「個性、孤性、噓性」

   個性とはなんだろうか。よく「その人らしさの事だ」というが、では一体、"その人らしさ"とはなんだろうか。私はこの言い回しそのものに少し引っかかりを感じてしまう。"その人"はこの地球上にたった1人しか存在しないのに、あたかも"その人らしさ"という属性を共通に有する人が複数存在し、その分類に当てはまると言われているような印象を受けるからだ。そして、らしさという同属性を共通に有する人間を想定している時点で個性の含意する唯一性に反しているわけで説明としては正しくないように思える。

   最近では誰もが個性的であろうと躍起になっているし(例外なく私もだろう)、社会自体の全ての差異を個性という体のいい言葉で片付けてしまおうという思惑も透けて見える。個性的であろうとするほど現代人は大概SNS(Instagram、Twitter、Facebook etc…)において発信力を求め、FF比をつけ数字上の空虚な人気度をそれとなく誇示したり、多数派に抗うことで自分を際立たせたり、いいねというマークの多寡で承認欲求や自己肯定感を満たそうとする。別に悪いことではないし、それにより影響力をもつこともしばしばなのは紛れも無い事実である。しかし、個性的であるとはこんなにもパターン化されたものなのだろうか。

   個性の象徴たるファッションも、新作会議にて個性という名の商品を「決めている」のである。お金を出せば同じ"個性"が"誰にでも"纏えるように。加えて、我々が商品として目にする衣服の個性とは、ビジネスライクのように「売れそうな個性」しか残らないよう審査・淘汰されてきた「個性」であり、その基準によるなら「売れない個性」は個性として不適格なのである。この例を以ってしてどうして個性が万人に保証された「らしさ」だと嘯くことができようか。社会の中で芸能人が「個性的」で会社員が「無個性」と見なされるのはどうしてだろうか。私は「個性を求める」という言葉そのものが「東京は大阪」のような言葉としての意味を成さないものだとすら思えてならない。個性を求めれば求めるほど本来の自己から離れ画一化していく皮肉に、そしてそもそも自己という不断に変化し続ける存在が個性という固定的なもので捉えられると勘違いしていること自体に個性という言葉の空虚さがある。



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