見出し画像

清少納言と紫式部、陽キャと隠キャ、そして人生

紫式部が日記にめちゃくちゃ清少納言の悪口を書いていたことを、私は、大学生になってから知った。

源氏物語を書いた紫式部と枕草子を書いた清少納言は、藤原氏が栄華を極めた平安京で、藤原一族の娘の教育係として二人とも働いていた。宮中で働いた時期が少しずれていたため直接の面識はなかったらしいが、日記に悪口を書けるくらいの距離感ということは、当然お互いの噂くらいは耳に入っていただろう。

高校の古典の授業でよく居眠りをしていた私が、なぜ大学生になってから、しかも留学先のアメリカの大学で、紫式部の日記を読んでいたのか。それは、卒論で、源氏物語について書いたからである。

私が丸々四年間アメリカの大学に行って、文学の授業を面白い面白いととり続けていたら文学専攻になっており、気づいたらそのまま卒業していた話は前にもチラッと書いたのだけど、そう、私は源氏物語とヴァージニア・ウルフについて書いた卒論で大学を卒業したのだった。

卒論について調べる過程では関連書籍をたくさん読む必要がある。大体の場合、学部生のレベルで卒論に作品を選ぶ時は、個人的にその作者の書いたものが好きだからという理由が根っこにあることがほとんどなわけであって、源氏物語が面白かった私は当然のように紫式部の日記も読んでいた。(でも古文を学んで原典を読むところまで全然間に合わなかったので英語で読んでいた)

そしたら紫式部の悪口のキレがもうすごくて、私は地下の誰もいない図書室で深夜につい笑ってしまった。出だしがこれだ。

(原文)
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。

(現代語訳)
清少納言って人、得意顔で偉そう。

『紫式部日記」

キレ、すごくないですか??笑 その後も、漢字使いまくってるくせに漢文の知識も未熟、とか、自分は他の人と違うと思い込んでる、そういう人って長続きしない、とか、悪口が続く。

そんなに言うか?とも思うけれど、でも、源氏物語を読んだ後に枕草子を読むと、確かに、あの悲哀に溢れた源氏物語を書くような人が、あのキャピキャピの極みみたいな枕草子を書いた人に対してそういう感想を抱くのは分かるかも…とも思わされて、人間の性格ってやっぱり文章に出るよな…と趣深い。

「キャピキャピの極みみたいな枕草子」と書いたが、枕草子は「春はあけぼの」の堅苦しいイメージが強い一方で、実際は清少納言の日常の面白エピソードをさくっと書いたエッセイを集めたようなものだ。当時の天皇の后は、知識と教養ある女性たちを女房として雇って周りに侍らせ、和歌を詠んだり、音楽を楽しんだり、ヨーロッパのサロンのような優雅な生活を送っていた。清少納言は藤原定子の女房の一人だったが、定子サロンの中でも才女として知られ、父も有名な歌人、当時人気の貴公子とも交流があり、有名で華やかな人だったようだ。定子に白い紙をプレゼントしてもらったことがきっかけで、彼女が日常の諸々を書き始めたのが、枕草子である。

私はアメリカの大学で古典の授業をとり、枕草子も読んだのだが、そこに出てくるエピソードには当時大学生だった私にはすごくイメージがしやすい「我ら一軍女子!うちらまじサイコー」というノリがにじみでていた。でもこれはこれで、読んでいてめちゃくちゃ面白い。というか読んでいて暗い気持ちになる源氏物語と違って、21世紀の今でも、「すごい共感できて笑える」「本当に身も蓋もないなこの人」みたいなエピソードがばんばん出てきて、結構面白いのだ。

例えば、坊主はイケメンに限ると書いているところ。

(原文)
説経の講師は顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ。ひが目しつればふとわするるに、にくげなるは罪や得らんとおぼゆ。このことはとどむべし。すこし年などのよろしきほどは、かやうの罪えがたのことはかき出でけめ、今は罪いとおそろし。

(現代語訳)
説法をする僧の顔はイケメンがいい。講師の顔をじっと見つめていてこそ、その尊い教えも頭に入ってくるというもの。ちょっとわき見でもすると、説法の内容をすぐに忘れてしまうから、ブサイクな講師だと罰が当たるんじゃないかとさえ思う。

でも、こんなことを言うのはやめよう。若い頃には、こんな罰あたりのことを書いたりもしたけれど、歳をとった今はバチが当たるのが本気で怖い。

『枕草子』

平安時代も、イケメンはイケメンで、そのイケメンを好む面食いな女の人はいたらしい。この書きぶりを見るに、おそらく清少納言は説法の帰りに部屋に友達と集まって「今日の人まじイケメンでテンション上がった!やばいやばい、こんなこと言ってたらバチ当たるわ笑」と喋っていただろう。

