくあって
その度に私の言葉が人の心を癒しているのだと、とても嬉しく感じる。

 たとえ私が忘れてしまっても、

生み出した言葉は人の心で光り続ける。

 魂の叫びがたとえ小さな小さなものだとしても、それが誰かの心の支えになるならば、このデトックスは吐き出して終わりではない、とても意味のあるものだ。

循環をさせ、自分を、周りを幸せにさせられる、とても幸福な作業だ。

 そんな作業をこれからもひとつふたつと、見つけて増やしていけたらいいなと思う。

 
山口葵

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