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NVCが恵那にやってきた・『わかるー!』は共感か ~NVCお話会レポート①~

新年明けてまもなく、我が家でNonViolenceCommunication
(NVC)を知るための『NVCお話会』をかおりんこと土屋香織さんをファシリテイターに迎えて開催した。

オレのこのnoteでも何度か言及したことがあるNVC=非暴力コミュニケーション。共感コミュニケーションとも言われ、他者と自分自身をお互いに尊重しあえるコミュニケーション法として、近ごろでは日本においても学校や企業、家庭、コミュニティー、社会活動などに取り入れられるなどさまざまなところで注目され始めている。

そんなNVCについてかいつまんで説明するのは難しくオレも全容をつかめているかは定かでないが、今回はNVCというものをまだ知らない人にも何かのきっかけになってもらえればという思いで書いてみる。
NVCについて数えるほどの体験や講座、書籍からの知識得たに過ぎないことはあらかじめおことわりしておく。ここで書くことは、一応自分が学んだことが元にはなっているが、正確を期すなら提唱者のマーシャル・B・ローゼンバーグ氏の著書かNVCJapanからの情報発信を見ていただくことおススメする。

そこでまずはオレがNVCを知った経緯、そして今回我が家でのお話会開催の経緯と合わせて少し話をしたい。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。(表紙の画像はかおりん撮影)

NVCとの出会いと再会

オレとNVCのかかわりは5年以上前にコーチングをしていただいたコーチからこの方法を教わったことから始まった。
他者に対する怒りや不満、自分自身に対する憤りなどに晒されて圧倒されていたこの時期、コーチによってこのNVCの方法で自分の根源的なニーズに触れることに導いてもらったら、自分を大切にしたいという気持ちと、怒りの中に留まるのでなく前に進みたいという気持ちと、その上で相手のニーズを推測していくと、この人の大事なことはこういうことなのかもしれない、と腑に落ちて絶対わかりっこないと思っていた相手のことを思いやれるようになったという非常に強烈な体験をして、何なんだこれはと目からうろこが落ちた思いだった。

それにNVCの方法の構造が非常にシンプルで、基本的には「観察→感情の気づき→ニーズの気づき→リクエスト」という手順に収められることも自分にとっては受け入れやすかった。

何より「非暴力」の言葉通り、だれも傷つけず、仕返しとか、見返してやるとかでもなく、だれもが尊重され、ただただ自分も相手もその生き方を尊いものとして奥底から感じられる、というところに、他のどのコミュニケーション法、例えばマネジメント術とか心理操作的なものとは違うものを感じている。

それ以来NVCをより日常に落とし込みたくて、書籍を読んだり単発のオンラインワークショップを受けたりもしてみた。また自分一人でできる、自己共感と呼ばれるワークを繰り返してきたこともある(自己共感については後述)。

ただもちろんオンラインでもNVCの実践をすると毎回深い体験はできるのだけど、そのうちやはりリアルな場を求めたくもなってくる。しかしNVCのコミュニティにアクセスしようにも、大抵は東京や名古屋のような都市部まで出向かなければならない。都会から離れた恵那界隈ではNVCのようなムーブメントはなかなか来ないだろうなあと、いうあきらめ感の中、やはり距離的な何かからくる何かがあれして、振り返ってみるとNVC的なあり方からだんだん遠ざかっていたように思う。

そのように自分のニーズをなおざりにしてきたせいか、最近になってどうも心がざわつき苦しい日々が続いた。そんなこともあって何かまたNVCを気に掛けることが増え、自己共感を再開してみたりしていた。するとそのタイミングで、なにやら最近恵那にUターンした方がNVCについて学んできたらしいという情報を妻が寄せてきた。それがかおりんであった。

そうしてかおりんと知り合って、一度遊びに来てもらった我が家の古民家的な日本家屋を気に入ってもらえて、あれよあれよという間に我が家を会場にNVCのお話会と共感サークルを開催することになったのがコトの経緯である。

必要なときに必要なことが起こる。オレは引き寄せとかマジでどうでもいいんだけど、まさに求めていたタイミングで再びNVCを通して自分自身と他者に向かい合うこととなった。

