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人間について

テレビ番組で、2000年前に沈没した船に眠っていたとある円盤から、驚くべき発見があったと紹介されていた。それは数十個の緻密な歯車でできており、月の位置やオリンピックの開催年などが分かる機械。「言わば2000年前のコンピュータ」なのだそう。おお、すごい。これは驚いた。専門家も大変驚き歓喜したとのこと。「こんな文明が、2000年も前にあったなんて!」とテレビが言う。たしかに。と思う反面、どことなく、でもなぜ驚くのだろう?という違和感を抱いた。
2000年前も今も、人間は人間であり、何か大きく違いがあったのだろうか。脳みその大きさは、猿だった頃から比べれば遥かに大きくなったのだろうけれど、2000年前と今ではそこまで大きく変わっていないように思う。とすれば、人間が発見や閃きをする能力だって、今も昔も変わらないのではないだろうか。特殊な素材や機械こそ、現代にのみ存在するものだけれど、それを利用し動かす知能は変わりないのではないか。文明の出発点が発見や閃きだとして、それを運用、応用して、また発見や閃きが生まれる。その積み重ねで発展があるのだとしたら、知識はそうやって積まれていくものなのだとしたら、出発点である人々はむしろ今よりある種賢いとも言える。だからこそ、「こんな文明が、2000年も前にあったなんて!」という驚きに、子が親の成長を驚く様な可笑しさを私は感じたのだ。
人間は今も昔もさほど変わらないのかもしれない。知能にしても感情にしても、本能にしても。根本的には変わらないからこそ、宗教や哲学、紛争は変わらずあり続けるのだろう。ここでまた嘆いてしまう。この世界から争いが無くならないことを。人間は詰まりは愚かしい生き物なのだろうか。この世の中はどうなっていくのか。
けれども人間は本当に2000年前からなにも変わらないのか。いや、そんなことはない。人間は学び、知識を身につけていく生き物であり、能動的に驚くべきスピードで進化してきたのである。本能的な単純さもありながら、知識や経験の積み重ねによる複雑さも有する。だからこそ、壊すこともできれば創ることもできる。人間は神でもないし、人間至上主義を唱えたいわけでもないけれど、やはり人間はそんなに愚かな生き物ではないと信じたい。宗教じみたことを言いたいわけではないけれど、知識と愛を持ち合わせる人間だからこそ、創り上げることのできる世界がきっと、あるのではないか。そう信じて、2000年先にも残せる未来についても、考えていきたい。