朝霧

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朝霧

読んだり書いたり観たり教えたり。 https://asagiri.hatenablog.jp/

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    読むこと、書くこと、教えること、生きることについて

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20240704 Homme Qui Marche, Les Cartes

トマス・エスペダル『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術』にジャコメッティのエピソードがあって、ジャコメッティ「Homme Qui Marche」の小さなレプリカが無償に欲しくなる。誕生日プレゼントにねだるとしたら、これか……。 かつて何気なく「Roland Barthes card」と検索したところ、ロラン・バルトの遺したカードの写真が何枚か表示され、それを度々見返す。気持ちが引き締まる。これくらい、良い言葉で言えば、自由でいいのだと、直観的な言葉で言えば

    • 20240623 Twin Peaksを見終える

      ここしばらく、アメリカのテレビドラマ"Twin Peaks"をU-NEXTで見ていた。1990-91の2シーズンを見て、ドラマはここでは打ち切られ、その後、25年後の物語が2017年に撮られているだが、1話を見て、もういいかと思ってしまった。古い、自然の暗さを残すアメリカのイメージが良かったのだなぁ。金持ちと肉体労働者の、フットボーラーとチアリーダーの、コーヒーとドーナツの国……。

      • 20240620 若さよ

        駅のホームで電車を待ちつつ本を読んでいたところ、女子生徒が表紙を覗き込みタイトルを読み上げながら通り過ぎていき、いくらか気持ちが晴れた。男子校に通っていた頃の私だったら、惚れていたのではなかろうか。教育実習に来ている学生が涙を流していて、自分の授業に納得がいかないのだと話していた。納得という言葉が、妥協と同義になって久しい私には、この涙も衝撃だった。こうした、瑞々しい、若さよ……。 高校生の作文を解読したり、流行の端くれをつまみ食いしたりする仕事に従事していて、そこで、ここ

        • 20240613 すなおに、ずばりと、大胆に率直に

          岡崎裕美子『発芽/わたくしが樹木であれば』の粉飾された赤裸々さの感じが嫌になって手に取った『啄木歌集』だが、寡聞にして存じなかった薮野椋十なる人物の序文が、(当時の感覚はわからないが)軽快でおもしろく、そこに「こんな事をすなおに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌というものは一向にこれない。」とある。「すなおに、ずばりと、大胆に率直に」! まるで岡崎裕美子ではないか……などと思って、そういえば岡崎の歌集の解説を読んでいなかったと思い本棚から取り出すと、岡井隆の解説がある。どこかに

        20240704 Homme Qui Marche, Les Cartes

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          20240612 毎日書くような気持ちでいないと

          毎日書くよりも、書くことがあるときにしっかり書いた方が多少読めるものができあがるようには思うのだが、毎日書くような気持ちでいないと、書くことは現れてこない。 ストレスが溜まっている。結局、すべて仕事に関わることがストレスになっている。仕事に関わらない習慣だけが……読むことであり、書くことであり、語学であり、百人一首であり……だけが、一時的にせよ解放である。 岡崎裕美子『発芽/わたくしが樹木であれば』を読み終えたことにする。真剣なものが読みたい、という気持ちになり、手に取っ

          20240612 毎日書くような気持ちでいないと

          20240605 歩きつかれる

          よく働いたものだ。教育実習に行ったとき、指導してくださった先生が「教員は肉体労働だよ」と教えてくださったが、なるほど、教員とはそれなりに肉体労働である。 キルケゴールが「歩きたいという欲求だけは失うな。私は毎日、歩くことで、健康になっていき、あらゆる病が縁遠くなっていった。」と書いているらしい(エスペダル『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術』)が、俺は毎日数万歩歩き、健康は損なわれていく一方なのだが、それは、そのほとんどが校舎内の移動だからだろう。逍遥学派

          20240605 歩きつかれる

          5/28 2つの赤裸々さ

          岡崎裕美子『発芽/わたくしが樹木であれば』を読んでいるが……嫌な言い方をすれば「赤裸々系」とでも呼べようか、鋭さと呼べそうなものはあるのだが、深さ、と呼べそうなものを感じない。私が深く読めていないのだ、というのはそのとおりなのだが、深く読もうという気にならない、気がする。うーむ。 妻がNHK「理想的本棚」を録画したものを見ていて、笹井宏之の『えーえんとくちから』が紹介されており、やはり良い歌集だ、と再び手に取ったのだが、上の岡崎裕美子の歌集と比べると、まず1ページに収まる歌

          5/28 2つの赤裸々さ

          5/26 『MANICAL』な休日

          教え子?の芝居を観に早稲田へ。昼は「ワセメシ」でも食うかぁ!と思っていたが、家でダラダラしていることを選んだ。芝居を観たら村上春樹ライブラリーに行ってみるかぁ!とも思っていたが、家でダラダラすることを選んだ。持つべきものは体力、気合い、元気がなければ何もできないのである。 観たのは、劇団くるめるシアター『MANICAL』。「魔法使い」の世界に迷い込んだ「人間」の少年と「魔法使い」の少女の物語なのだが、この「魔法」というのが、鏡の世界に入るといった多少不思議なことはあるものの

