齋藤晶

個人塾で、主に小学生に国語を教えています。勉強の方法とか、教えていて気付いたことや考え…

齋藤晶

個人塾で、主に小学生に国語を教えています。勉強の方法とか、教えていて気付いたことや考えたことを書いて行きたいと思います。宜しくお願いします。

最近の記事

年のはじめの、中年の雑感

 ささやかな偶然の話をしようと思う。  前にもnoteに書いたが自分は文筆家 吉川浩満さんのファンだ。(https://note.com/aki_20201012/n/n78864fea565f)『哲学の門前』でも、昨年の文学フリマでリリースされた『人文的、あまりに人文的』でも、滋養に富む文体は心の栄養だ。  それで昨年暮れ、「吉川さんの手紙に返事を書いて(あわよくば)お返事をもらおう!」という鳥取県による(?)企画に、当然胸をときめかせたわけである。こうしてみちみちとno

    • 子どもの勉強と競争させることの関係

       個人的なことだがこの2,3年で職場環境が大きく変わった。いわゆる諸般の事情というヤツで、全教科の先生が揃う集団授業が前提の中学受験塾から、完全個別指導のみの個人塾になったのだ。2023年はその移行が完全に完了した年だった。  自分ひとりで回す個別指導のみにシフトした時、実践して良かったな、正しかったな、と思うのは競争からすっかり降りてしまったことだった。これが、子どもにとって勉強する際、精神衛生上すこぶるよろしい。  子どもというのは本質的に不器用なものだ。なにしろ、ま

      • ガザに、即時停戦を。

         旧Twitter(X)で、ガザのあまりの惨状と、(自分が原因のくせして)それとはあまりに対照的なイスラエル公式系の軽薄なツイートにキレて、怒りにまかせたリプライを書いた瞬間に、アカウントをロックされてしまった。文字通り一瞬にしてだった。  怒りの表明自体は、例えばバイデンやブリンケンのアカウントに対してもこまめに行っているが、こちらはそんなことにならない。そこまでキレてないからかもしれない。それにしても早かった。Twitter運営もかなり神経質にやってる印象を受けた。  

        • 村上春樹 次作への期待

           Twitter(X)でつぶやいたことをnoteに残してみよう。 パレスチナ情勢を追っている今日この頃、あまりに圧倒的な情報の洪水の中で、自分の考えたことがどんどん流れ去っていってしまうので。  写真は、同じくTwitter(X)で拾った、イスラエルによって破壊されたガザのモスク。以下が、自分のツイート。  ふと思ったんだけど、村上春樹は少なくとももう一作、長編小説を書くのではなかろうか。  『街と、その不確かな壁』があまりに村上ワールドの完成形だったので、この人これ書い

        年のはじめの、中年の雑感

          吉川浩満著『哲学の門前』を読みました

          https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011938 個人的な印象なのだが、吉川さん(と親しげに呼ぶファンは多い)の文章やお話から、よく「圧のかかったねじれ」という感じを自分は受ける。ご著書から、あるいはclubhouseでのお話から(不思議と山本貴光さんとのコンビネーションだとその印象が生じない)。例えば、簡単に誘導されそうな方向性がそこにある時、吉川さんは必ず、すぐさま逆の可能性を提示される。前者はすこぶる魅力的だが、後

          吉川浩満著『哲学の門前』を読みました

          初めての文法の授業

          今日、この春小学3年になる子たちに、初めての文法の授業をやった。写真は、その板書。 「文法の"法"は、忍法の"法"」は、生徒の意見。今年のテーマは「自分から考える」と申し渡してあり、積極的な発言を要求する。 ただ、ともすると子どもは「こんな時にありがちな言い方」を雰囲気で出してくる。 なので、「え、それ、実際どうすること?」と聞くようにしている。 忍法も、実際どんななの?と聞くと、みんな左手のグーから突き出した人差し指を右手で握って、右手の人差し指も突き出すようにする(見事

          初めての文法の授業

          小論文を書けるように、中学生を育てる

          自分は、小学生対象の塾で教えているが、時々、「もっと習い続けたい」と、中学生や高校生になっても卒業しない子がいる。 或いは、一旦卒業してから、再び教わりに来る場合もある。以前は、古文と説明文でセンター試験に対応できるようになりたい、という案件が多かった。 このところ、小論文が書けるようになりたいというオーダーが連続した。 それもあって、中高一貫校に通っている中学生に、敢えて県立高校の入試問題を与え、「意見を述べる」という訓練をしてみようと思った。 まずはチャレンジ 欧米人

          小論文を書けるように、中学生を育てる

          文法に基づく読解

          先日、zoomで授業をしていたら、Wi-Fiの電波状況が悪くて、最後落ちてしまった。 仕方ないので、説明しきれなかった部分をiPadで録画し、YouTubeにアップしてみたら、意外にコンパクトに要所の説明がなされていて面白かったので、noteに上げてみることにした。 教材にした文章は、木下順二の『ききみみずきん』である。一文が意外に長く、複文の構造を持っている場合が多くて、これを読み取れるかどうかで、小学校中学年程度の読解力か、低学年のそれかがテストされる印象を持っている。

