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不良になれなかった私のアルゼンチン門司港逃避行日記

不良になれなかった私

物心ついたころから、何故だかはわからないが日本の教育や社会に馴染めなかった。都心にある中高一貫の私立の女子校。校則とか時間割とか部活とか意味わかんなかったし、学校にいると自分がどんどんロボットになっていく感じがした。

通学中に満員電車に乗っている大人とか観察してたら、何のために生きてるのかよくわからなくなった。MDのイヤホンでブルーハーツの1985年の『僕たちを縛り付けて一人ぼっちにさせようとした全ての大人に感謝します』というフレーズを何度も繰り返し爆音で聞いていたことを思い出す。

学校も社会もくだらないと思ってたけど、私は中流保守家庭でちゃんと愛されて育った生粋のお嬢で、とてもじゃないけど不良にはなれなかった。適応能力も無駄に高かったから、不登校にも引きこもりもなれなかった。だから、学校や社会ではちゃんと馴染んでいるふりをして、家では中途半端な自分を責めては発狂してひたすら叫んでた。

このままでは自分の感受性が死んでしまうと思った。だから、18歳のときに受験勉強に勤しむ同級生を尻目にアルゼンチンに留学した。理由は日本からいちばん遠かったから、ただそれだけ。今いるところからいちばん遠いところに逃げたかった。留学にまつわる両親とのバチバチは色々あったが長くなるのでここでは割愛する。まあでも最後は折れてくれて感謝。

アルゼンチン逃避行

私が留学したアルゼンチンの片田舎は日本の真反対に位置するだけあって、人生の価値観も真反対のようなところがあった。「何故日本人はそんなに働くのか?」「何故日本はそんなに自殺率がそんなに高いのか?」とよく訊かれた。「私も何故だかわからないからここに来た」と答えた。

私がホームステイしていたのは両親と3兄弟の5人家族だったが、毎晩色んな人が代わる代わる訪ねてきては食卓を一緒に囲んだ。日本の都市部のマンションの核家族の一員として育った私には家に誰かが訪ねてくるということ自体が衝撃だった。

ホストファミリーに「あの人は誰?」とたずねる大体エルマーノ(兄弟)とかエルマーナ(姉妹)と返ってきた。なんかよくわかんないけど、ご近所さんも友達もみんな家族のようなものなんだと理解した。

さらに面白かったのは、私が留学した2000年代半ばのアルゼンチンは国家経済も制度もほぼ破綻していてたことだ。人々の給料はあがらないのに、スーパーの品物は馬鹿みたいに毎月値上がりし、貨幣は単なる紙切れと化した。

それでも彼らはそんなこともお構いなしに、毎晩のように家族友人ご近所仲間と集まってはおいしい料理を食べて、好きなように歌い、好きなように踊ってた。そして、ぼちぼちしか働かなかった。そんな彼らのラテン的な暮らしは控えめにみても日本の暮らしよりも幸せであるように感じた。

よくよく観察してみると、彼らは国家経済や制度はハナから当てにしていなかった。その代わりに広義の意味での『家族』で助け合っていく互助の仕組みがあった。食料でも衣服でもなんでも互いに分けあうのが当たり前。ホストファミリーの家庭は貧乏でホストシスターは修学旅行費を払えない状況にあったが、クラスメイトのみんなで寄付を集めて一緒に行くことができたのはよい思い出である。アルゼンチンは日本より格段に貧しいのに格別に豊かだと18歳の私は思った。

人生で大切なのは家族や友人や近所の仲間を愛して共に助けあいながら生きていくこと。1年間の留学を無事に終え、アルゼンチンで学んだことを大事に生きていたいという気持ちを抱えて意気揚々と帰国した。しかし、その頃の日本ではちょうど孤独死とか無縁社会とか過労死の話題でいっぱいで、私はその落差に絶望した。

東京を離れ地方に流れる

あれから10年が経った。紆余曲折あって、2021年のいま私は東京を脱出し、今度は九州の端っこにある門司港という小さな港町に逃避行している。

外を歩けばご近所友達にばったり出会うような小さな街だ。潮風と汽笛の音が気持ちがいい。縁があってオンボロのシェアハウス物件の運営を任され、シェアメイトや街の人達と助けあいながら、面白いことを企みながら、日々和気あいあいと暮らしている。

本業では身寄りのない元ホームレスのおいちゃん達の生活支援のようなことをしている。地方のNPOで給料は決して高くはないが、元ホームレスの愉快でやんちゃなおいちゃん達と家族になることを信念に働いている。仕事のモチベーションに必要なのは自分が誰かの役に立っている手触り感と納得感だと現場に立って初めて気がついた。

10年前の自分はまさか自分が見知らぬ地方で福祉の仕事に就くなんて思いもしなかった。予想もしなかった未来は思ったよりも幸せだけども、未だにこの選択で良かったのかという葛藤も抱えている。時々インスタに流れてくる東京の元同級生達のキラキラとした女子会をみて落ち込む日もあるし、何より両親に対して、大して稼ぎもせずに学生時代の延長みたいな生活続けててごめんなさいと思ったりもする。

門司港レジスタンス

それでも、私がここ門司港で生活していることが、誰かにとっての暮らしのヒントや救いになるのでは、と心のどこかで思ったりもしている。ずっとはみ出しものだった私がはみ出さずに私らしく生きていける仕事と街がここにはある。

資本主義社会に疲れたら降りてもいい。もっと愛とか人との繋がりに振り切ってみてもいい。血縁や婚姻関係に頼らずとも家族のような関係はつくれる。私はこの港町でアルゼンチンでみてきた暮らしを追求してみたい。

東京は別に嫌いな訳じゃない。でも、東京生活独特の息苦しさは理解している。東京の生活詰んだと思ったときは、たしか門司港って街があったなって思い出してもらえたら嬉しい。なんなら一度遊びに来てほしい。一緒に港の風景を見ながら散歩しよう。自由にぼちぼち暮らしている愉快な街の人達と一緒に遊ぼう。

門司港でマイペースに楽しく暮らすこと、ここにおいでよといえる場所をつくること、それが私にとってのレジスタンスだと思ってる。

▽私が運営するシェアハウス門司港ヤネウラについて


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