47. 江國香織さんの魅力は香りの空気を纏うように、物語を織ってゆく
コロナ禍の2020年、「7日間ブックカバーチャレンジ」がSNSで流行しました。これは「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する」というもの。
①本についての説明はナシで表紙画像だけアップ。
②(その都度)1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。
ルールはこれだけでした。
世界中の街から人が消え、空港やレストランや観光地などは廃墟と化し、代わりにインターネットには、人やモノや出来事やら、儲け話やら、で大渋滞という、そんな新たな時代が始まった頃でした。
ライターの友人からまわってきた、フェイスブックでの「7日間ブックカバーチャレンジ」。わたしは、中学時代から遡って、フランソワーズ・サガンの「愛と同じくらい孤独」を投稿し、その後は、森瑶子「情事」、リチャードブローティガンの「西瓜糖の日々」、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」などを、ぽんぽんと上げました。
確か4回目の投稿は、江國香織さんの「抱擁、あるいはライスには塩を」を供しています。ベストエッセイを選ぶなら、よい本が沢山ありすぎて大いに迷うところですが「物語のなかとそと」。
若い頃に読んで、これは!とノックアウトされたのは、「落下する夕方」。ここには完璧な絶望が描かれています。彼女が描く絶望は、決して鬱々した暗さはありません。絶望を、むしろ面白がるかのように書いているのが江國流であります。あと、「いくつもの週末」という本も好き。車のサンルーフをあげて、夫婦で桜を視るシーンの情景描写がたまらなくよくて。春になると必ず読みたくなります。
さて、本題の話しに入りましょう。
ある日。流れてきた音楽に耳を傾けながら、あれをよく聞いたのは、自分がいくつで誰と過ごしていたな……、そういう風に、音楽が引き金になって、当時の記憶が次々と紐解かれていくことがありますが、本の場合も同じ。冒頭の一行をみただけで、当時のあれこれが、フラッシュバックする、そんなことはないでしょうか?わたしは、意外とあるのです。
「抱擁、あるいはライスには塩を」は、そういう意味で感慨深い一冊です。
私は30代後半で(子宮全摘出手術をした)西梅田の病院の個室で10日間の入院中、iPhoneの音楽を掛けっぱなしにして、一日の大半をこの本を読みながら過ごしていました。体は細い管に繫がっていながら、心は江國香織の書く本の中に居て、(紙の中の)沢山の美しい造形や家族の人生をみていられた。
私をよく知る友人なら、あぁ、あなた結構な「江國ファンよ」と承知のはずでしょう。
どこがよいの?と問われれば「私だけが知っている、江國さんのあれ」というように世の中の江國ファンが信じて疑わない、特別な江國香織の味わいがある。自分のためだけに物語を話してくれているような。心の新陳代謝が活性化されるような感じ。本来の自分に、(ありたい自分の姿に)引き戻される強い力が彼女が物語る世界にはあるのです。
行間と行間の間でふわっと語られる、季節あるいは時間の流れる瞬間、瞬間の描き出し方なども溜息がでます。彼女の小説は、いつまでも人の心に留まっているような固形の感情は残らない。おいしく味わったらスーッと消えていく、極上の夢のような見え方が特徴で。そこもたまらなく、よいのです。
以前、本のトークイベントでお会いしたことがあり、ご本人には恐縮ですが「小さな子どもの眼をした老女みたいな(魔法使いみたいな)美しさを持った人」だという印象を覚えました。これはどうでもいいことですが。きっと、江國さんの手指の先はまるく、すっーと長い。そして冷たいのではないでしょうか。彼女の体は芳醇な果物が、溶けているから。(江國さんは主食が果物だとエッセイに書いているほど、完熟の季節のフルーツを数種類は冷蔵庫にいれて、一番食べ頃をみはからってカラダに取り込んでいらっしゃるとか)
「言葉」を選ぶ力が、すごく真摯、真剣。自分が話す言葉に対するちょっとした反応や違いなどにも敏感に、よく考えながら話されており、「あ、違うこれは……こう」と自分の発した言葉を、上書きされていたのが印象に残っています。そう例えば、こんな風に物語のことを語っていらしたと記憶しています。
「紙で読む本は絶対になくならないと思います。本を読む行為は、すごく能動的で積極的な働きかけです。読むことでいろいろな人の人生を味わうことができる。人生の手応え、みたいなものもちゃんと感じられます。それは、他のものでは絶対に置き換えることはできないと私は思うのです」
「誰のために書くか? そう自分のためや、読者のためでもないですね。やっぱり作品のため、かな」。
夜長の秋は、思いっきり風呂読書を再開したいと思います。