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読みたいときに訪れる、自分用の本棚。
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#文章

1年が経ちました。

1日ひとつ、ひとまず何でも書いてみようということで、書きはじめて1年が経ちました。 書きながら日付を越えることも何度かあり、「365日更新!」とまではいきませんでしたが、ひとまずこの1年で365本の何かを書いたということになります。 基本的に記録だったり、思い出だったり、くだらないことだったり、本当の本当に無意味なものだったり。そのくらいの文章量やったらTwitterでいいやん! とつっこみをいれたくなる日もありましたが、とにかく自分を試しながら、果てしなく眠たいときも熱

カエルの大合唱をBGMにして。

こうやって書いているひとり言のような文章が、遠くのだれかの読み物になる日がきたら、きっとうれしいだろうなぁ。 わたしは、だれかに語れるほどのHOW TO話や、今すぐ誰かが記事にしたくなるような実績はなにひとつもっていない。また、読み物としておもしろい日記が書けるような刺激的な日々を過ごしているわけでもない。 そしてなによりも、26年そこら生きてきたくらいで気づけることは、たかが知れている。そんな現実をビシバシ突きつけられるのがいまで。じぶんならではの視点でものを語れるほど

市民社会とメディア。

昨年に続いて、大学の「市民社会とメディア」という授業でお話しさせていただくことになったので、わたしとメディアの関係や、映画の事例をご紹介できればと思う。 どういう順番で話すのがいいか、どういうグループワークを入れるのがいいか、そんなことを考えながらあと2週間を過ごそうと思う。(そして明日と26日の上映会のこと、映画の今後のことも伝えよう) 大きなゴールとしては、『ぼく/わたし』が『メディア』を通してどういう風に『社会』とつながるか、どんなことを届けていきたいか、ということ

私たちはきっと、もっと「夢中」になれる。

子どもから大人まで、みんなが「夢中」になっている風景が見たい。 その時、目の前に広がっている光景はきっと、とてもplayfulでいろんな学びや気づきが溢れているはずだから。 私は現在、仕事や趣味であれこれ関わっているけれど、「最終的な着地点はどこか」と聞かれたら【教育】と呼ばれる分野にあたるのだと思う。(学校の先生になりたいというわけではないけどね。) 兼ねてから、学ぶことのたのしさや、年齢関係なく学び続けることの豊かさを感じてもらえるきっかけがつくれたらいいなと思って

もっと余談を聴かせてほしい。

—— 目の前の大人がなにか、大事なこと伝えてくれている、ということだけは記憶にのこっている。 はじめてのインタビューは、小学校1年生か2年生のときの、近所のお寺だったと思う。 数年前にお亡くなりになられた(と伺っている)ご住職さんに、ドキドキしながらお話を聞きにいった。 「ほかになにか質問はあるかな?」とやさしい笑顔で聴かれ、「なにか聞かなきゃ!」と、ちがう言い方でおんなじ内容の質問をしたわたしに、「それさっき言ってはったやん」と同級生にピシャっと言われた苦い思い出だけ

伴走者としての「わたし」。

それでもいまは、とにかく前へ。 幅を広げるための時間は、そんなに嫌いじゃない。それを辛抱強く続けられるかどうかは、いずれにしてもわたし次第。あとはどこまで突き詰められるかですよね。 ::::::::::: 先週、ひさしぶりに映画「かめじん」の上映会を開催しました。 この日は、新年が明けてから1ヶ月の間に出会った人たちが観に来てくれていて。生まれた国や異なるバックグラウンドをもった方々の目に、「亀岡」というまちがどんな風に映るのかすこし不安でした。 でも、終わったあと

おなじことば、ちがうことば。

・世代や価値観、バックボーンのちがうひとたちと、どのようにして「共通言語」をもつのか。 それを橋渡しするのが「メディア」ないしは、「ことば」の役割だと思う。 もちろん、これだけの人が生きている世の中でその思考を完全に一致させることはむずかしいのだけれど、共通のものとして心に留めておくことはできるのではないだろうか。 だれもが書き、伝えることができる時代だからこそ、その「ことば」の背景にあるものをきちんと共有できたらいいなと思う。 ・そういったことを共有すれば、すべてが

