スピノザ:神の本性の必然性に関するエッセイ(2018.)

「自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない。一切は神の本性の必然性から一定の仕方で存在したり作用したりするように決定されている」

  日常生活において我々人間は常に「選択」を繰り返している。ある調査によれば人が一日にする「選択」は無意識のものも合わせれば数千・数万にも及ぶという。故に我々はこの世界・人生を自己の選択で創り上げているという実感を伴いながら生き、自由意志を備えた存在であることを疑いもなく当然だと考えている。しかしスピノザは主張の一文において人間の自由意志の存在をきっぱりと否定する。この主張には多くの人が納得しかねるであろう。「神」という一見非現実的な存在を持ち込み、そしてその全てが「必然」である、とするこの 2点か理解を得難い所以だろう。だが、彼の 主張を額面通り受け取り論じるのは、非常に的外れなことである。そこで主張内の言葉に対する彼なりの定義を確認した後「神」なる者の正体及び「必然」であるとする妥当性についてそれぞれ考察していきたいと思う。

  まず、彼の主張中の語句に関して彼の著作「エチカ」より定義を確認する。「神」とはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成る実体として用いる。「必然」とはある一定の様式において存在し、作用するように他から決定されることを指す。この定義から我々の知る所の「神」と、彼の言う「神」の認識の差異が確認できる。これらを踏まえ次に移っていこう。
第一に「神」とはいかなる者であるのか、という問いについて考えてみよう。一般に、 「神」というと畏怖すべき全知全能の創造主、 信仰の対象たるべき存在といった認識であろうか。しかしここでの「神」とはそういった宗教的側面を全く有さない。むしろ「神」自体が「エチカ」の中で副次的な存在、ある種の論理的終着点のように扱われてることに注目したい。彼によれば我々が知覚し得る全てに知覚されるべき属性が内在しているという。つまり属性とは事物が実体をもつための必須要素だと考えられる。ここで複数の実体が一つの実体をつくり上げている場合(実体Aとする。)を仮定する。このとき実体Aの存在が我々に保障されるには、実体Aが自己を構成する実体にそれぞれ備わる属性を有する必要があることになるだろう。この考えをこの世界に適用する。世界(地球)を一つの実体として仮定するとき、その実体を保障するためには、この世界を構成する全ての有機物・無機物の実体を保障するそれぞれの属性を網羅している必要がある。換言すれば世界は、世界中の実体に存する全ての属性を持っていなければならないということである。そして時間的な広がりを考えたとき今の地球、一秒前、一秒後の地球は別の実体であるため時間的な広がりを持った地球を保障する実体Xが必要になってしまう。絶対に無限な実有である実体X、そうこれこそが「神」ということなのだろう。実体たる全ての属性をもつ唯一の存在、これすなわち「神」と定義することができる。この考えからすると植物もそして私も、 「神」の様態の一つにしかすぎないことになる。つまり彼の主張とは神による天地創造 という神秘めいたものではなく、「神」は何も創らない。事物に様態化し、変状している ということなのだ。「神」とは、この世における実体の総称であり全ての実体そのものである、ということが問いに対する答えとなろうか。この「神」の特質を踏まえた上で二つ目の問いについて考えていこうと思う。


