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些細な思考の放流場

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スピノザ:神の本性の必然性に関するエッセイ(2018.)

「自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない。一切は神の本性の必然性から一定の仕方で存在したり作用したりするように決定されている」 日常生活において我々人間は常に「選択」を繰り返している。ある調査によれば人が一日にする「選択」は無意識のものも合わせれば数千・数万にも及ぶという。故に我々はこの世界・人生を自己の選択で創り上げているという実感を伴いながら生き、自由意志を備えた存在であることを疑いもなく当然だと考えている。しかしスピノザは主張の一文において人間の自由意志の存在

    • 「自然体」ということ

      自然体でいる、ということの意味を最近考える。様々なコミュニティに属しその内を転々とする日常の中で私にとっての「自然体」はどこなのだろうかという疑問が大きくなっている。もちろん、今私の属するどの集団もほとんどが自発的動機に基づいた私にとって居心地のいい縛られない場所だ。だから、自分を取り繕っているなどという気は全くしないが、確かに場所によって強調している自分の箇所が違うなとも思う。それに付随して、属することで無視されてしまった自己の他側面を独りの状態において回収する行為

      • 「存在を問うことはなぜ難しいのか」

        私たちはこの世界に存在することは疑いようのない事実である。しかし「存在する」とはどんなこと(現象)であるかを尋ねると議論は一気に複雑化する。 というのも、私たちの身の回りにある事物や出来事は相互連関のもとで存在しており「~のための○○」という構図を棄却し○○単体の存在の意味だけを開拓していくのは困難を極めるからだ。また、そもそも「存在」は私たちの感知されない時点から表出し事物を根幹を支えるという見方をとるならば、「存在」を定義づける根源的な存在は一体どこに由

        • 「他性について」

          私は人との対話において真に分かり合えたと感じる瞬間が記憶にある限りほとんどない。大概は相手の分かったような反応にどこかで失望し、それからは相手の返して欲しい反応を適当に返すだけ。相手は満足するし私もそれ以上徒労感を感じずにすむ。たまに議論できると感じた人も自分の世界と相手の世界が異なるがために差異ばかりを意識してしまい共感というよりはむしろ妥協を許してしまう。 しかし最近、もう少し他者に委ねていいと思える部分が増えてきた。分からないも肯定し、分かり合えないも等しく肯定してい

        スピノザ:神の本性の必然性に関するエッセイ(2018.)

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        • 備忘録
          9本

        記事

          「美と死」

          桜の綺麗な季節がやってきた。よく言われることだが、桜は古来より散り際こそ最も美しいとされてきた。もちろん、その所以は『散る≒死の匂い』という図式が的確に当てはまるからだという論評は巷に腐るほど溢れている。では、「死」とは即ち「美」なのか。これはかなり微妙な部分である。本来死とはあらゆる生物が忌避するものであり、人間とて例外ではない。それゆえ人は自分の死を遠ざけ、目を逸らそうとする。しかし、他者の死は別である。一口に死と言っても私は「自分の死」と「他人の死」は別種のものだと

          「美と死」

          「『距離』の感覚」

          近代の合理性とは宗教や既存の価値観、俗世的な思考から脱却し「距離」の感覚を否定することで普遍性を志向する試みであったと見なすことができる。 ここでいう「距離」とは竹内啓の論じた「遠近法」の感覚に近いものであり、時間的・空間的・心理的な尺度によって事象を把握し位置づける人間本来の性質と言える。例えば、あなたが日本で生活していている日本人の場合、イギリスでのイギリス人殺害事件の報道より日本での日本人殺害事件の報道の方が遥かに興味を持つだろう。しかし、このような感覚は近代

          「『距離』の感覚」

          「個性、孤性、噓性」

          個性とはなんだろうか。よく「その人らしさの事だ」というが、では一体、"その人らしさ"とはなんだろうか。私はこの言い回しそのものに少し引っかかりを感じてしまう。"その人"はこの地球上にたった1人しか存在しないのに、あたかも"その人らしさ"という属性を共通に有する人が複数存在し、その分類に当てはまると言われているような印象を受けるからだ。そして、らしさという同属性を共通に有する人間を想定している時点で個性の含意する唯一性に反しているわけで説明としては正しくないように思える。

