「言葉を借る」

   いきなり唐突な自分語りにはなってしまうが、私は他人の言を借りて話すことがかなり苦手である。紛いなりにも哲学を学んでいこうとする身としては如何なるものかという指摘もあるだろう。しかし、自分の言葉に対する責任は真に自分の中から生成した言葉の及ぶ範囲においてしか持ちえないという一端の強迫観念が常に心の内にあるのだ。そしてこれが自分の文章や表現にある種の桎梏となっていることに気づいたのはつい最近の事である。

    他人のエッセイや批評、論文を読めばほとんど「○○の~」、「○○によるところの~」などの表現に出会う。その度に私は、その言の元の所有者に対する理解や共感を更に深めた応答(これを勝手に「同期」と呼ぶことにする)が、執筆者は十全になし得ているのか、そして意味の二次以上の伝達存在にしかなり得ない読者(私)もその複数人の言をきちんと引き受けられているのだろうかという疑念に囚われてしまう。勿論、他者から得た意味は自分の中で独自に昇華し血肉とすべきという意見が最もであるのも分かる。しかし他人の言に安住し、それらしい言葉を野放しにすることにどうしても抵抗感が生じてしまう。借りるという行為は現実世界に置き換えれば、少なからず貸し手に影響を与えるものである以上我々は行為への責任を意識する。しかし、「引用」「援用」etc…など文章中における「借りる」行為は借り手が責任を引き受けきれていない気がしてしまう。発言に対する意味内容を完全に同期できている保証も確信を得ることが不可能な以上、自身の中から生成した言葉に頼る他無くなるのである。

    だからといって今のところは明確な打開策もないし、時間とともにそれなりの妥協、折り合いをつけて「書き方」を学んでいくのだと思う。ただこんな些末な違和感があったことを自己満足の文の中でも記録しておくことには何らかの意味があると思うのだ。そしてそれが、言葉への責任を引き受けるということなのかもしれないと言う思いが脳裏をかすめてこの文を後にするのである。

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