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ポストモダン・フェミニスト

「インベージョン」(「侵略」)という映画を観ていたら、意外なシーンに出くわした。
この2007年アメリカ映画の内容そのものは、偶然地球に飛来した微生物ほどの未知の生命体が人間に感染し、人格を乗っとって、地球侵略を企てるという、ありがちなSFホラーである。

ストーリー展開には直接関係ない場面で、意外な人たちの名前が挙げられていて、「へぇ~」と思った。
ニコール・キッドマン演じる主人公の精神科医が、たまたま出席したパーティで、ロシア大使と隣合わせ、議論を吹っ掛けられる。
ロシア大使は言う。
「人間とは、しょせん利己的な存在だ。文明とは幻想だ。偽りのゲームだよ。本当のところ、我々は今でもケダモノだ。本能に突き動かされている。
(中略)
文明は、人がもっとも必要とするときに崩壊するとも言える。然るべき状況では、人は誰でも恐ろしい犯罪ができる。
そうではない世界を想像してみるといい、争いが新しい暴力を生まない世界、どの新聞にも戦争や犯罪の記事が載らない世界をね。それは、人間が人間であることをやめた世界になるだろう。」

こうした「性悪説」、極端な「悲観論」に対し、主人公はこう応じる。
「確かに人間にはある種の動物的本能が残っていますが、私たちは何千年も前と同じ動物ではないはずです。
ピアジェもコールバーグもマズローもグレイブスも書いています、人間の意識は進化し、変わり続けていると。
私のようなポストモダン・フェミニストも500年前には決して存在しなかった。
だからと言って世界で恐ろしいことが起こっている事実は消せませんが、いつの日かそれが変わると信じる根拠にはなります。」

「人間とは本来的に悪なる存在である」とする「性悪説」に対し、「人間の意識は進化する」とする発達論で応じるあたりが、いかにもアメリカの現代エリートの優等生的な答えだが、そこに20世紀の発達心理学者の代表格とも言える4人の名前が登場したことに、私はいたく感心した。
ピアジェとマズローの二人に関しては、日本でもおなじみの名前かもしれない。ピアジェは主に児童発達心理学者として、マズローの方は「欲求の5段階発達説」でつとに有名だろう。
ローレンス・コールバーグとクレア・グレイブスの二人に関しては、日本ではまだまだ一部の専門家の間で知られる程度ではないだろうか。ちなみに、コールバーグは主に道徳性の発達段階の研究者だから、性悪説を受けての反論としてはうってつけの人選である。
コールバーグの著書は、邦訳がかろうじて出ているが、一方グレイブスの方は邦訳書がまだ出ていない。その程度の認知度である。しかしこの分野でのグレイブスの功績は大きく、彼が発案者である「スパイラル・ダイナミクス」は、ケン・ウィルバーが大きく取り上げたこともあり、人間の意識進化のモデルとしてスタンダードになりつつある。
アメリカの現代エリートが、この4人の名を並べながら、人間の意識の発達について語ることが、哲学的でも心理学的でもない映画の中で、違和感のない自然なセリフとして登場しているとしたら、それがある種の常識的なパターンになっているはずであり、事情通たちはこのシーンを観てさぞかし「うんうん、そうそう、わかるわかる」とばかり共感してうなずいているはずなのだ。そう考えるなら、やはり日本はまだまだこうした分野で遥かに遅れを取っている。

少し穿った見方をするなら、このあたりにこの映画の監督の意図がありそうだ。
そもそも、この映画は、ウイルスのような宇宙の生命体が人間に感染し、DNAを書き換えてしまうことで、感染した人間はそのDNAに突き動かされるままに、意図的に感染を広げる行動をとってしまう、という内容だ。感染者がウイルスを伝播する「僕(しもべ)」になってしまうというあたりの描き方は、まさにウイルスをトップに据えた極端な管理社会(独裁制)に対する警告とも読める。
今回の新型コロナウイルス感染症のパンデミックを考えるなら、宇宙からの飛来を待たずとも、地球内生命体だけでも、健康面はもちろん、政治・経済・社会体制・文化、そして個人の心理に至るまで、あらゆる面で市民生活が脅かされ、充分に人類の文明全体に致命傷を負わせる可能性があるわけだ。もちろん、新型コロナウイルスに、人間の人格を乗っとる意図はないだろうが、人間の肉体を舞台に自分たちの生き残り戦略を展開していることに変わりはない。私たちの文明は、ウイルスのような未知の「侵略者」に対して、あまりに無防備で脆弱であることが露呈してしまったのである。
さらに穿った見方をするなら、こうした未知の生命体による侵略をシンボリックにとらえることもできる。つまり生命体をある種の政治的・民族的・宗教的イデオロギーに置き換えるなら、そうしたものによる「侵略」の試みは現在進行形なのだから。
こうした全人類規模の危機は、人間の意識がよほど全体的に進化しない限り、今後も繰り返されるだろう。そう考えると、「文明は、人がもっとも必要とするときに崩壊する」というロシア大使の言葉が俄然真実味を帯びてくる。

ここで主人公が発露している「ポストモダン・フェミニスト」という立場は、もちろん性悪説や悲観論よりはよっぽどましだが、かといって決して人間の意識の最終到達点ではない。「ポストモダン」とは「近代以後」という意味だが、「近代の後にくる時代」という位置づけに甘んじているうちは、「非(ないし反)近代」「脱・近代」にとどまり、それは結局「否定」というかたちで「近代」を引きずることになる。フェミニズムも同じことだ。フェミニズムが男性優位社会や家父長制へのアンチテーゼに甘んじているうちは、「ポストモダン」と同じ運命をたどる結果となり、それではなかなかウイルス禍のような文明の危機は乗り越えられないだろう。
くどくどしい説明は省くとして、私は個人的には「ポストモダン」はそろそろ「トランスモダン」へと進化するときだろうし、「フェミニズム」は「トランスヒューマニズム」へと進化するときだろうと感じている。
はからずもロシア大使が口にした「人間が人間であることをやめる」という状況は、必ずしも人間が動物以下に成り下がることを意味しない。「人間が人間を超える」(トランスヒューマン)という意味合いも含むはずである。

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