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「理由」宮部みゆき/読書メモ

簡単に。

いうものの、一筋縄では書けないほど優れた作品だ。

宮部みゆきの最高傑作。間違いない。大まかなメモはすでに下記の記事にて、村上春樹の「アンダーグラウンド」を引き合いにして書いた。

すこし違う視点から。

上の写真(もう一回、貼ろう)

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全部、文庫です。どういう並びだと思いますか?「理由」は図書館から。

全国に図書館がいくつあるのでしょう? 調べました。

全国に図書館は、3360館。

それから、コンビニの店舗数は?(2021年のデータ)

セブン・イレブン、20879店舗

ファミリーマート、16477店舗

ローソン、13610店舗

さらに、駅のキオスクは?

NewDays、494店舗、KIOSK、165店舗

全国の病院のなかの売店は?

仮に、キオスクと同じだとしよう、661店舗

上記の写真のなかで文庫化された本の初版が、そこに卸されたら(いやらしいが)計算してみる。

図書館、コンビニ、駅のキオスク、病院の売店で卸す、初版部の売りあげが55648部だ。ちなみに、全国の書店への部数は入れてない。

Kindleで出版している人は初版でこれだけ叩き出せるだろうか? たしかにこれからの時代は電子書籍は未知の世界だが。

これが現実だ。

作家のプロと編集のプロが二大大手出版社、小学館(ニッパン物流)系と講談社(トーハン物流)系が存在するのは知っているだろうか?

ニッパンもトーハンも、今まで出版界の金融公庫のような役割を担ってきたことを知っているだろうか?

つまり、

「次の宮部みゆきの小説で、初版で50万部は見込めます。お金融資してください」「オッケー、じゃ8000万円融資するね」というふうに出版業界は成り立っているそうである。なにが言いたいかというと、物流、出版融資、出版社、編集、作家、つまり出版業界で飯を食って生きている人々はこの出版界のクローズドコミュニティで生きている。

だが、ぼくらはその蚊帳の外だ。Kindleも他の電子書籍も一般の出版界から開放されたと幻想を抱いているが、現実はKindle出版している当人が一番わかっているだろう。相手にされていない。

もちろんKindleのなかにも良質な作品は多数あると思う。だがなぜ「向こうがわの」出版界プロの仕掛け人が、こちらを注視しないのか? ぼくらに目を向けて金を稼ごうとしないのか? 金にならないのではない。

そこ(卸なしの直売)で商売をし始めたら、自分達(出版業界)が脅かされるからだ。Kindleが市場の8割を占めたら図書館はなくなる(実際は、図書館はなくなりはしないだろうけど)。キオスクの棚は病院の売店の書籍スペースはクッキーやチョコレートやたけのこの里やじゃがりこになる。

国鉄、第一電電、郵政民営化、などのように出版業界の解体が、政府主導ならともかく、個人の力で出版界を変えてしまうような人物が出てきたらキリストのようにまず出版業界から迫害を受けるだろう。その洗礼に乗り越えられたら、革命児となりえるかもしれない。郵政をぶっ壊した小泉純一郎級の出版業界の革命児に違いないが。それは期待薄だとおもう。ま自分からキリスト待望論のように待ってちゃダメですね。

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売店にカラマーゾフの兄弟は置いてないし、幻獣辞典は田舎の図書館にだって置いてあるか怪しいものだ。おそらく中央図書館に問い合わせて相互貸借しかないだろう。

その点、時代、地下鉄サリン事件や宗教問題を捉えた「アンダーグラウンド」や「教団X」や、家族をテーマとした、競売物件の「占有屋」をモチーフの宮部みゆきの文庫は「これ一冊もって列車に乗りこもう」となるわけだ。

ここからはぼくの個人的な意見だが、自分の世界を描くのではなく「とことん、時代、読者の需要を捉えた作品を、読者のためにかく」それが(当たり前のこと書くよ、笑)ヒット作なんだな。とおもった。

(下記は決して悪口じゃないです)noteの他の小説を読むと「自分のこと」ばかりをテーマにしている。

これは「著者がすでに有名作家である」ことを前提に書かなければ読者はだれも興味が湧かない。❤︎がいくらついていても、キオスクには並ばない。もちろんそれでいい、ここはnoteというクローズドコミュニティなのだから。ここにUPする目的は個人の自由だ。

ぼくはプロの作家にそう言われて、さらに宮部みゆきの「理由」を読んで思った。

自分が描く物語のテーマも小説のターゲットもオープンにすべきだ。と。


物語のヘソ

作り話は波及して周囲に共鳴者を生み、また別のストーリーへとふくらんでいく。その結果、そこに居もしなかった人間が居ることになり、交わされもしなかった会話が交わされる。ゲートを閉め、外の町から居住空間を切り離し、自分たちの望む雰囲気と環境だけを大切に、そしてかたくなに守り支えているつもりでも、幻影には勝つことができない。幻影を追い出すことができない。石田直澄と二○二五号室の中年女性に関する目撃証言の大半は、この種の幻影だった。しかし、それらの証言が語られた瞬間には、語り手にとってはそれが真実だったのだ。確かにそこにいたのである。(610-611頁)

まさに、ぼくが書こうとしている「最後の弟子」のテーマ、ヘソ、と重なってしまった。

思い返せば、ぼくが最初に唸ったインタビュー的な群像小説は、高校のころに読んだ山崎豊子の短編「ムッシュクラタ」だった。懐かしい。手法はよくある典型でムッシュクラタと呼ばれる人物を、他の人物が語っていく。それを宮部みゆきは107人という、トルストイの「戦争と平和」並みの(冒頭のパーティで登場人物が300くらい出てきたとおもう。ぼくはいきなり挫折、図書館でとなりの恋愛小説の「アンナカレーニナ」にハマった)


もう一つ、個人的な(ぼくの記事は全部ブログてき、個人的ですが。汗)くだり。

人を人として存在させているのは「過去」なのだと、康隆は気づいた。この「過去」は経歴や生活歴なんて表層的なものじゃない。「血」の流れだ。あなたはどこで生まれ誰に育てられたのか。誰と一緒に育ったのか。それが過去であり、それが人間を二次元から三次元にする。そこで初めて「存在」するのだ。それを切り捨てた人間は、ほとんど影と同じなのだ。本体は切り捨てられたものと一緒にどこかへ消えさってしまう。(652頁)

じつはこの高校生の「康隆」青年は、学校でSFクラブに入っている。さすれば、小説を多少読む人間であればだれもが「筒井康隆」を想像するだろう。

ぼくは去年まで、筒井康隆に毒されていた。あえてもう一度いう、いままでぼくは筒井康隆に毒されていた。至極、当たり前のことを書く。(もちろん読者としてがこれからも筒井康隆ファンですが)

ぼくはこれからが人間を描く。

人間を描くことはすなわち「過去」「血」「存在」を描くことだ。


秀逸だな、と思った文章。

石田直澄は、目の裏に書かれた日記のページをめくるように、しばしばとまばたきをする。(724頁)

上記の石田直澄は、この物語の最重要参考人である。その彼の「まばたき」は、まさに物語の全体をふりかえるような暗喩に満ちている。724頁まで読みすすめてラストの章の手前になって、まさに「秀逸」な一文。膝をうった。


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下記は、おまけ。

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