NVCお話会

そうして迎えたお話会。リアルな場での実践で何が起きるのか、目をそらし続けてきた自分の生身の部分をごまかせなくなってしまうのではないか、自分と向き合う辛さを味わうのか、と少し怖くもあった。

共感と共感でないもの

今回は初めてNVCに触れる人も多かったのだが、NVCで使う「共感」は、一般的な「共感」と少し違う、ということをまずは学んだ。

わかりやすく言えば「それわかるー!」などはNVCでは共感でない。かおりん曰く誰にスポットライトがあたっているか、がそれを分けている。つまり、それわかるー!は話者の経験を自分の価値観に照らし合わせて痛みを共有しようとしているが、実はすでにスポットライトが自分に移っていて、話者が大切にしているものがスルーされてしまっている。
NVCでの共感とは、自己や他者の「ニーズ」を推測し受け止めること。そのためには自分の価値観や道徳的規範でジャッジするのでなく、事態を「カメラで収めたかのように観察」することが大事であるということだ。

「ニーズ」について

このNVC特有の「ニーズ」という概念もなかなか理解しづらいかもしれない。
これは例えば、相手の言動に不快を覚えたとき「なぜこんな感情がわいてくるのか」と探っていった先にある潜在的な欲求がニーズだと言える。
感情の理由ともいえるし、今必要としていることともいえる。自分の大事なニーズがあるのと同じように、相手にも大事なニーズがある。

ニーズについては、ローゼンバーグ氏の著書にある例を取ってみるとわかりやすいかもしれない。

相手「あなたのような自己中心的な人間は初めてだ」
・相手を責める受け止め方:「あなたにそんなことをいう権利はない。わたしはいつも、あなたが何を必要としているのかを考えている。ほんとうに自己中心的なのはあなただ」
・自分のニーズに意識を向けた受け止め方:「わたしほど自己中心的な人間はいないというあなたの言葉を聞くと、あなたを尊重するためにしている努力を少しでも認めてもらいたいので傷つきます」

マーシャル・B・ローゼンバーグ「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む方法」p98

会話のどこにニーズが表明されているか、わかるかと思う。
もっとわかりやすく言うと、何かに怒っている人は「オレには今何々が必要だ!!何々が満たされないから傷ついている!!」とニーズを叫んでいるに等しい。
「何々」の部分には、例えば「信頼」だったり「愛情」だったり「調和」「安心」などに置き換えられる。
NVCではそういった人間の普遍的なニーズを「ニーズリスト」として100個近くにまとめ、自分でも気が付きにくい「オレって何が必要なんだっけ」という疑問にいつでも照らし合わすことができる。
(※ニーズは必ずしも100個に限定されるわけでなく、あくまで基本的なものとして挙げられている。)

NVCでは感情はニーズに気が付くためのサインとしてとても大事にされる。
ローゼンバーグ氏は著書で、ニーズを「自分の感情に責任を持つ」とも表現している。苛立ちを他人や環境のせいにすることの方が楽かもしれないが、「自分の感情と自分の必要としていることとつながっているということを自覚すればするほど、相手は思いやりをもって対応しやすくなる」(ローゼンバーグ,p100)。
実際感情にからめとられて相手を責めれば責めるほど、息苦しくなるのは自分だったりする。

時々自分がどんな気持ちでいるのか見失ってしまうこともあるので、感情もリストになって、自分がどんな感情に晒されているのかを確かめることができる。こうして感情からニーズを探っていき、そうかオレは何々が大事だったんだと気づき、相手の感情・ニーズにも思いを寄せたとき、審判や処罰、断罪という方法でなく、共感をベースにしたコミュニケーションへと変容していく。

ここら辺のNVCとはなんぞや的なことを書いてるととめどなくなってしまうので、ちょっと面白そうだなと思った人はぜひ書籍を読んでみていただきたい(面白さが伝わっているかは不安だが)。ニーズを引き出していく魔法のようなコミュニケーション例がいっぱい載っていて、それを読むだけでも目からうろこだ。