          「個性、孤性、噓性」

          「片付けを巡る"とうそう" 」

          よく部屋が散らかる。部屋は自分の心内を表すのだから綺麗にしなさいとよく言われていた気がする。確かに、これが私の心の写鏡であるというならば納得する。一見乱雑でごちゃ混ぜ、しかし自分にとっては緻密に計算された利便性の高い空間である(と思うようにしている)。もしも心が可視化できたならきっと自分の心もこんな様であるのだろうと思ってしまう。 片付けとは難儀な試練であり定期的に訪れる。本を戻さずに散らかっていく、服をしまわずに積み重ねていく、疑いもなく全てが自分の行動に

          「片付けを巡る"とうそう" 」

          「当たり前という病」

          タイトルは見てわかるように「普通がいいという病」という本のタイトルからインスピレーション(ただの真似)を得ました。 最近、何かと友人や家族から「常識的に考えて~」「普通は~」と言われることが多く内心辟易としていたのですが、これらの言葉のさす普遍性の適用範囲は本当に妥当なのか?、そもそも普遍的な選択とはなんだろうか?という素朴な疑問が頭をもたげてきました。そこで「普通の選択」「当たり前の選択」の成立条件とは何かをひたすらに考えてみる、本稿はそんな文です。 ま

          「当たり前という病」

          「推し学」

          アイドルやアニメ、VTuberなど自身の行為対象を「推す」という行為が言葉として定着してからかなり経った。最近では「推し、燃ゆ」など当該行為に着想を経た文学作品が高く評価されるなど日本語の新たな語彙としてその地位を確立しつつあるようにさえ思う。本稿はそんな「推す」という行為について教授を受けたばかりの私がこの行為に係る様々な思索を書き連ねる、そんな文である。 1.「推す」に媒介された主体と客体の関係 推すことには当然対象が必要となり、一般的にはそしてその対象に

          「推し学」

          「語生産の誤りに関する考察」

          浅学ではあるが、形なりにも言語学を学んでいると脳と言語を巡る課題について学ぶ機会が多い。今回はその中でも特に脳と言葉産出の食い違いに関する事例から始め、最終的には思考は言語によって固定されうるか否かという問いに対して現段階での私なりの見解を述べたいと思う。 1.tongue-tip現象これは俗に「舌先現象」と呼ばれるもので「喉まで出かかってるんだけどあれはなんだっけ…ほら、あれだよ、あれ」みたいな状況を想定してもらえればわかりやすいかと思う。この事象を詳細に調べていくと話者

          「語生産の誤りに関する考察」

          「自性の理解」

          自分に対して素直になる、というよくある言い回し。これは案外難しいのだと気づいた。なぜなら自分とは単数で語れる存在ではなく、むしろ複数としての集合に他ならないからだ。従って自分というのが何を指すかは一意的に定義されるものではなく、自分の中でも知らなかった自分(自性)に気付かされることが多い。つまりは、私が何者かを問うには私を何者かにせねばならないのである。それゆえ、自分を真に理解することは大変な作業である。しかし極限の思考の中で、あるいはふとした何気ない瞬間に、いわば直

          「自性の理解」

          「言葉を借る」

          いきなり唐突な自分語りにはなってしまうが、私は他人の言を借りて話すことがかなり苦手である。紛いなりにも哲学を学んでいこうとする身としては如何なるものかという指摘もあるだろう。しかし、自分の言葉に対する責任は真に自分の中から生成した言葉の及ぶ範囲においてしか持ちえないという一端の強迫観念が常に心の内にあるのだ。そしてこれが自分の文章や表現にある種の桎梏となっていることに気づいたのはつい最近の事である。 他人のエッセイや批評、論文を読めばほとんど「○○の~」、「○

          「言葉を借る」