また、こちらは心がほっこりする、かわいらしいものについて書いたところ。

(原文)
うつくしきもの。
瓜にかきたるちごの顔。
すずめの子の、ねず鳴きするに踊り来る。
二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひくる道に、いと小さきちりのありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる。

(現代語訳)
かわいらしいもの。
瓜にかいてある幼い子どもの顔。
すずめの子が、人がねずみの鳴きまねをすると飛び跳ねてやって来る様子。
2、3歳ぐらいの子どもが、急いではってくる途中に、ほんの小さなほこりがあったのを目ざとく見つけて、とても愛らしい指でつまんで、大人などに見せた時の様子。

『枕草子』

子供がほこりをつまむのなんて、想像するだけでかわいい。平安時代も、子供はかわいかったのですね。でも、枕草子の他の章で清少納言は「うるさいもの。子供の泣き声。」なんて書いていて、本当に正直な人である。

と、なんとなく人柄が伝わってくる清少納言の文章だが、大学生の時の私は完全に自分を紫式部側だと思っていた。深夜に地下の図書室で1000年前の古典を読んで笑っているんだから、誰がどう見ても、清少納言タイプの女子大生と紫式部タイプの女子大生がいたら、私は後者だったろう。

でも最近になってふとこの二人のことを思い出して、自分は二人がそれぞれの作品を書いた30代前半~後半くらいの年齢に近づいてきていると知り、今の私はどっちだろう、と考えると、どちらも、というのが一番素直な回答のような気がしてしまう。

最近では「陽キャ」「隠キャ」という言葉もあるが、それもやっぱり学生がよく使う言葉で、その後、社会に出て働かないといけなくなって、楽しい思いも苦しい思いもすると、だんだんと人は陽キャだけでも隠キャだけでもいられなくなっていく。

大学生の頃は、図書室に引きこもっていて、華々しく出かけることもせず、鬱々としていた私だが、社会人になってからは金曜の夜に飲みに行ったり、ビーチでのんびりするためだけに南の島に行ってみたり、少しずつパリピ感が出てきた。一方で、社会人になってから苦労することも多く、高校生の頃に池袋でプリクラをとりまくってカラオケで歌いまくっていた明るい女子高生だった過去が嘘かのように、部屋で布団にくるまって動けなくなるようなこともあった。

楽しい時は笑い、悲しい時は泣いて、友人と会ったら騒ぎ、帰った一人暮らしの家で孤独を噛み締める。

そうやって、私は自分の中の紫式部的な部分と、清少納言的な部分を育ててきたと思う。

それはきっと、勝手な推測に過ぎないが、本人たちもそうだっただろう。二人の人生について調べると、清少納言は大好きだった藤原定子が亡くなったり、紫式部は夫が亡くなったりと、大変なこともたくさんあったようだ。生きていく中で、考え方が変わったりもしただろう。枕草子の明るいトーンには、実際、時の天皇の反感を買わず、とにかくサロンのイメージをあげたいという狙いがあったという考え方もある。また紫式部も、悪口を思う存分書きまくった後、でも、こんなふうに人のことを書いている私自身も、この先どうしよう…長所も自信もないし、将来の希望もない…と自分の身を振り返っている。

人は簡単にキャラでは語れない。人間の中には渦巻く思いと沈殿した過去があり、人に見せられること、人に見せようと決められることはその混沌のほんの一部で、他人が誰かの全てを知ることはできない。パリピの清少納言も、むっつりした紫式部も、きっと、全然そうではない顔を見せる場面もあっただろうし、お互いに似た部分もあっただろう。

でも、文章を書く時には、自分の抗えないキャラというか、性格のようなものがにじみ出てきている感じも、やっぱり、する。

人間には誰かに理解してほしい、と思う本能みたいなものが争いようがなくあって、私たちは、1000年前も、それよりももっと昔からも、文章を必死に書いてきた。どう書いたら伝わるか。自分のどういう部分を強調すれば、読み手に面白いと思ってもらえるか。考えを巡らせ、言葉を選んで、私たちは混沌の中から他人に手を差し伸ばす。そして文章ににじみ出る個性から、そこに表現しようとしたことから、読み手はその人の人となりを少しだけ知ることができる。

きっと、みんなが心の中に清少納言と紫式部を、陽キャと陰キャを、そしてその二項に当てはまらない色んな何かを持っていて、でも、そこから選んできたもの、すくいとった内容や表現方法には、どうしても、その人らしさが出てくるんだろう。

はて、自分の文章はどう見えているんだろう、もしも誰かが1,000年後に読んだら笑ったり共感してくれたりするんだろうか、と思いつつ、まあ、そんなことをクヨクヨ考えている私はいつまでも紫式部側っぽいのかもしれないな。

上の例で枕草子が気になった人にぜひ。大胆な訳文で、笑いながら楽しく読める。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?