「『距離』の感覚」

  近代の合理性とは宗教や既存の価値観、俗世的な思考から脱却し「距離」の感覚を否定することで普遍性を志向する試みであったと見なすことができる。

  ここでいう「距離」とは竹内啓の論じた「遠近法」の感覚に近いものであり、時間的・空間的・心理的な尺度によって事象を把握し位置づける人間本来の性質と言える。例えば、あなたが日本で生活していている日本人の場合、イギリスでのイギリス人殺害事件の報道より日本での日本人殺害事件の報道の方が遥かに興味を持つだろう。しかし、このような感覚は近代以後長らく排他主義、過度なナショナリズムに繋がりかねないとし批判の的とされてきた。確かに狂信的な一部のカルト宗教による凄惨な事件、戦前の我が国における超国家主義のもたらした弊害、現在も世界に残る民族主義的な問題にこの感覚が根幹に存在することは疑いようのない事実である。しかし、「距離」の平均化・脱却化もまた新たな弊害を生み出しつつあることに私たちは気づかなくてはならない。

  近代の合理性はある種の美的感覚に裏打ちされた調和感覚である。しかしグローバル化という名の人々の混在化、情報化社会の進展につれ空間的な「距離」が必ずしも心理的な「距離」に対応しなくなり、普遍性によせる我々の期待は今や名ばかりのものとなりつつある。あまりに様々な対象の「距離」を平均化しすぎたがために我々の中に存在していた固有性が希薄化し、返って普遍という語の指す意味内容を狭めているのではなかろうか。

  近代以前の諸学が、多様な考え方を創出し時の試練に淘汰され醸成・深化されていったのに対し、近代以後の諸学は相互の差異を看破するだけの相対主義一辺倒に留まるようになってしまった感がある。だからこそ、現代社会における思考の閉塞感を打破するにはもう一度「距離」の感覚を復刻させ、視点を自在に操る柔軟性こそが求められていると考えるのである。

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