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「おんなは家庭」の時代に会社を支えた女性たち (その3)

離れていても私たちならデュエットできる

付き合った彼は地元と東京の二重生活の経営者

今から60年ほど前、1960年代に入ると日本は高度経済成長期を迎えた。
彼女は日本海側にある地元の大学の薬学部で学び、卒業後に薬剤師の資格を取得した。

当時つきあっていた相手は大学卒業後に入った会社を辞めて自分で製薬関係の商売を始めていた。
彼は最初は製品を仕入れて販売していたが、まもなく自宅の隣に工場を作って自ら生産に乗り出し、東京の営業所を販売の拠点にした。

彼は社長として、特に営業に力を入れ、ひと月の半分以上を東京で過ごし、その間は営業所の二階で、社員と共同生活をしていた。

やがて二人は結婚を考えるようになったが、彼は結婚後も東京と地元の二重生活を続けたいと語った。彼女は彼のいま優先することがあれば、迷わずそこに向けて行動する性格を知っていたので、それを了解して結婚した。

彼は東京で営業、彼女は地元で工場の責任者

一緒になると、当然のように仕事を手伝うことになった。彼は、彼女の専門を生かし、地元の工場の責任者にした。

彼は生産を任せることができるようになって、東京での販売にますます力を入れていった。

一度、こんなことがあった。日本海の強い北風が吹き荒れる冬に隣の家からのもらい火で、二人の住まいが焼けてしまったことがある。彼はすぐに工事業者を頼み、必要な指示だけすると、彼女を残して、すぐに東京に向かってしまった。

新婚のときから責任ある仕事を任されて心細くなかったかと、彼女に尋ねると「朝8時に工場が始まると慌ただしく時間が過ぎ、すぐに一日が終わるので、心細いなんて感じる暇はなかった。東京に行ってしまう彼が帰ってくる二週間も、あっという間に過ぎました」という言葉が返ってきた。
一緒になって一年が過ぎると、二人に男の子が生まれた。仕事をしながらの子育てだったが、同居していた彼の母親が家事や育児を助けてくれた。

物流も、役所も平身低頭でお願い

彼女は心細くなかったと笑ったが、いろいろ聞いてみるとやはり苦労はあった。

工場で製造した製品は東京の営業所に送る。宅配便などなかった当時、製品は国鉄(民営化される前のJR)の駅までに持って行くか、一手に引き受けていた日本通運に引き取りに来てくれるように依頼した。

国鉄は国の経営する組織、日本通運は戦争中は国営企業であった。そうしたこともあって当時は国鉄の窓口も日本通運の窓口もいつも威張っていた。出荷時間がギリギリになると嫌みを言われ、頭を下げるようにして頼んでも、しかたないからやってやるといわんばかりの態度で荷物を受け取った。
それが普通だった。

役所の窓口の担当もまた、いまでは想像できないほど居丈高な者も少なくなかった。設備の関係で役所への許可の申請に行くのは彼女の役割だった。

あるとき、役所に出向く彼女も手間や時間をかかることを覚悟していた。ところが実際に行ってみると、予想外にスムーズに受理される。

ほっとする彼女の背中には幼い子どもがおぶわれていた。「息子を背負って行ったのが、よかったのかもしれません」と彼女は笑った。

新設工場でも機械設備は中古

会社は徹底したローコスト経営だった。無借金経営を遵守し、必要な資金はすべて自己資金でまかなった。

それは社長である彼の創業期に銀行はほんとうに困ったときにはお金を貸してくれないという経験から来るものであった。彼は自分の報酬を全額預金し、ふつうは借り入れでまかなう新工場の建設資金も、自らの預金を使った。

彼女が任された工場もまたローコストで行った。機械や道具類は、中古で手に入れて補修してから動かすのがふつうだった。その後、新工場ができてからも、しばらくは同じやり方で、多品種少量生産ということもあり、現場は機械の調整に忙しかった。

ちなみに彼女は彼の報酬がいくらかまったく知らなかったし、一度も預金通帳を見たことがなかったと言う。

その頃、一緒に働いていた社員のひとりは二人のことを次のように語った。
「社長はどんどん前に進む方で、ときには冒険と思えるようなことにも挑戦していきます。その様子にとまどっている社員がいれば、夫人がその社員と時間をかけて話しをする。そんな光景を何度も目にしました。おふたりはほんとうに名コンビだったと思います」

その後、会社は成長し、プライム市場に上場へ

それから40年あまりの時間が経ち、そのあいだ会社は成長し、やがて長男が入社した。その息子が後継者としてめどが経った頃、会社は店頭公開した。
念願の店頭公開であり、ふたりにとっては長年がんばってきたご褒美のように感じた。

それからまもなく突然ふたりにとって別れのときがきた。

彼が病魔に倒れた。倒れてから亡くなるまではあっという間だった。
残された彼女は会長として、息子である会社のあとを継いだ二代目の社長を支えた。

さらに時間が過ぎて、いまでは家族とは別の人が三代目社長が経営の舵を取り、東証のプライム市場に上場している。社員は1500名を越え、そのうちの半数は海外に展開する事業所に勤務している。

いまでは国内の関連業界の一角を担う会社になっているが、その歴史はふたりが遠く離れた場所に離れていながら一緒に同じ歌を歌ったことから始まった。

この文章は事実を元にしたフィクションです。掲載されている写真はすべてイメージです。



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