食パンの耳のようなお話。

・「わからないもの」に対するスタンスのなかにも人柄はあらわれる。それは決して、「わるいことを試みよう」としている人を、どうにかわかろうとしている話ではないのだけれど、そこに対して壁をつくりたい人とのやりとりはちょっとむずかしいなと思った。 ・わたしには基本的に「理解したい」という気持ちがあるのだと思う。合意はできないかもしれないけれど、いろんなひとの考え方や生き方を理解したい。どちらかと言えばほんとうは、じぶんがやることにしか興味がないような、結構つめたい人間なのだけどね。

誕生日プレゼント。

誕生日なのに! と言われながら、いつも通り仕事をしていたのだけれど、今日は仕事の予定を入れて本当によかったと思える1日だった。 わたしは、地元の空が中学生の頃から好きだった。黄金の稲穂と彼岸花の風景は、小学校の写生の時間に描いてから毎年ずっとたのしみにしている。 こんな風に小さい頃から感じてきた地元の価値を、ようやく胸を張って「いいところなんです」と伝えられるようになってきた。正直、すべてが好きだとは思えないけれど、だれになんと言われたとしても、わたしはやっぱりこの場所が

2018年。

2018年が、もうすぐおわろうとしている。 今年も、世界的なことから個人的なことまで大小いろんなものごとが動いていて、それぞれに対して考えることもたくさんあったけれど、年の暮れにはだいたい忘れているみたい。 結局のところ、自分の手の届くところにしかわたしの声は届かないし、手をむすべない。その範囲を広げていくために、あれこれ動きまわるのがいまのわたしにできる精一杯なんだと思う。だから、そこで出会えたひとたちや、これから出会うかもしれないひとたちを大切にしていきたいかな。

呼吸をするように。

「呼吸」をするのとおんなじ感覚で、できることを増やしたい。 という一文を書いてふと思ったのだけど、そもそも「呼吸」ってオギャーッと生まれてからずっと続いているものだから、自然の営みに近いところにあるのだろうな。 毎日の積み重ねというか、日頃の習慣というか、そこには意図や意識が存在しない。よっこいしょ、とやっている状況では、まだまだ「呼吸をするように」なんて言えないもんね。 いまは、思いっきり全力疾走してみたり、いっぱい吸ってゆっくり吐いたり、いろんな呼吸の仕方を覚えてい

風を止めない。

noteを毎日更新するようになってから、半年が経っていた。 日記を書くような感覚で、その日思ったことや感じたこと、日々考えていることを徒然なるままに書いている。20代の日記なんてたいしたことはないのだけれど、1日のなかですこし強引にでも「思考」の時間をつくることは、やってみてよかったなと思う。 ①今日あったことを振り返る ②明日以降にやることを整理する ③これからどうしていきたいかを考える ④いますべきことを決める ⑤20代を記録する 「思考」のなかにもいくつかの種

自分の内側にある「ことば」を探しに。

「本」が好き、というよりも「本屋」が好き。 うまくことばにできないもやもやした感情が生まれたとき、わたしはジョギングをするか、本屋に足を運ぶ。 ジョギングはエネルギーの発散と思考整理をするために、本屋は自分のこころに引っかかる「ことば」を見つけるために。 本屋に足を踏み入れると、四方八方どこを見ても活字だらけ。なにかこころに迷いがあるときは特に、たくさんの文字群からわたしが “求めている情報” を見つける作業をする。 そんな風に活字の海を旅してみると、そこにはいつも様

ちいさな秋を見つけた。

見つけた頃にはすでに、冬が始まろうとしているのだけどね。 2018年があと1ヶ月と少しで終わってしまうなんて、なんだか想像がつかない。あっという間に時間だけは過ぎていくのに、自分自身の変化が見えず焦燥感に駆られることが度々ある。 「まぁ、最後はなるようになるかな」というタイプなので将来に対しての不安はあんまり感じない方なのですが、年上の方々とお話をしながらなんだか焦っている自分がいて。 重ねた年の分だけ経験値はもちろん異なるわけだし、そこで同じ土俵で話そうとすること自体