自己共感を体験する

会ではNVCの概要を学んだあと、まず複数人での実践の前に一人一人が「自己共感」に取り組んでみることから始めた。

1.まず、今何かひっかかっている出来事、誰かとの会話などを思いだしてみる。
2.まるでカメラで撮影しているかのように、その情景をジャッジ抜きで観察してみる。(観察)
3.そのときの感情を思い出し、感情リストから選んでみる。感情を思い出しているときの身体の状態に注目してみるのも自分を客観視するのに役立つ。(感情)
4.その感情が、自分のどんなニーズを損ねていたから湧いてきたのか
ニーズリストから選んでみる。(ニーズ)
5.そのうえで自分自身にできること、あるいは相手にしてほしいことを書いてみる(リクエスト)。

これを紙に書いていく。
自己共感は相手への共感のためのただの練習ではない。まずは自分自身のニーズに気づく、ということからNVCは始まる。自分のニーズが損なわれていたことに深く接することで、自分自身を労わり、認める。その状態がないまま相手ばかり認めようと思っても、余計に自分に負荷がかかってしまう。

感情

感情の段階でオレはいつもとにかく自分をごまかさずに素直に気持ちを吐き出すように書く。相手を責める気持ちだけでなく、自分を責める気持ちも混在していることがほとんどだ。それをできるかぎり分けて書くことで、だんだんと整理がついてくる。他人には決して読ませられないような言葉が並ぶが、こんなところでまで自分をごまかして常識人あるいは善人のような顔して取り繕っても自分の必要としていることには出会えない(少なくともオレは)。

観察

観察も大事なプロセスだ。通常NVCでは第一のプロセスに位置づけられるが、オレは最初に感情を吐き出した方がうまくいく感じがしていて、自分で見るのもいやになるようなこの不快な言葉がどんなモノゴトに反応して引き起こされているのか、観察に集中できる気がしている。
例えば「あいつはいつも遅刻して許せない」ではなく「あいつはこの1週間で3回遅刻した」という事実を抜き出すと、自らの主観や感情的なジャッジからモノゴトがいったん切り離されて、どのような行為がどの程度自分の気持ちを害しているのか客観的に見れるようになり、気持ちが落ち着いてくるのがわかる。ここまでくるとだんだん自分の必要としているニーズが何なのか見えてくる気がする。

リクエスト

リクエストも、オレ的には荒唐無稽でかまわない。だれだれに何々してほしい、オレ自身にはこんなことをしていきたい、これもいくつも出す。オレはそこから、じゃあ現実的にどんな選択肢なら可能か、と考える。するとどう考えても自他を不幸に陥れることは除かれていくし、物理的に無理なものも除かれる。
ああ、オレは○○が大事で今それに満たされていないけれど、今ここにおいてはいろんな理由でそれができない。ならば今できることをやることが最善だし、自分のニーズはこんな方法で満たすことができるかもしれない。などと思っていると、残った選択肢にも自分で納得がいくようになっている。ここまでくると、ふっと息が抜けて少し力を取り戻したような感覚になる。

この自己共感はNVCを知ってからわりと日常的に自分でやってきたのだが、今回多くの人と共にNVCを学ぶ機会にいるということもあって、ワークをやっているうちに「実はオレは自分のことを誰かに聞いてもらいたんだ」という気持ちに気が付いた。
人の出入りの少ない田舎で自宅で自営業でとなると、普段自分のことを話す機会もあまりなく、たとえ話をしたとしても、たいていジャッジや指導に置き換わってしまうので、安心して自分を開示するということができていなかった。そのように自分を閉じ込めてしまっていたかもしれない。
まさに「オレは共感を必要としているから、自分のことを話し切ってほしい」と自分へリクエストしていたのは新しい発見だった。

自己共感ワークが終わってから昼食となったが、しばらくこの「誰かに自分のことを話しきってくれ」という湧き上がる感覚に浸り、なんだか自分は孤独が好きだなんて言ってるけど、安心してつながれるこういう場が欲しかったんだなぁと、午後からの共感サークルが待ち遠しくなっていた。

長くなったので次回へ続く。


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