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冬の空気

「一難去ってまた一難」
「一喜一憂」

そんな言葉があるくらいなのだから、
やっと苦労を乗り越えたのに、また…
なんてことはたぶん、この世界で私だけではないのだろう。
落ち込んだり喜んだり…って何回繰り返してんだ?
なんてことも、私だけじゃないのだろう。
この世界の不条理は、おそらく私にだけ起こっているのでもないのだろう。

そう思うと、幾分かほっとする。

だけれど、「辛さ」「苦しさ」「しんどさ」は消える訳ではない。それを感じるのも乗り越えるのも、他でもない「私」なのだから。
だから「他にも辛い人がいる」という慰めは、「だからもっと頑張りなさい」というプレッシャーでしかない。

なのに、「自分だけじゃない」という事実に触れた時、なぜこんなにもほっとするのだろう。
「その気持ち分かる」と共感してもらえると、なぜあんなに心が軽くなるのだろう。

答えは分からないけれど、「寂しさ」なのかも知れないと思う。
この心身に起こっていることは、どんなに言語化されていたって、体感できるのは「自分」しかいない。
感じる時も耐えている時も、「孤独」は拭えないのだ。
それを積み重ねていくうち、どうしても視野は狭くなり、「こんな境遇にいるのも、こんな思いをしているのも、この世界に自分だけ」という感覚になってしまう。

それでカチコチに固まった心が
「他の存在」や「共感」に触れた時、
一気に風が吹き込む様に視野が広がり、人の存在を感じるのだろう。


ーーー
この3年間を通して、私の心の調子はだいぶ穏やかになった。もちろん日によって調子はアップダウンするのだけれど、以前に比べれば強迫の症状も精神状態も、比較的安定してきた。

今年に入ってからは、自分の心に負担のない行動を心がけ始めた。
なのにこの間、とあるきっかけで落ち込んでしまい、久しぶりなくらいに具合を悪くした。
そのことを診察の際主治医に伝えると、「今日の話は100点満点だね」の一言。
傷口がいきなりふさがるということがないように、一喜一憂しながらも、徐々に良い方向へは向かっているということなのだろう。

しかしやはり不調は続き、ここ数日は不安と自己嫌悪に苛まれ、強迫行為がやめられなくなり始めた。
不安と自己嫌悪の理由も明確には分からなかったし、目に見えるものでなかったりするから、「これではまた振り出しに戻る」と、絶望がよぎった。

けれど今朝、起きたらなぜか心の中が澄んでいた。冬の朝の澄んだ空気に、何の違和感もなく心が溶けていた。
強迫行為を繰り返さなくても不安にならず、久しぶりに朝のルーティーンを気持ち良く過ごせたのだ。

そんな朝に、冒頭の言葉を思い浮かべていた。

私の強迫症状の場合は、無理に治そうとしてもコロっと治りはせず、こんな風に気づけば徐々に薄まってきた。コントロールできない不安は、突然やって来るけれど、気づけば居なかったりもする。流動的なのだ。
だから今停滞している人もきっと、変化は訪れるのだと思う。

これが「一喜」なら、また一憂は来るのだろう。
こんなこと言っておいて、明日はまた絶望の淵に跪いているかもしれない。
だけどこの、ただひとつまみの喜びが、絶大な効果を発揮する。
ココアでも飲もうかなとか、どこかに出かけようかなとか、明日は何しようかなとか、しまいには将来のことだって考え出す。
そうやって気づけばまた、生きているのだ。

「生きてることは素晴らしい!」だなんて思って生きたことはない。オールを漕ぐ様に一喜一憂の推進力で進んできただけだ。

だからこそ、今日の冬の空気は、これまでにない程澄んでいる気がする。