「美と死」
桜の綺麗な季節がやってきた。よく言われることだが、桜は古来より散り際こそ最も美しいとされてきた。もちろん、その所以は『散る≒死の匂い』という図式が的確に当てはまるからだという論評は巷に腐るほど溢れている。では、「死」とは即ち「美」なのか。これはかなり微妙な部分である。本来死とはあらゆる生物が忌避するものであり、人間とて例外ではない。それゆえ人は自分の死を遠ざけ、目を逸らそうとする。しかし、他者の死は別である。一口に死と言っても私は「自分の死」と「他人の死」は別種のものだと考える。自分の死は生きている間は絶対に経験できない唯一のものである。臨死体験はどうなのか、というご指摘もあると思うが臨死体験とはあくまで「死に臨んだ」だけであり死という経験の完結系ではない。従って自己の死は逆説的にも、生きている上では完全に未知であり私たちは不安や恐怖を抱く。
対して、他者の死は生きている中で私たちが経験することはしばしばある。そしてその死に様に私たちは故人の歩んできた道のりを想起する。だが、決して他人の死を自己の死に重ね合わせることを試みても前述の理由から不可能である。他者の死は絶対的な外部の現象に留まるだけで自己の死に対する如何なる体験ももたらさない。私たちが美を実感するのはこの死にほかならないのだ。外部から眺め、他人称から眺める他者死においては死に際に放たれる命の輝きが強調され、美意識を感化する。ここでの死は単なる現象に過ぎない。しかし自己の死はその強烈な当事者性のために美しさを感じられることも無いだろう。
つまり、私たちが死と美を関係付けて論じる際にはこの2つの死は確実に別種の事象であると認識しなければ、あまりにも空疎な議論に成り果ててしまうことを留意しておかなければならないのだ。そしてまた、自己の死を他者の死に重ねることは確実に達成されない命題であることも自明であると言えよう。
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