          5/26 『MANICAL』な休日

          5/25 現代文を教えるということ

          休みの日は、落ち着いて仕事ができる。 現代文の授業の準備をしながら、精読の方法を教えるということの難しさを改めて感じる。言語化はできる。文と文の繋がりが、並列か、論を進めたものか、比較したものか。前提としての語彙や知識。どれが段落の要点で、この段落はこの結論を補強する事例であり……あるいは、二項対立であったり、共時的と通時的の十字の図式だったり、そういった論理の型を捉えたりと、そうした文章の解析を教材研究をしながら行うわけだが、それを伝えることはできたとして、問題はそれを、

          5/25 現代文を教えるということ

          5/23 やいやい

          埼玉県に暑いことで名高い「熊谷」という地名があり、「くまがや」と読むが、この地を拠点とした武将の一族「熊谷」は「くまがい」であり、こちらの方が古いのではないかと思うのだが、しかし、「や」とか「い」って何だろうと、ふと不思議に思った。調べると、「谷」の字を「や」と読むのは関東の読み方らしく、「い」というのは「や行」の「い」だろうから、そういう音の変化が起きるのは想像しやすいが、つまりは関東方言、のようなものなのだろう。

          5/23 やいやい

          5/21 歌集が読めない

          岡崎裕美子『歌集 発芽/わたくしが樹木であれば』を読んでいる。この文庫が出るまで単行本が手に入れにくい状態で、雑誌や短歌の本などに載った幾首かを読んで「これはすごい!」と思っていた時期もあったのだが、こうして歌集で続けて読んでいると、何というか、映画のワンシーンとかの方がよほど詩だなぁという気持ちになってしまった(ここで映画が思い浮かぶのは、世に評判の「したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」を読むと、あたかもいつか見た映画の強烈なカットが思い出されるかのように

          5/21 歌集が読めない

          5/20 性活

          主人公の「日記」という体で書かれている。だからだろうか、わかりやすいようでいて、つまりどういうことか、と考えると、なかなか掴みがたい。生活……ってなんだ? 『ヰタ・セクスアリス』もそうだが、森鴎外の私小説敵なもの(ライフ=アート)との距離感は考える価値のありそうな問題である。いわゆる自然主義・私小説・告白から一定の距離をおこうとしているように見える一方で、森鴎外においては、間違いなく、性欲がまた問題であったはずで、あるいは、彼が取ろうとする私小説との距離とは、そのまま、性欲

          5/20 性活

          5/19 日記/Memento Mori 2

          日記は流行っているのだろうか? だとすればそれは、日記のような形式(質と量)でしか物事を考えることのできない人々の間でのことなのではないか(勿論、能力だけのことを言っているのではない)。 昨日は病院に行き、今日は少しばかり仕事をして、あとは赤子とだらだら過ごしてしまった。土曜が休みのときはだいたい通院である。毎月毎月、死ぬまで病に時間と金を取られ続けるんだなぁと暗澹たる思いになる。私にとってのMemento Moriは、通院の度に抱くこの暗澹たる思いである。

          5/19 日記/Memento Mori 2

          5/17 筆を選びたくない

          先日、AirPods Proが気に入らず、かつてのゼンハイザーが懐かしいのだが、Apple製品に囲まれている以上AirPodsのすぐに繋がる利便性を手放し難いといったことを書いたのだが、まったく、モノというか、道具には拘りを持ちたくないものだ。いや、拘りを持つにしたって、それは「これでないとダメ」というものではなく、道具を次々に乗り換えていくその乗り換え先の拘りみたいなものであってほしい。と、しばらく前から思い始めて、数年前には何本もあったブランド物の万年筆やボールペンが今で

          5/17 筆を選びたくない

          5/16 雨の日の椅子取りは/現代の詩人の主戦場を聴く

          雨の日、我々が教室で勤しんでいた椅子取りゲームは、満員電車の予行練習なのであった。それは学歴奪取の、キャリア形成の象徴であり、人の世で生きるということの始まりなのであった。 満員電車に押し込まれて突っ立っていると、当然読書どころではなく、音楽でも聴くほかないのだが、思うに、現代の詩人の主戦場はポップスにあるのである。と思ってJ-POPを聞き取っていると、新しい言語使用とイメージを開拓せんとする意欲的な詩的詩も時にはあるのだが、概ね、出来合いのイメージ(枕詞や歌枕のようなもの

          5/16 雨の日の椅子取りは/現代の詩人の主戦場を聴く

          5/15 厳しいライフ

          当時において一定の影響力があったのだろうと思われる言説がある。あまり詳しくないのだが、おそらくはこうした考え方が自然主義者たちのライフを私小説的告白にふさわしいものに荒廃させていったのだろうと想像される。鴎外は当然このような立場にはないだろうが、ライフとアートの一致/関係の問題は、先日考えたノンフィクション/フィクションの関係にも関わっているのだろう。古くて、現代的な問題。 しかし、ちょっと忙しくなると、読めないし書けない。「読めないし書けない日記」にでも改題しようかと思う

          5/15 厳しいライフ