「当たり前という病」

  タイトルは見てわかるように「普通がいいという病」という本のタイトルからインスピレーション(ただの真似)を得ました。

   最近、何かと友人や家族から「常識的に考えて~」「普通は~」と言われることが多く内心辟易としていたのですが、これらの言葉のさす普遍性の適用範囲は本当に妥当なのか?、そもそも普遍的な選択とはなんだろうか?という素朴な疑問が頭をもたげてきました。そこで「普通の選択」「当たり前の選択」の成立条件とは何かをひたすらに考えてみる、本稿はそんな文です。

   まず"普通"とは少なくともその単語使用者と周り複数名が是と認識することであることが必要です。つまりは数、多数決の原理ですね。しかし、それが当然であることには慣例としての過去の蓄積が他に必要となるでしょう。今までこうしてきたから、こうなってきたから次も同一である、という一種の帰納法的な精神が垣間見えるといえます。ではそれは、普遍的なものに同値なのでしょうか?私は「当たり前の選択」に対し疑念を抱く側ですから当然この問いへの答えは否です。例えば「人を殺してはいけない」という道徳的で普遍の最たる論理も、「罪を償わせるべく死をもってす」という法的な論理により容易く反例を持ち出されてその普遍性を奪われます。つまり物事は多面的である以上、画一的な普遍性はその普遍を共通に認めるコミュニティでのみ作用するが、それは外部を否定する根拠にはなり得ないということです。

   私たちは言葉に対する責任にあまりに無頓着なせいであまりに多くのことを見落としている気がします。説教めきますが、自身の当然があたかも他人の当然であると錯覚するのは、あまりに傲慢で軽率なことだといえます。恐らく私自身があまりに他人の感情を意識し行間を読みすぎる悪癖のために言葉の差異にここまで慎重になってしまう、というのは理解しています。しかし、私たちが言葉を発する時、文字を書く時、それは須らく世界に記録を残す営みであるのです。それ故に私たちは、責任を引き受ける独立した主体として他者という異質な存在と交わっていく意識が求められる、とも言えるでしょう。

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