腕の中の陽だまり
冬の終わりぶりに会った彼女の髪は伸びていた。
東京に住む日菜が初めて大阪のこの部屋に泊まりに来た日。確かあのときも同じくらいの長さだった。お互いの呼び方が、大晴くんからたいちゃんに、日菜ちゃんから日菜に変わり始めたばかりで、付き合いたての気恥ずかしさをまだ少し引きずっていた頃。
あの日と同じ、泊まりに来た日菜の机を拭く後ろ姿を見て、夕食後の洗い物をしながら、そのときのことをぼんやり思い出していた。
先に日菜をリビングに通して、台所でコップにお茶を注いでいた。会話の途中、返事が返ってこなくなって、急に静かになった日菜を不思議に思い振り向いた。
硬直した日菜が見つめる紙袋の中には数枚のDVD。18歳の誕生日に、18禁解禁祝いだとか言って、昔友達がふざけてくれたもの。この間の掃除でクローゼットから発掘し、今度捨てようと机の横に置きっぱなしにしたままだった。
まずい。まずいぞ。大変まずいぞ。人間本当に焦ったときは、すぐには言葉が出てこないらしい。
重い沈黙を破ったのは日菜の控え目な声。
「年上が、タイプなの?」
「へぇ!?」
「書いてある。」
「や、ちゃうって…。」
動揺して声が上ずる。言い訳しようにもできない状況で、何をどう弁解すればよいのか。果たして弁解の余地はあるのか。
「私、一つ下だし、童顔だし、DVDのお姉さんたちとは反対だね…。」
「いや、あの………。」
やってしまった。これは完全に、やらかした。忘れないように目につくところになんの気なしに置いたのが間違いだった。結局忘れてるし。焦りに焦って焦りまくった。
その後なんとか説明して、誤解を解いた。あまり納得してない顔をしていたけど。今となっては笑い話。まだ初々しかった懐かしい日々。
あれからもうすぐで3年が経つ。
以前会社の同期から、遠距離なのによく続くな!と驚かれた。台所からリビングにいる日菜を眺め、もうそんなに経つのかと正直自分でも驚いている。
普段台所を使うことはあまりない。男の一人暮らしの典型的な冷蔵庫の中身が、日菜が泊まりにきたときはちょっと充実する。野菜や肉など、調理しないと食べられない食材には一人だとなかなか手が出ない。
スーパーであれこれ吟味する日菜を横で観察。俺はカゴを持つ係。玉ねぎ片手にうーんと唸る日菜の隣で、新婚みたいだなと想像してニヤけそうになる口元を無理やり下げる。
本当は会えるだけで満足だけど、自分のために何かしようとしてくれるのが嬉しくて、かわいくて仕方ない。料るときもそばに張り付いておしゃべり。思いつく定番の夕飯メニューをリクエスト。時々お手伝い。
生姜焼きは一度自分で作ったことがある。見よう見まねでやってみたら、ちょっと焦げたけどまあまあ美味しかった。でもあくまでまあまあで、同じやり方をしているはずなのに日菜の作ったもののほうがなぜかおいしい。一緒に買い出しに行って、おしゃべりしながら作って、隣り合って食べて、おいしいねって言い合って、その時間込みだからこそ余計おいしく感じるのだろう。洗い物をしながら先程の和やかな食卓を振り返る。
「たいちゃん…。」
「え?」
振り返る前に背中に寄り添う体温。ゆっくり腕を回して緩くTシャツを握る手。不意打ちのその行動に心臓が跳ねた。じわじわこみ上げる照れ臭さと温まる背中。
珍しい。どうしたんやろ。普段こんなことせえへんのに。
彼女のレアな行動に甘えられていることを実感し、本当は飛び跳ねたいくらい気持ちが高まるけど、あくまで平静を装う。努めて余裕のある彼氏を演じる。
「どうしたん?」
自分のより一回り以上小さい右手に触れて、顔だけ振り向くと、肩甲骨の間に頬をすり寄せられた。
「なんでもない。洗い物続けて。」
いや、ちょっとそれは、無理があるような。いろんな意味で。そんなにくっつかれたら高鳴る心臓の鼓動がばれそうだけど、とりあえずそのまま自由にさせて洗い物を続ける。
おとなしく静かに寄り添う日菜。ニヤける俺。ちょっと動くと俺の動きに合わせて動く。黙ったまま、でも腕は緩めないまま、優しい力加減で寄り添われ続ける。あぁ、幸せだ。幸せ過ぎる。