          文法に基づく読解

          地力を涵養することが肝要

          中学受験の勉強を見ていると、どうしても目の前の点数を(特に親御さんは)気にしてしまう。 これは多分、それ以外に勉強の力を測る尺度がないからだろう。 テストの点数は、氷山の一角というか、その時本人が持っている力の一部の現れに過ぎない。 当然だが、本人の持っている力(地力)を涵養しないことには、点数は上がらない。 そして、テストの回数を積むだけでは、地力は涵養されない。テストは、理解できたかどうかを切り取りはするが、理解力を育てることはしない。 地力の涵養とは、本人が変わること

          地力を涵養することが肝要

          筋道立てた話し方

          エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』を、5年生と講読している。 https://www.google.com/search?q=%E7%82%B9%E5%AD%90%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3&tbm= この前は主人公点子ちゃんが、親友のアントンの為に活躍する場面をやった。 アントンは重い病気の母親の代わりにお金も儲けるし家事もする。学校で居眠りもす

          筋道立てた話し方

          哲学がくれた教育の展望 その2

          これは、前回書いた、子どもの教育の底が抜けた問の続き、その後発見していった自分なりの教育方法のお話です。ご高覧いただけたら。 https://note.com/aki_20201012/n/na1c5efa08180 異次元の問題波乱に満ちた2020年か終わって行こうとしている。 今のところ、ウチの塾は、あらゆる意味で無事である。しかし、世間を見れば、コロナ禍も経済も、全く予断を許さない状況だ。 見通しの立たない今のこの状況を奇貨として、子どもとは何か、教育とはどうある

          哲学がくれた教育の展望 その2

          哲学がくれた教育の展望

          まえがき塾で小学生に国語を教えている自分が、哲学を勉強し始めた頃のことを書いてみようと思う。2018年の頃だ。 自分の教え方のノウハウが通じない局面が、同時多発的に、低学年から高学年に渡って起きてきたことが原因だった。 30余年教えてきた経験則が自分の資本。なのに、ある時突然、通じる手応えがほとんどしなくなってしまったのだ。 あの頃は怖かったな… 夜、授業が終わってから、意味もなく、ぐるぐると夜の街を歩き回った。答えの見えない状況の中、だからどうなるわけでもないけど、前に進

          哲学がくれた教育の展望

          「それは」をめぐる冒険 〜文章読解における文法の使い勝手〜

          今回、高学年の長文読解術について書いてみました(エッセイ風にするつもりが、研究授業のレポートみたいになってしまった…)。結構、踏み込んだ内容です。ご高覧いただけたら。 1)児童文学の古典をテキストに5年生と、エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』読解にずっとに取り組んでいる。児童文学の古典的名作であり、文体(個人的に子どもの頃から親しんだ高橋健二訳を選択)も構成も洒落ていて、今読んでもとても垢抜けた印象だ。ジェンダー観やルッキズム、ステレオ・タイプなど、結構問題点も多

          「それは」をめぐる冒険 〜文章読解における文法の使い勝手〜

          辞書引きは難しい②(文法と哲学を、国語教育の武器にして)

          子ども達に国語の勉強を教えていていつも感じるのは、 ①どんな発言が出てくるか分からないが、 ②どんな発言であれ、拾い上げて対応するべきで、 ③その為には、文法と哲学が大変に強力な武器になる という事だ。 子どもの発言は、常に、「その子にとって自然な」常識から出てくる。 それを間違っていると頭ごなしに否定して、別の、正しい内容を教え込んだとしても、なかなか、その正しい知識を、自分のものにして使いこなせるようにはならない。 先日、『辞書引きは難しい①』というブログをアップした

          辞書引きは難しい②(文法と哲学を、国語教育の武器にして)

          雰囲気症候群? その2 (哲学的に行こう!)

          先日、初めてnoteにブログを書いた。題して『雰囲気症候群?』。 https://note.com/aki_20201012/n/nabc02a6f6d19 小学生に国語の勉強を教えていて感じた疑問を書き留めた。 教えている時、勉強を進める・深めるということと、子どもの素直で正直なリアクションとの間に齟齬を感じることが、ままある。 今回は、2年生の授業で、気になることがあった。 授業の課題は、ずっと取り組んできたリンドグレーンの名作『ロッタちゃんのひっこし』。 https

          雰囲気症候群? その2 (哲学的に行こう!)

          辞書引きは難しい①

          辞書引きは難しい。 小学生と勉強していてつくづくそう思う。 特に高学年になって、中学受験の入試に出るような文章に取り組み始めると、途端に難しくなる。新書や、文化人・知識人による新聞のコラムくらいの文章。子どもを読者に想定して書かれてはいない。 この前4年生と、日高敏隆『世界を、こんなふうに見てごらん』を勉強した。 https://bookmeter.com/books/6098789 4年生というのは、「子ども向け」=低学年の世界を卒業して、「大人向け」の世界の入り口に

          辞書引きは難しい①