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備忘録

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2022年3月の記事一覧

「美と死」

  桜の綺麗な季節がやってきた。よく言われることだが、桜は古来より散り際こそ最も美しいとされてきた。もちろん、その所以は『散る≒死の匂い』という図式が的確に当てはまるからだという論評は巷に腐るほど溢れている。では、「死」とは即ち「美」なのか。これはかなり微妙な部分である。本来死とはあらゆる生物が忌避するものであり、人間とて例外ではない。それゆえ人は自分の死を遠ざけ、目を逸らそうとする。しかし、他者

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「『距離』の感覚」

  近代の合理性とは宗教や既存の価値観、俗世的な思考から脱却し「距離」の感覚を否定することで普遍性を志向する試みであったと見なすことができる。

  ここでいう「距離」とは竹内啓の論じた「遠近法」の感覚に近いものであり、時間的・空間的・心理的な尺度によって事象を把握し位置づける人間本来の性質と言える。例えば、あなたが日本で生活していている日本人の場合、イギリスでのイギリス人殺害事件の報道より日本で

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「個性、孤性、噓性」

   個性とはなんだろうか。よく「その人らしさの事だ」というが、では一体、"その人らしさ"とはなんだろうか。私はこの言い回しそのものに少し引っかかりを感じてしまう。"その人"はこの地球上にたった1人しか存在しないのに、あたかも"その人らしさ"という属性を共通に有する人が複数存在し、その分類に当てはまると言われているような印象を受けるからだ。そして、らしさという同属性を共通に有する人間を想定している

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「片付けを巡る"とうそう" 」

    よく部屋が散らかる。部屋は自分の心内を表すのだから綺麗にしなさいとよく言われていた気がする。確かに、これが私の心の写鏡であるというならば納得する。一見乱雑でごちゃ混ぜ、しかし自分にとっては緻密に計算された利便性の高い空間である(と思うようにしている)。もしも心が可視化できたならきっと自分の心もこんな様であるのだろうと思ってしまう。

    片付けとは難儀な試練であり定期的に訪れる。本を戻

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「当たり前という病」

  タイトルは見てわかるように「普通がいいという病」という本のタイトルからインスピレーション(ただの真似)を得ました。

   最近、何かと友人や家族から「常識的に考えて~」「普通は~」と言われることが多く内心辟易としていたのですが、これらの言葉のさす普遍性の適用範囲は本当に妥当なのか?、そもそも普遍的な選択とはなんだろうか?という素朴な疑問が頭をもたげてきました。そこで「普通の選択」「当たり前の

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「推し学」

    アイドルやアニメ、VTuberなど自身の行為対象を「推す」という行為が言葉として定着してからかなり経った。最近では「推し、燃ゆ」など当該行為に着想を経た文学作品が高く評価されるなど日本語の新たな語彙としてその地位を確立しつつあるようにさえ思う。本稿はそんな「推す」という行為について教授を受けたばかりの私がこの行為に係る様々な思索を書き連ねる、そんな文である。

1.「推す」に媒介された主体

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「語生産の誤りに関する考察」

浅学ではあるが、形なりにも言語学を学んでいると脳と言語を巡る課題について学ぶ機会が多い。今回はその中でも特に脳と言葉産出の食い違いに関する事例から始め、最終的には思考は言語によって固定されうるか否かという問いに対して現段階での私なりの見解を述べたいと思う。

1.tongue-tip現象これは俗に「舌先現象」と呼ばれるもので「喉まで出かかってるんだけどあれはなんだっけ…ほら、あれだよ、あれ」みたい

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「自性の理解」

    自分に対して素直になる、というよくある言い回し。これは案外難しいのだと気づいた。なぜなら自分とは単数で語れる存在ではなく、むしろ複数としての集合に他ならないからだ。従って自分というのが何を指すかは一意的に定義されるものではなく、自分の中でも知らなかった自分(自性)に気付かされることが多い。つまりは、私が何者かを問うには私を何者かにせねばならないのである。それゆえ、自分を真に理解することは大

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「言葉を借る」

   いきなり唐突な自分語りにはなってしまうが、私は他人の言を借りて話すことがかなり苦手である。紛いなりにも哲学を学んでいこうとする身としては如何なるものかという指摘もあるだろう。しかし、自分の言葉に対する責任は真に自分の中から生成した言葉の及ぶ範囲においてしか持ちえないという一端の強迫観念が常に心の内にあるのだ。そしてこれが自分の文章や表現にある種の桎梏となっていることに気づいたのはつい最近の事

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