「自然体」ということ
自然体でいる、ということの意味を最近考える。様々なコミュニティに属しその内を転々とする日常の中で私にとっての「自然体」はどこなのだろうかという疑問が大きくなっている。もちろん、今私の属するどの集団もほとんどが自発的動機に基づいた私にとって居心地のいい縛られない場所だ。だから、自分を取り繕っているなどという気は全くしないが、確かに場所によって強調している自分の箇所が違うなとも思う。それに付随して、属することで無視されてしまった自己の他側面を独りの状態において回収する行為を繰り返すうちに自己の根源に微かな揺らぎを感じてしまう。
考えればこれは突き詰めると一般的には自己の複数性、アイデンティティの分裂につながる問いなのかもしれない。が、私自身が本当の自己といった固定的な概念はそもそも存在自体が仮構のものだ、という立場を取っている以上は「立ち顕れるどんな自己も自己としては他の自己と等価的な存在であり、それも変化ではなく常に新規性を伴って内部から創発し続けるものだ」と言わねばならない。
私に取って自己とは、湧き続ける泉のようなイメージである。泉は、地下(水源)から常に新たな水が現れ続けることで全体としてはさも泉という物自体が変化し続けているように見える。自己もまた、内部からの現れの継続性をあたかも自己の"変化"と見ているので共通性から「泉:自己」の対比が実現されるという訳である。
結局は「自然体」の概念の基にある「不変の自己」のような前提自体が誤謬ではないのだろうか。あたかも「自己」という核を保持しているように錯覚してしまうからこそ、私たちは本質を欠いた場所でただの言葉遊びだと気づかず「自己」という幻想に翻弄されてしまっているのかもしれない。
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