  二つ目の問いは、神の本性の必然性により一切が決定されている、とする妥当性である。この主張を人間に置換して考えると、自然中に先天的に存在する見えざる何かによって私達の行動は定められている、ということになる。馬鹿げた運命論だと一蹴する人もいるだろうか。事実、私も当初この考え方の理解に苦しんだ。なぜなら経験上、私達が目的を定めそれを基に自由に行動していることは紛れもない真理であると思えたからだ。しかしここで私はある事に気付いた。それは 目的とは見えざる何かによって生まれているという事だ。つまり、私が行動する基となっている「目的」を考えたときにその「目的」はより根元的な目的のための手段であり、その根源的な目的も、より高次の根源的な目的への手段となっていく、という遡行を繰り返していくと何かが最終的にこの目的化の根元となっているのだ、ということである。この根元とは最早自己認知できるものではないと考えられ、私が特定の行動をするように意識の奥深くで駆り立てる何かである。この結論から、 私達が経験上確信していた自由意志の存在に疑問が生まれてくる。なぜなら私達の選択した行動は、遡ればその「何か」によって決定されていたことになるからである。また、私達はあらゆる科学法則によってこの世界を捉えている。そこで私達人間も単なる物質であると考えるならば、思考も意志も全て脳や体内の化学反応と捉えることができる。人が目的の下で行動するいかなる場合も、科学法則によってやはり決定されていたと結論付けることができないだろうか。
  前に述べた二つの結論からすると人間はどうしても自由意思を剥奪されることになる。そして私達の行動を操っている「何か」こそスピノザは「エチカ」の中で衝動である、と述べている。第一の問いより「神」はあらゆる実体になり得る唯一の存在であることが導かれた。つまり衝動もまた「神」の一部であることになり、私達人間は全て「神」の本性の必然性から決定づけられているという事実に帰結する。ここで断わっておきたいのは、 私は何も、人間を決まった運命をただ走るだけの装置と捉えるような悲観的な考えを示しているのではない。私はむしろ私達の行動の根源たる衝動にこそ、人類の本質と希望を見出せる と思うのだ。私の考える決定論の本質についてこれから説明していこうと思う。
まず、衝動とは何かをさせようとする力であり、単体としての意義を持たない力であると解する。衝動と、衝動に対する目的、そしてその目的に対する目的…というように衝動を出発点とし、そこに付随した目的を経由した後に行動という現実へのアプローチで完結する、この連続性において衝動は初めて意義を持つのだ。加えて衝動は、何かをさせようとする力で常に絶対肯定の立場を取り続ける。では衝動とはこの連続性において何を肯定し続けようとしているのか。分かりやすく換言するならば、衝動とは私達人間をどこへ誘う力なのだろうか。私はこれをアリストテレスの言葉を借り、「最高善」だと考える。私達は現に誰もが幸せを希求する。衝動によって目的のベクトルが最高善に向かうとき、この連続性を紡ぐ目的それぞれにつながる行動を人は幸せの探究と感じるのである。ここに私は人間の本質と人間に対する希望を見つけたのだ。一方で、考慮すべき点は、先の仮定によれば誰もが最高善を目指すはずだが悪事を働く者がいるのはどうしてなのか、という点である。人間は必然性の中に存在し、かつ最高善に向かおうとする衝動を根源とするならば悪人は生まれようがないよ ないように思える。しかしこの「必然」性は衝動から発し、目的の連鎖を通り行動へと至る経路が仮定として確保されて導かれ たものであることを思い出してほしい。つまりは悪人とは目的の一部が変質したり、目的解釈の違いによって生じた人間の亜種的な一状態なのである。そしてそのために悪人たる必然性を現時点で逆説的に負っているということなのだ。これは誰もに起こ りうる「必然の改変」である。最高善を目指すという「必然」性がありながら対極にある行動をする人が存在する原因はこれゆえではないか。そしてその目的があるべき姿に戻るか否かについては必然性と偶然性を同時に関わってくると私が感じていることを付記しておく。「必然」性によって決定されるのは衝動と行動の従属関係であり、 相互目的間のつながりについては議論の余地が残されているからである。したがって、 人間は衝動と行動の三段論法的な連続性によって定まった必然のもとに生きているが、その間となる相互自動化の隙間には自由の介在する可能性があると私は考える。 二つ目の問いに対する考えを総括すると、 「神」の一様態たる私達に内在する衝動によって私達の行動が決定されていることになり、「神」の本性の必然性により一切が決定されていると換言できる。しかしその必然とは決して絶望すべきものではなく、人間の目指すべき方向を導くものであり、ここに人間の求める最高善への道である。そして目的の連続内において自由の介在する可能性も残されている、ということである。

  最後に、これまで二つの問いを軸に広げてきた私の考えを総括したいと思う。前提として「神」とは創造主でも万能の力を行使する存在でもない。「神」は全ての実体たり得る絶対に無限な実有を持つ唯一の実体であり、全ての実体に等しい存在である。俗に言う「汎神論」だ。神は創造するのではなく、自身が変状することで世界を成立させていたのである。そして、それゆえに私達人間も神の一つの形であると結論づけることができる。
次に、私達の行動が神の必然性によって定められていることを論じた。私達は潜在的な衝動に端を発し、目的の連続から生じた行動を自由意志だと思い込んでいるにすぎないと説明できるのだ。しかし、衝動が私達を肯定し続けた先に待つのは最高善であり、ここに人間のあるべき姿を模索していく営みと自己の内外について考察していく行為への意味が生まれる。必然性から生じているからこそ、私達はその意味を考え、受け入れていくことで必然たる私達の生を自覚し、真の意味で生を味わうことができると私は主張したい。この選択の先に目指すべき対象が私達を待っているのだから。

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