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「おんなは家庭」の時代に会社を支えた女性たち (その2)

「わが子のように気にかけて、わが子のように世話をした」〜陽子さんの場合

「仕事の入門書やガイドブックなんてなかった」

「毎日、朝8時になると工場の機械にスイッチが入って動き始めます。機械をよけるように片隅に置かれた事務机に座って私の仕事が始まります」 

陽子さん(仮称)は朝一番にかかってきた電話の受話器を取ると「おはようございます!Y社です。ご注文の製品は約束どおりにそちらへ9時前にはお届けできると思います。よろしくお願いします」と返事をし、納品書を書いて専用ボックスに入れるのが日々の仕事のスタートだ。

すぐに夫である社長がたまった納品書を手に取ると、そのまま小型トラックに乗り、得意先への納品や営業回りに出かける。

陽子さんは会社でただひとりの事務員だ。「ひととおり朝の電話が終わると、出納帳の記入、工具商やガソリンスタンドからの伝票の整理です」。

整理をしている間に引き合いの電話が入ればメモを取り「はい。かしこまりました。社長は正午前に戻りますので、折り返し電話をするように伝えます」と返事をする。

スムーズに仕事を進められるになるまでには時間がかかった。結婚当初、いきなり事務の仕事をまかされ、とまどった。会社を経営している相手と一緒になる以上、仕事の手伝いをすることは理解しているつもりであったが、まさかどうしていいかわからないことがあっても、すぐ聞くことのできる人がいないまま、ひとりにされるとは思っていなかった。

日々の決まった仕事に加えて、月末になると従業員数人分の給料を計算し、現金を用意してひとりずつ袋に入れて社長に渡す。得意先宛てに請求書を書いて送る仕事もあった。

「いまのように書店に行けば入門書やガイドブックが並んでいるなんてことはありません。最初はほんとうにどうしていいかわからなかった。それまで社長が夜やっていた伝票を見てなんとかまねしたものの、それがいいのかどうかも判断できないで、しょっちゅう会計事務所に電話して聞いていました」。

こうした日々を積み重ね、やがてひととおりのことは自分一人でもできるようになった。

千葉の働くおんなの人たちに支えられたお昼ご飯

事務仕事以外にもしなければいけないことがある。「午前中の仕事を急いで片付けて11時30分を過ぎたら、従業員のお昼のしたくです」。いまのように宅配のお弁当サービスはなく、近所に商店街はあるが、そこまで出かけると、お昼休みが始まる正午までに間に合わない。

「なんとかなったのは千葉のおばさんのおかげです」。千葉のおばさんとは誰か。

当時は、房総で採れた新鮮な野菜や魚をはじめ、干物や惣菜を背中にめいっぱい背負って電車で毎日のように工場の前まで通ってきてくれる農家や漁師の奥さんたちがいた。彼女たちも嫁ぎ先の家業を担う女性たちだった。その彼女たちが陽子さんの工場の食事の材料を支えた。

その食材を使い、両親と夫婦、子どもの家族5人分と、住み込みで働く従業員2人分の食事を作った。

「お昼のベルが鳴ると、住み込みの従業員は工場から、わが家の居間に来て、私たち家族と一緒に食卓を囲み、お昼を食べていました。まだテレビはたいていの家庭になかったころで、NHKのお昼のラジオを聞きながら食べていたのを覚えています。その他にもベテランの職人さんが3人いて、3人は結婚していて近所に住んでいたので、お昼は、自転車で家に帰って食べていました」

親から子どもを預かる気持ちで

 工場で働いている従業員は、この時代の都内の中小企業がそうであったように大半が中学校を卒業し、東北や北陸などから長時間、列車に乗って都会に出てきた若者たちだった。年齢から言えば若者というより、まだ子どもだ。その子どもたちが親元を遠く離れて、地方から見知らぬ町に住み込みで働きに来ていた。ほとんどの者は、すぐ会うことのできる場所に身よりはいない。

当時のことだからネットやスマホはない。商売でもしていなければ電話がない家がふつうだったから、故郷にいる家族や友だちに連絡するのは手紙だった。子どもでも親兄弟を不安にさせるような弱音をはけないことはわかっていたので、手紙の内容はいつも元気にしている様子だ。

そんな子どもたちを町工場や商店が従業員として受け入れた。受け入れる側は親の代わりという気持ちで受け入れた。陽子さんの会社もそうしたうちのひとつだった。

「みんな育ち盛りですから、お昼は、たっぷりのご飯とおかずをひと品、おみおつけ(味噌汁)に、佃煮と漬け物などの献立にしていました」陽子さんにはさいわい、子育てや家の家事のいくつかは同居の義母が引き受けてくれた。

毎日、忙しいけれど、やり甲斐があった。

従業員の人生と一緒に歩んだ50年

事務と食事づくりといった日々の仕事を行いながら、採用した従業員が一人前の職人なれるように手を尽くした。地方から出てきて、毎日めいっぱい仕事をしている従業員たちは同世代の異性と知り合う機会もなかったし、たとえ知り合ったとしても、異性とどう話していいのかもわからなかった。世間で結婚する人の半分が見合いだった時代のことだ。

「私は親戚や近所の人に、うちで働く人の結婚相手としてよさそうな人がいたら紹介してくださいと頼んでおきました。そこで候補の方がいたというお話しをいただくと、従業員本人が望めばお見合いを準備しました」。

めでたく結婚が決まると、社長が新居のアパートの契約の保証人になった。

「私たち夫婦は、全部で12組の仲人をしました」。

従業員が新しい家庭を持ち、やがて奥さんの妊娠すると、陽子さんが助産婦さん(当時は助産師をこう呼んだ)を紹介し、無事に出産することを見守った。子どもが生まれたあとも、育児の悩みを聞いて、相談にのった。

そうした日々を積み重ね、やがて時は過ぎ、長男が入社して、その8年後には二代目の社長になった。創業者が経営の一線をしりぞくと、陽子さんも一緒に会社での役割を終えた。

そして、2007年に会社の創業50周年と夫妻の金婚式の合同記念式典が盛大に行われた。かつて住み込みで働いた従業員とその家族数組がお祝いにかけつけ、元気なY夫妻と、楽しい歓談のひとときを過ごした。

時代が変わって新しい経営者のもとで会社はさらに成長した。組織は大きくなったが、創業者夫妻が築きあげた経営者と社員、社員と社員が思いやる会社の文化は今も色あせることなく続いている。

この文章は事実を元にしたフィクションです。


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