何かあってもあったと言わない日菜のことだから、きっと何かあったのだろう。今日はなんとなく元気がないような気がしていた。勘違いならそれでいい。言いたくないなら無理に言わなくていい。しっかり者で甘え下手な彼女が、彼女なりに気持ちを整理しようとしているなら、こういう形で解消しようとしているなら、気が済むまでそのままいさせてあげたい。強がらなくていい場所を作ってあげたい。弱さも見せられる心の拠り所の一つに自分がなれたらいいなと思う。
さっきよりもか細い声でもう一度俺の名前を呼んだ日菜は、ポツリポツリと話し始めた。
「亜美さんって誰?」
あみさん?誰?日菜の口から飛び出した覚えのない名前に、頭の中で知り合いの顔を順に思い浮かべながらあみさんとやらを探す。そして一人、思い当たる人がいた。学生時代の先輩。
遠慮がちに質問を繰り返す日菜の真意が掴めず、自信なさげなその声は背中越しだと余計に聞き取り辛く、でも何かを訴えようとしているのは伝わってきて、一語一句逃さぬように耳を澄ます。そして、段々わかってきた。
朝、枕元に置いた俺の携帯が光って、見えた画面には亜美先輩からのメッセージが表示されていたこと。内容が、今度二人で飲みに行かない?という、デートのお誘いだったこと。気になるけどなんとなく聞けずにいたこと。
要するに、やきもちを焼いたってことやんな。普段は割と冷めてるのに、こういうときだけ小さい子供みたいに拗ねて甘えてくるところまで、まとめてかわいい。元気がなく見えたのはそのせいだったのか。
「すんねやな、日菜も。やきもちとか。」
「しますよーだ。」
「はいはい、いい子いい子。」
亜美先輩には後で断りの連絡を入れておこう。
冷えた手を拭いて、温まった背中を振り返る。向き合って正面から、今度は俺から抱きしめる。温かくて、柔らかくて、繊細で、優しくて、愛おしい。きゅっと腕の力を強められ、と言っても自分のとは比べ物にならないほどの力に、守ってあげたくなる。
「一緒に寝よ。」
胸元に顔を押し付けて、ボソッと呟き落とす日菜。再びニヤける俺。
「なんやねん、今日甘えん坊やな。」
俺がからかっておちょくって、適当にあしらわれて、笑って、たまに怒られるのがいつものパターン。お日様みたいなその笑顔が見たくて、ついかまってしまう。だからこうも素直に甘えられると、いつもと逆で調子が狂うというかなんと言うか。でも決して嫌ではなく、むしろ願ったり叶ったりというか。
頭を雑にわしゃわしゃ撫でてから、毛先まで何度か指を通して梳いていく。なんとなくだけど、日菜は髪を撫でられるのが好きそうだ。
初めてその髪に触れて指を通したとき、少し頬を赤らめて力が抜けたように表情を緩めた。安堵に満ちたその笑みは、抜群に心臓に悪かった。恥ずかしそうだけどやめてとは言わず、視線を伏したまま、嬉しそうに撫でられ続けるその表情と髪の感触が妙に色っぽく思えて、その後いろいろ抑えるのに一苦労。
それ以来、つい手が伸びる。その時間が好きなのは、撫でている俺のほうかもしれない。
「寝よっか。」
そっと腕を緩めると、うんと頷いて顔を上げた。
いつか、来るのだろうか。恋しさを押し殺して寂し気な背中を見送らなくてもいい日曜日。同じ家に帰って来る日々。おはようとおやすみを、ただいまとおかえりを、毎日言い合う生活。
思いを巡らすだけならいくらだってできるけど、それは、俺だけでは作れない。
恋人の、その先へ、君と一緒に行ってみたい。決めた。この先の人生を、一緒に生きていく未来をつくる。あまり贅沢はさせられないだろうけど、今より少し広い部屋に引っ越して、日当たりのいいその部屋で、のんびり楽しく暮らせたら。そこに君がいたらそれだけで、きっと楽しい。
守っていくよ。これからも。だからそばにいて。手を伸ばせばすぐに抱きしめられる距離にいて。元気がないときは俺が笑わせるから。だから隣でその笑顔を見せて。
今はまだ、思うだけ。想像するだけで緊張してくるけど、準備を少しずつ進めて覚悟ができたら、そのとき君に伝えるよ。
二人で過ごす休日は、まだ特別。これが変わらぬ日常になるのは、まだ少し先の話。
珍しく腕の中に納まって、早々に眠りに落ちた日菜の気の抜けた寝顔。
温もりを抱きしめて決意を固める。土曜日。大阪での23時。
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