5/28 2つの赤裸々さ

岡崎裕美子『発芽/わたくしが樹木であれば』を読んでいるが……嫌な言い方をすれば「赤裸々系」とでも呼べようか、鋭さと呼べそうなものはあるのだが、深さ、と呼べそうなものを感じない。私が深く読めていないのだ、というのはそのとおりなのだが、深く読もうという気にならない、気がする。うーむ。

妻がNHK「理想的本棚」を録画したものを見ていて、笹井宏之の『えーえんとくちから』が紹介されており、やはり良い歌集だ、と再び手に取ったのだが、上の岡崎裕美子の歌集と比べると、まず1ページに収まる歌の数が違う。笹井のものは1ページ2首、岡崎のものは、詰まっている。それも多少は関係していそうだなと思いつつ、しかし、結局、岡崎裕美子は、私の好みではないのだと、認めざるを得ないかなぁ。

岡崎裕美子の赤裸々さと、笹井宏之の赤裸々さ。岡崎裕美子の赤裸々さというのは、たぶん、本当のところ、赤裸々さではない。いや、人は誰しも装うものだが……。

また「理想的本棚」で紹介されていた笹井宏之の詩というものが大変美しく、『えーえんとくちから』に探したがなかった。少し調べてみると、たぶん、ブログに掲載されただけの詩であるらしい(これ)。一部だけ引用するのでは足りない、すべて引用したくなる美しい詩なので、リンクを踏んで読んでほしい。


と思ったのだが、日本語的に気になることが出てきて、引用してみたい。

わたしのすきなひとが
しあわせであるといい

わたしをすきなひとが
しあわせであるといい

このような詩なのだが……「わたしのすきなひと」は意味としてwho I loveであり、「わたしをすきなひと」はwho loves meだろうが、仮に「わたしがすきなひと」とあれば、それは、文脈によっては、who I loveのときも、who loves meのときも、あるのではないか?! それだけなのだが……。

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