「推し学」

    アイドルやアニメ、VTuberなど自身の行為対象を「推す」という行為が言葉として定着してからかなり経った。最近では「推し、燃ゆ」など当該行為に着想を経た文学作品が高く評価されるなど日本語の新たな語彙としてその地位を確立しつつあるようにさえ思う。本稿はそんな「推す」という行為について教授を受けたばかりの私がこの行為に係る様々な思索を書き連ねる、そんな文である。



1.「推す」に媒介された主体と客体の関係

    推すことには当然対象が必要となり、一般的にはそしてその対象に対し、実際に「自身に対しての直接的な見返り」を要請しないという特徴がある。(見返りを求めるのは「恋」「嫉妬」など別の感情の表象として退けられるという)言わば無償の愛(アガペー)に通ずる精神とさえ言えようか。ではそのある意味では決して報われないかもしれない可能性を孕んだ献身の根幹にある考えとはなんだろうか、と考えてみる。彼女が言うに、これは「私が対象を支えているという自己満足、責任感、義務感」に他ならないという。もちろん自分1人が支えている訳では無いことは理解しているが、自身を対象を支えるピラミッドの一部として理解することで「自己の存在に対する自信感、好意の対象の役に立っているという安心感」へと帰着し、生への活力を生み出すのだという。見ての通り「推す」とは主体から客体(対象)への一方通行の行為であることには間違いないが、これはキリスト教など宗教思想における神への奉仕と恩寵の関係に相似であると良く結論づけられることが実感できた。

2.「推す」ことによる同胞意識

    恋愛事において同一の相手を好きになってしまった場合、互いに敵対意識を抱くのが当然である。が、同質の要素を含むように見えながら、「推す対象が被る」ことは返って互いの同胞意識を強める作用を持つことが頻繁に見られる。この違いはなんだろうか。ここには「推す」行為における平等性の確約が影響していると考えた。1でも述べたように当該行為が直接的に実を結ぶことは限りなく少なく、皆が「推す」限りは等しく一方的な営みである事が確保されている。故に自己と他人の差異に優劣をつけて評価することなく、差異を一つの個性として捉えることが可能となる。ここに同じドグマ(同一対象を推す事)を共有するという結束感が加わるにより一つのネイションの如き一体感を創出しているのである。

3.まとめ

  この極めて現代的な行為の裏には、世界といった広い枠のみならず、自己という小さな枠においても私たちが抱えている諸問題への逃避意識が存在していることはまず間違いないだろう。今、必要なのは日常に溢れるこれら現代的な行為や考えを、俗世的で没価値的な概念だと一蹴し高尚に見えるものばかりを盲目的に追求するのではなく、広い物事それぞれを逐次一考しそこから何を汲み取り敷衍していくかということなのだろう。

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